2018年3月21日水曜日

近代化への罪の意識


 寒いお彼岸になった。最高気温も6度ほど。昨日から雨が降り続く。予定通りなら今ごろ、霙のなかの山を歩いているはずだった。一週間延期してよかった。予報を見ると明日の最高気温は16度くらいになるそうだから、「…寒さも彼岸まで」とはなりそうだ。


 映画『馬を放つ』をみた。「2017年、キルギス・フランス・ドイツ・オランダ・日本」と制作関係国が記されているのは、共同出資して制作したということか、それとも、フィルム、現像、音響、配給、資金などの提供を連ねたからなのか。監督は、脚本・主演ともアクタン・アリム・クバト、キルギスの人らしい。

 物語は単純明快。ケンタウロスの異名を持つキルギスの男が、肉として売られていく馬や高額な競走馬を盗んで野に解き放つ。その男をめぐって人々は、はじめ牧歌的な伝説に心惹かれて共同体的な包摂を試み、しかし宗教的な軛に抗すべくもなく、その男を追放する。簡略化して言えば、そういうお話だ。これも「岩波ホール創立50周年記念作品」と銘打っている。

 馬を解き放つケンタウロスを撃ち殺すのは、自他ともに認める「馬泥棒」。彼は馬を盗んで隣国へ売り飛ばす商売をしている。つまり、近代化の象徴的存在である。岩波のチラシは「未来への希望を託す、現代の寓話」と称賛する。ケンタウロスが倒れたとき、それと同期するかのようにケンタウロスの息子が吊橋の上で転ぶ。抱き起こす母親とともに無邪気に橋を渡っていくのを、「未来への希望」と意味づけたのであろう。だが(いまどき)、そんなことを繰り返しているときなのだろうか、私たちのいる世界は。

 原理的なことを言い続けている限り、つねにその人は正しい。原理的なことを口にするとき人は、自分が置かれている立場を抽象し、遥か神のような高みに上げてものごとをみているからだ。つまり常に正しくありたい人は、いつも原理的なことだけを口にしていればいい。その口が何によって(いかにして)糊しているかに触れなければ、誰もが同じように口に入れているから、非難されることはないのだ。「ベルリン映画祭国際アートシネマ連盟賞」を得たとか、「カンヌ、ベルリン、ロカルノ、世界が絶賛する名匠」とか、外の権威によって衣装をまとう以前に、自らの口に入れているものを踏まえて物語をみつめるってことを、映画選定をしている岩波さんも覚えたらどうか。このところ、映画『笑う故郷』(アルゼンチン、2016年)以外、これといった「当たり」に出くわさない。ま、映画には当たりはずれもあると思ってはいるものの、こんな原理主義的なものばかりなら、はるかにTVドラマの方が深みもあるし人間認識も複雑さを加味していて、見ごたえがある。

 それとも、近代化をすすめてきたことへの罪の意識を自己批評的に反映しているのであろうか。それならそれと、監督や脚本に批判を向けなければならないね。

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