国分功一郎のジョン・ロック批判をワタシへの批判と受け止めて理解するとともに、しかし、「哲学ではなく意見だ」というのであっても、この視点を外せないと感じています。そのワケを考えてみたい。
前回紹介した《★「哲学する」グレーゾーン》(2021-12-29ブログ記事)の末尾で、
《しかし私は、市井の庶民流の哲学する志を持ち続けていきたい。開き直るわけではなく、庶民の市井の道を歩いて行きたいと思う》
と記しましたが、この歳になって「志を持ち続けたい」なんておこがましい。今現在の私が「市井の庶民」そのものです。それにこれまで一度も専門的な哲学の境内に立ったこともなく、ただただ門前の小僧だったのですから、ワタシの内側を見つめても「庶民としての」視線しか取り出しようがありません。そのワタシの内面的な営みがどのように行われてきたかを取り出すことができれば、専門家ではない市井の庶民の自己省察が浮かび上がるかもしれないと思っています。
その手がかりを、「ツナシマさんの80歳の風景」においてツナシマさんの取り上げる「知・情・意」をワタシはどうとらえているか,腑分けして考えてみようと思った次第です。ツナシマさんの「80歳の風景」に私は勝手に(1)~(6)までの番号を振らせていただきました。それに沿って話を進めましょう。
ツナシマさんは《(4)私の抄録作成の仕事と知情意》で、
「純粋な技術論文や技術専門雑誌、経営・行政に関連した記事を300~400字程度に要約する仕事をしている。抄訳はデータベース化される。(…)仕事は基本的には、著者の意向を正しく理解し、正しく伝えることを考えている。本文中の記述で知の部分を引用し、情、意の部分は捨てることが多い。あいまいな形容詞なども捨てるとことが多い。こうしたことを長く続けていると知に偏向した人間にならないかと危惧し注意している」
と記しています。
大変な仕事を、80歳になった今も続けておられることに敬意を表します。専門家の書いた論文を専門家が読むサマリーを作成していると見受けます。
ツナシマさんも《(2)原子力発電の導入と事故後》で《大学では「科学技術コミュニケーション」の研究が開始された》と触れていますが、これがたぶん,科学技術的な「知的分野」のことを読み取る技法である「科学技術リテラシー」に関する研究なのだろうと思います。
考えるに、それにも二通りあって、一つは専門家が一般の庶民に(専門分野のことを)伝える技法、もう一つは一般の庶民が科学技術的な領野のことを読み取る能力をどう培うかという受けとる技法の研究です。昔なら専門家が一般の庶民に「説く」のですから、啓蒙的な要素をどう組み込むかと考えたでしょう。ですが、たぶん今はそれと違って、専門家は一般の庶民が何にどう関心をもちヒトの暮らしに於いて専門家の研究はどうかかわっているかを知る分野として「研究」が行われているのだろうと推察しています。啓蒙とはひと味違う双方向性が意識されてきているのですね。
近頃は「情報化社会」ということもありましょうが、メディアがさまざまな分野の専門家が探求しているモノゴトを手短に紹介したり、画像に置き換えてわかりやすく解説する情報番組が流れてきます。私たち市井の庶民は、オモシロそうなものに食いつきます。
それは必ずしも役に立つか立たないかということに限りません。へえと思うような「発見」には強い興味を示します。たとえば、完全変態を遂げて成虫になる昆虫の場合、蛹の中はどうなっているのかと関心を持つのは、子ども時代。その中を解剖してみて、「ドロドロだった」と驚いた記憶を記しているのは生物学者の福岡伸一さん。ところがつい先日のNHKの進化論を紹介する番組では、蛹の中を透視する技術を用いて、成虫になる準備の腱が形成されていく過程が撮影されている。これは、ますます自然の不思議を感じさせました。
ではそれがどう庶民の暮らしに役立つのかと問いを立てると、いえいえ、役に立つことは何にもありませんよと応えるしかありません。でも、そうして、不思議を感じるということは、世界を感じることだと私は思っています。ヒトのクセです。
よく啓蒙的な専門家は庶民に対するとき、知らないことを教えると思うようですが、そうじゃないとワタシは今考えています。知らないことを教わると、その分(庶民の)知識は増えますが、それはそれだけのことです。「〈知らない〉ということを感じさせる」のが「科学技術リテラシー」の極意だとワタシは感じています。不思議を感じるということは「知らない世界がある」と、興味関心が蠢き出すインセンティブを養うことです。この蠢きが庶民の「知性」だと思います。もちろん専門家は、「知性」を現実化して専門領域に於ける知的蓄積を行います。庶民はその専門家の(マンネリズムに耐えて行う試行錯誤の)研究に敬意を払っているわけです。
そのとき、専門家の研究がもっている限定性があります。ツナシマさんが扱う「純粋な技術論文」にしても、それが前提する「成立条件」があります。ことに技術となると、その研究がもたされている社会的な有用性もあります。AI研究の第一人者が制作したロボットにしても、それが「人間に代わる」といってしまうと、その研究者が「人間」をどのように考えているのを聞いてからでないと、おいそれと同意共感するわけには行きません。その研究者が無意識に持ってしまっている価値意識は、もっとメンドクサイものになります。これらは、「情」と表現されるヒトのもつ感性や思考の傾きや価値意識とどう峻別されるのでしょうか。
「科学とは何か」「論理的とは何か」と哲学的に突き詰めていくと、「いつ誰がどこで行っても,誰が考察しても同じ結果をもつ客観性」と表現されるものは、ごく限定された、数学的・理科学的な実験にだけ適用されることになります。それが《技術専門雑誌、経営・行政に関連した記事》ともなると、どのような立場でそれが提示されるかによって、俄然、その論調の持つ意味が異なってきます。
新型コロナウィルスの感染についてメディアに登場した専門家や、フクシマの事故に当たって顔を出した専門家が「解説」するのを聞いていると、それぞれが前提にしている「与件」がいつしか忘れられて、遣り取りされるのが気になります。もちろんそれらの限定性を乗り越え、「意」を決して政治家が判断を下す場面も多々あったわけですが、政治家は政治家で、なぜそういう判断を下したのかを説明しない。あるいは政治家自身が、専門家の護っていた限定性を意識しないで、判断を下してしまう。むろんツナシマさんの言う「意」の強いヒトがそうしてしまうのでしょうが。
専門家の非を言い立てているのではありません。政治家の非道さを訴えているのでもありません。善し悪しはどうでもよく、ヒトってそういうものだと理解する心眼を得ているとでもいいましょうか。そういう歳になったと思っています。庶民がオモシロいと受け止めるときの、内奥のどこかで蠢き出す興味関心は、そういう世間的な価値を飛び越えて世界の核心へ突き進むように真っ直ぐに伸びます。あるいは、わが身の利害にかかわるときには、その判断がどういう期間にわたりどういう責任を伴うかに頓着せず、まず利害得失にどう関わるかを直感して善し悪しを見極めようとします。モノゴトを見て取るとき、誰がいつ何処に身を置いて〈この問題を考えている〉という「当事者性」が庶民のものだと私はいいたいのです。当事者が当事者らしい判断と決定ができるというのが、ワタシの自由の核心にあるとでもいいましょうか。
ここで、専門家と庶民とを繋ぐ回路が生まれます。当事者性が庶民にあるというのが、民主主義の基本です。でも今のご時世、たとえ暮らしに用いるものであっても、専門家の手助けなしでは庶民が自治的に始末できるものではありません。エネルギーにしても、水にしても食料にしても、インフラを整えそれを貧富の格差も超えて不自由なく用いるには、専門家の研究の助力がなくては成り立ちません。
それを庶民がわがこととして研究し、決定していく社会システムは、ほとんど行政機関に任せっきりで、とても当事者が判断しているようには機能していません。本来なら庶民の当事者性を発揮させるべく活躍する政治家が、たくさん絡まってはいますが、彼らも徒党を組んでわが身の、身過ぎ世過ぎにせわしくて、果たして庶民に主権があるのかどうかも分からない状態ですね。
日本人は理性的な判断ができず感情で受け止めると,ことにフクシマを巡ってよく批判する声を聞きます。これもオモシロい論題ですので、機会があれば取り上げて考えてみたいと思います。ですが、日本人が感情的に事態を受け止めると批判するより先に、庶民が原発に関する専門家をなぜ信用しないのか、あるいは政治家のいう原発再稼働をなぜ拒否するのかは、理知的判断とか感情的判断とかとは関係がないと思っています。そういう専門家や政治家を信用していないのです。
それは、庶民が日々出くわしている細々としたデキゴトが醸し出す雰囲気、気配、空気から受け止めている感触です。むろん一つひとつを取り上げていえば、あれもこれもとないわけではありませんが、それよりも全体として尊敬され、信頼するに値する言動が長年積み重ねられて醸成されていくものです。もう私たちは年寄りですから、是非若い人たちの信頼を得られるように、見掛けではなく庶民と共に自治的に研究していけるような暮らし方を、専門家にも政治家にもお願いしたいと思っています。