2018年3月6日火曜日
なぜ日本の治安はいいのか
今日頭条という中国のサイトに「中国人が羨ましいと思う日本のコト」というのがアップされているそうだ。そのなかに、「小学生が一人で学校へ通える」というのもあったが、「日本の住宅の窓には格子がない」というのがあった。中国の住宅は、中層住宅でも窓は外から侵入できないように格子が入っているという。それが牢獄にいるような気分にさせるが、日本の住宅は羨ましい、と。
窓に格子が入っているかどうかが、その家に侵入するかどうかの目安になるというのは、日本人にとって「結界」というのは、ほんの仕切り程度でも意味を持っていることを示している。「結界」というのは、わが身と他人のそれぞれがもっていると考える「界」を決する端境。ちうことは、中国人にそれが意味を持たないのは、彼らの「界」が入り組んでいるか、私の界は私のもの、人の界も私のものというような、(情況によって)侵入するかどうかは「わたしの意思」に依ると考えているからではないか。
他人の「界」を尊重するというのは、共同生活をする者にとって大変重要な要素である。たとえば日本の学校では、体育の授業のとき、生徒は自分の脱いだ衣服を教室の自分の机の上に置いておく。それでも何かが盗まれるという警戒をしない。それを知ったドイツの教師は、とても驚いた。ドイツでは、廊下に荷物を置いておくが、同時に生徒の当番をつくって、彼らが授業の間その荷物の番をするのだという。あるいは、教室の机の上に鉛筆や消しゴムを置いておくと、ドイツでは捨てられたものとして誰かがもっていってしまうというのだ。これは、日本人の「共同性」感覚(他者との関係感覚)がドイツや中国のそれと大きく異なると考えざるを得ない。この感性は、ほんとうに長い間の暮らしの中で紡いできた気風だと、私は思っている。
もう何十年も前に山本七平という人が、「日本人は水と安全はタダだと思っている」と批判する日本人論を展開したことがある。そのときは、「島国根性」というのを否定的にとらえて、山本の論調を読みこんでいたのだが、今日頭条の「羨ましい」を読むと、はたして日本人の気風を否定的に見る方がいいのかどうか。むしろ、このような特殊な(とすると)情況に暮らしていることを、言祝ぎたいと思う。素朴で人を疑うことを知らないバカな日本人と嗤われるかもしれないが、社会体制に依存し、水と安全がタダだと思うほどのんびりと平和に暮らしている日本人というと、どこかで聞いたことがある。そうだ、東方見聞録に採録されたジパングではないか。
思えばペリーが開国を求めて日本にやって来た時、応対した幕府の中堅どころの役人が応えたことを思い出す。「あなた方の必要とする水と食料の補給はときできるようにして差し上げましょう。だが、外国との通商は(今以上に)なくとも、私たちは平穏に暮らしを立ててきている。それゆえ、通商までは行おうと考えていません」と説いた。誰であったか、そのときの模様を史料を用いて解説していたが、ペリーはその応対に非常に感服して、通商条約の締結は留保して引き上げた、とあった。それを強引に、通商条約を締結しないなら開戦だと強引に詰め寄ったのは、のちに来たハリスであったと、私は理解している。ま、いまさら「開国」かどうかを論じるのはバカげているが、ネイションシップというか国柄というか、人々が身につけてきた気風を、そう簡単に世界標準にそろえようなどと考えない方がいい。もしそれを美風というのなら、それを支えるお人好しの、ナイーブな人たちとその気風をどう守っていくか、考えた方がいいと思った。
さて今日から、その中国の一角にある香港に行ってきます。香港は今、大陸中国にほぼ八割方呑み込まれていると言われている。私が滞在する11日に、香港の立法院の選挙もあるが、いわゆる雨傘運動を行った若い人たちはすでに、立候補資格がないとされて排斥されてしまったとも聞く。どんなところか、じつは鳥を観て来ようというだけなのだが、選挙の渦中の香港を歩いてくる。
そういうわけでほぼ一週間、今度お目にかかるのは、13日にでもなりましょうか。それまで、皆さんお元気で。
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