2018年3月3日土曜日

有機体の人間でいたい


 今日、お昼を食べながらTVをつけたら「最期の授業」という番組の再放送で、石黒浩・大阪大学教授が、学生さんを相手に「何かの」講義をしているのが目にとまった。自分そっくりのアンドロイドをつくり、ほぼ80%程度イシグロの理知的な判断の通りに言説をくりだすことができる、という。面白いと思ったのは、有機体ではないこのアンドロイドは「人間」なのかどうかと、学生さんに問う。当然答えは、NOだ。


 だが石黒教授は、千年単位でものを考えると、千年先の人間は無機物になっている可能性がある、というのだ。彼は、人間というのは動物+技術だという。その技術の部分は、高度になればなるほど、人間の能力の延長として無機物を構成して力を伸ばしてきた。手や脚を工学的に入れ替えて行けば、明らかに生身の人間がもつ以上の運動能力を獲得することになることは、パラリンピックが証明しつつある。カーツワイルによれば、2045年にはAIが人の能力を超えるという。資本家社会の論理がこのまま引き続き世の中を席巻するとなると、AIは人間を滅ぼすのではないかと、関連図書は危機感を煽り立てている。そのロボットの最先端の研究者が千年後の「予言」をしているのだ。人間は無機物になる、と。これは、初耳だった。新鮮でもあった。

 いいか悪いかということではない。私はこれまでAIと人間が異なるのは、人間はアルゴリズムで動いていないという点にあった。アルゴリズムというのは、一つひとつの思考過程を分節化して「YES―NO」の判断をして、次の段階に入る。もちろん、もう一度元に戻ることもあるが、戻ったからと言って、YESがNOに変わることはあっても、判断がつかないことは、ない。もし判断がつかなくなったら、その時点で、アルゴリズムの流れからステップアウトすることになる。つまり、システムからはずれえるのだ。これは人間というものが、いつだってものごとの判断を迷う、決められない存在だからだ。近代社会は、その判断保留というのを許さないシステムを構築してきた。結論を先延ばしにすることはあっても、判断できないということは、許容されないのだ。そのようにして資本家社会のシステムは、労働力を商品化し、人間を機械のパーツにしてしまった。

 人間の本質は「動物+技術」だというのは、資本家社会の論理に整合的に突き詰めた先にある千年後だと言える。利益獲得を最高の価値とするシステムは、人間そのものを変えてきている。臓器移植も、脳死を人の死とするということも、人間の感性や感覚そのものを、システムに適応するように変えているのだ。だから、千年後の人間の感性や感覚が、もはや有機体に対する執着さえ失って、無機物で再構成されたアンドロイドになっていくことを良しとする方向へ、適応していくことは、十分ありうる。でもそれは、感性や感覚を失うことではないのか。私はそのような人間になることを望まない。

 それは言葉を変えて言えば、動物そのものを離脱することはないと執着することでもある。いくら情報や知識や古来からの知恵を詰め込んでいても、「じぶん」自身を対象化してみて、自信の感性や感覚の根拠を問い、自らの思索の偏りの根拠にも問いかけをする。その自己対象化の原動力になるのは、間違いなく「じぶん」の感性や感覚、感情だ。もしシンギュラリティが感性や感覚や感情を、「もどき」によって真似るのではなく、それ自体を機械的に生み出すことができるのであれば、つまり、無機物が感性や感覚を持ち、感情を有するようになるのであれば、それが人間と「対等」な位置に立って社会を構成する何がしかの役割を果たすであろうが、アルゴリズムからは、それは生まれない。

 ふと、そんなことを考えながら、27年後の世界に思いを巡らしたりした。

0 件のコメント:

コメントを投稿