2018年3月26日月曜日
わたしは保守化したのか?
先日大学時代のサークル仲間と会う機会があった。鳥取や浜松からも駆けつけ、なかには卒業以来52年ぶりという人もいた。私より一つ年上の方が仕事から身を引いてボランティアをしている公園を散策し、夕方になって会食をした。1960年代の前半、サークル時代にわりと親密に過ごした(近い)世代の人たちだったせいで、近況もうちとけて話しが弾んだ。私のなかでは半世紀以上の時空が溶け合って眼前に浮かんでくるようであった。皆、古稀を超えている。
今年喜寿を迎えるOさんは、若いころから悪い片方の目がほとんど見えなくなっているのに、国会へのデモに行っていると話す。貧者の一灯を掲げ続けるという風情の彼は、若いころから弱い者の味方をする気質を持ち、理系の専門家ということもあってか単純素朴こそ真理に近いを旨とする性分をもっていた。学生のころ半年ばかり彼と下宿をともにしたこともあって、数年に一度くらいのペースで顔を合わせてはいたから、飄々として衰えない彼の気力に私は安堵を覚えていた。
Bさんは私と同期。日本の歴史を専門とし、仕事をリタイヤして以来、旧家の古文書を読み解く研究会を持ち、その会報を年に4回ほど刊行していると、最近号をくれた。57号である。その冊子の編集スタイルと言い、体裁と言い、学生の頃のサークル活動の様子を彷彿とさせる。もちろん当時は活版印刷であり、彼の手ずからなるはガリ刷りであったが、パソコンに置き換えて相も変わらずだなとうれしくなる。それとともに、彼の風貌も、後期高齢者の顔から若いころのそれへと変わってくるように思うのは、私の脳内幻想が時計を巻き戻しているようであった。
Mkさんは長く新聞記者というマスメディアに努め、退職後に老人ホームなどの創設と経営に携わっていたが、それもやめて今は緑地公園のボランティアをしている。やはり今年喜寿を迎える。彼の案内してくれた古民家の一番古いのが、1687年の建築という。いまから350年も昔のもの。修復修築という手を入れてはあるが、今のように築後50年もすれば立て直しというのと違って、古材を使えるだけ使う。その(精神の)響きが私たちの育ったころ身につけた感性にマッチする。彼は「江戸の空気に触れている」と感懐を話していたが、そう言えば私たちの成人した1960年代初頭にはまだ、江戸の風景がそこここに残っていた。高度経済成長期に一挙に、風景が変わっていったと国土地理院の編年の地図を用いて記していた本もあった。私たちの体そのものが江戸の気風を受け継いでいる。そんなことを考えながら、Mさんの一歩引いて物事を見つめる気配に、若いころとの一貫性を感じて、ひとって変わらないものだと思ったりした。
Mrさんは浜松から駆けつけた。私の三年後輩。実に52年ぶりの再開である。芸術学科にいた彼が卒業後に自動車のデザインをしていたというのは初耳であった。彼が入会したとき、サークルで私と同期のMrtとが激しく議論していて驚いたという。私はすっかり忘れていたのを思い出した。そうだ、当時私は「文化状況論」に夢中になり、農業化学を専攻していたMrtは当時興隆していたサイバネティクス論を政治論に結びつけて意気軒昂であった。何をどう論じ合っていたか、おぼろげな印象しか残っていないが、もし当時の論議をきちんと採録して残していれば、今の私との距離を測るのに役に立ったかもしれない。Mrtは50歳代の半ばに脳梗塞を患い、しかし見事に復帰して教壇に立っていると、復活した本人から聞いた。そうして十年余を経て亡くなったと彼の連れ合いから知らせを受け取ったのではなかったか。もうぼんやりと鬼籍の彼方に溶け込みはじめている。
鳥取からやってきたHさんは2年後輩。土壌と農学の研究者。大学の修士課程を終えさらに何年も就職口がなく、付属高校の非常勤講師をして口を糊していた。そして30歳で大学に仕事を得て鳥取に移り住んでもう43年になるか。メキシコに学生を連れて行って「実習」を行うのが楽しかったと話す。現地集合・現地解散でやると、学生たちの変わりようが目に見えてきて、これほど意味のある「実習」はないと感じたそうだ。だが、もし途中で事故でもあったらだれが責任をとるのだと親が詰め寄って、その後は教師が引率するようになったと笑う。そのHさんのセンスこそ、60年代の私たちの年代が共有していた「自律の精神」ではなかったかと私は思いながら聞いた。
近況を話し始める前であったろうか、Kさんが「まだしていない人もいるでしょうから」と署名用紙を回し始めた。「憲法九条を守る」と銘打っている。新聞の全面広告へのカンパもしてほしいという。一番最初に近況を話したOさんの前だったように、それから三日たって今想いうかべている。あまり皆さんに違和感がなかったので私はつい、「九条にしても、半世紀前と同じ心もちで守るというのとは違う深まりをしていないと、おかしいのではないか。大澤真幸や柄谷行人らの国際関係への提案などをどう考えているのだろうか」と、誰にともなく質したくなった。私は「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」という覚悟という、存在論的な哲学的根拠に脚を届かせているかを聞いて見たかった。しかし一年先輩の、ジャーナリストであったMさんが大澤真幸の名前を初耳のように聞いているのをみて、私の問いが場違いだと感じて、話しをそこで止めた。Oさんの話は、だからその問いに対する彼の応えのように感じられ、それはそれで確かな彼の立ち位置を感じさせたのであった。
というのは、最期のほうでKさんが「皆さん保守化したというか、右傾化したというか、変わってしまって」と近況を話したので、ああこれは、先ほどの私の発言に対する彼女なりの応え方なんだと受け止めたからだ。Kさんは米文学の研究者として大学で教鞭をとり、人とのかかわりを大事にして過ごしてきた方。Hさんと同じく2年後輩。その当時の女性たちと今でもときどき会うネットワークを持っている。彼女に言わせると、「九条を護る」という言葉に違和感を覚えるのは、「保守化したか、右傾化した」のである。そうか、私は保守化したのか。右傾化したのか。そう考えると、そうかなあと自問自答が、内心にあぶくのように浮かび上がってくる。
60年代はみな左翼であったと田原総一郎もいっているが、(当時)知的であるとは左翼を意味したと私は常々考えてきた。Kさんはその枠組みを(今でも)保持しながら、保守化した、右傾化したと言っているのだろうか。私の思索内部では、とっくに左翼―右翼という構図も、保守―革新という対立も、左傾化―右傾化という絵柄も揮発してしまった。「にんげん」や「しゃかい」に対する認識が深まり、そこに「じぶん」を位置づけることが明確に行われるにつれ、「じぶん」の輪郭が描き出されてくる。それとともに、「せかい」が浮き彫りになる。と同時に、「せかい」の向こうに無明の闇が広がっているように見える。もちろん「無無明尽」といように、無明をわかりつくすということもないとわかる(ように直感する)。そのように「じぶん」の輪郭が描きとれるとは、「じぶん」(のよって立つ根拠)が明らかになるにつれ、ますます闇が深くなることを、「保守化」というのであろうか。「右傾化」とは自らへの視線を持った思考の先にある概念とは、とうてい思えない。Kさんのいうのは、政治的次元の賛否の対立構図に限定しての、慨嘆なのであろう。
でもそれは、私たちが若いころから志してきたことなのか? 先ほど私は、Mrtとの論議のときに「文化状況論」に関心を傾けていたといった。サイバネティクス論を政治論と結びつけるMrtの人間論に、操作的な人間像を感じとっていたからではないかと、いまなら言葉を紡ぐことができる。もちろん当時は、そのような発想も表現も持つことがなかったから、Mrtとの論争は、謂うならば私の「じぶん」との戦いの切歯扼腕が表出したものにほかならなかった(と未熟な当時の己を思う)。
せっかく半世紀ぶりにあって、歩み来たりし距離の違いを照らし出してみるというのも面白いと感じているが、同時に、昔のまゝに社会や政治の構図をとらえて「じぶん」を位置づけているのでは、歳をとった意味がないではないかと問いかけたくなったりする。そんな「文化との戦い」を感じたひとときでした。
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