2023年1月31日火曜日

不思議に取り囲まれて生きる

 さてどこから切り込もうかと思案している。イギリス映画『イニシェリン島の精霊』(マーティン・マクドナー監督、2020年)を観て、肌の感覚がヒトが生きている不思議の数々を感じ取ってざわついている。

 カミサンに誘われて観に行った。映画館に着くまでタイトルさえ知らなかった。見終わってどこの国の誰が監督した映画かを確認しようとスタッフに声をかけた。チラシを貰おうと思ったのだが「映画がはじまるまでは置いてあるが、はじまってからはパンフレットしかない」という。そのパンフもなかった。うちに帰ってネットで検索すると、「いまなお演劇界・映画界の最前線に立つ鬼才マーティン・マクドナーの全世界待望の最新作」と銘打っている。何だ、知らなかったのは私ばかりなのだ。

 ネットが紹介するコトの始まりを引用する。

《本土が内戦に揺れる1923年、アイルランドの孤島、イニシェリン島。島民全員が顔見知りのこの平和な小さい島で、気のいい男パードリックは長年友情を育んできたはずだった友人コルムに突然の絶縁を告げられる》

 なぜだ? なにがあった? パードリックが疑問に思うだけでない。村の他の人たちも最初は疑念を抱く。だがそのうち、バイオリンを弾き、作曲をするコルムの創作活動は村の人たちに受け容れられ、絶縁宣言をされたパードリックは孤立感を深めていく。

 読書家の妹、頑迷固陋な警察官とその息子である風変わりな隣人、郵便局の女性オーナーの旧弊な詮索好き、島の外からやってきて、コルムと音楽に興じる音楽大学生たち。島の外、青空の、文字通り対岸から響いてくる大砲や銃の音が、イギリスのアイルランド紛争を別世界のデキゴトのように描いて、まさしく庶民の生活感覚が視線の中軸に据えられる。

 ワタシの肌をざわつかせるヒトが生きる不思議というのは、どこを切り口にどう取り出せば良いだろう。ちょっとした台詞、言葉にならない素振りがインスピレーションを誘う。

 平々凡々とした暮らしの日々は、死を待つだけの暇つぶしではないか、と感じるのはなぜか。

 モノゴトを創作するというのには、強い意志的な何か、痛みを伴う苛烈な何かがなくては適わないことか。

 そもそも、生きた証しを名を遺すことと思うのは、なぜか。名を遺せなくとも、「優しい人」として生きるのは、生きた証しではないのか。

 ヒトは何のために生きているのだろうという素朴な疑問が、意思と関係と、その動態的な移ろいの間に、揺れ動き、変わってゆく。

 そこへ、この映画は、ロバや犬といった身近な「パートナー」の存在を置いて、自然と共にあることの原点へと飛ぼうとしている感触を組み込んでいる。イニシェリン島の精霊が「今日は二人死ぬ」という予言をし、その一人がロバであったというのも、一神教的な自然観を突破して、アジア的な自然観に身を投じようとする兆しを思わせる。

 和解を探るパードリックの言葉に揺れ動くやにみえた芸術に向かうタマシイは、さらに苛烈に向き合わねばならないという振る舞いに及ぶ。暮らしとか生活から離陸することによってしか,芸術は成立しないことを意味しているのか、あるいは、ロバの死を悼み、犬の世話をするという生きとし生けるものを媒介にしてやっと、ヒトの暮らしと創造活動は折り合う地点を見いだせるかもしれないという発見なのか。とすると、この映画の落ち着く先は、人の心の赴く究極の地点を探っているのか。

 そして最後に、ああ日本もイニシェリン島ではないのか。ワタシはパードリックではないのか。いや、ワタシのなかにパードリックとコルムが同居してきたと感じる。そういう思いへ誘い込むざわつきを覚えた。

 映画って、こういう思いを呼び起こして、ここが結論という風な結末をつけることなく、観ているの者へと「思い」を投げ渡す。イメージを描き出すカタチで、観る者へと開かれたナニカを伝え受け渡す。一巻完結するよりも遙かに多くのナニカを胸中に遺している。

 原題はThe Banshees of Inisherin。Bansheeというのは「家族に死人が出ることを泣いて予告する女の幽霊」を意味するアイルランドの言葉。「精霊」という日本語のイメージよりも「巫女」に近い。「鬼才マーティン・マクドナー」が死者の視点、彼岸から今の日常を見てとったカタチなのか。そしてそれが、アニミズムと一体化する自然観によって,辛うじて人の営みの過剰さと和解できると示唆しているのか。

 オモシロイ疑問符はつづく。

2023年1月30日月曜日

生まれ変わる

 昨日の表題「死ぬということは死なれるということである」というのは、どうもヘンだ。「死」というのを一人称で見るのか二人称とか三人称で見るのかという違いを指しているだけで、自動詞/他動詞という変転も発生していない。むしろ、「死ぬということは生まれ変わることである」と、人称を固定して表現する方が適切妥当であった。だが、「生まれ変わる」というのもじつは、カタチ(色)を変えてソンザイする(空)というほどの意味であれば、まだ「エイエン」に執着している。「死ねばゴミになる」という一切放下の境地にも行き着かない。

 一切放下は、思えば、空なること。なるようにしてなる必然として、意味も形跡もすべて跡形もないことを是とする観念である。そこまでいって初めて、人類史とか生命体史という普遍と一体化する。普遍とは宇宙の全体。ゴミのような黴菌のような取るに足らない存在のgermが宇宙の全体とひとつになる。「観念」であるから ヒトはそう覚悟せよという思いの到達点である。死への心の準備としていえば「悟り」となり、迷いからの「解脱」となる。

 悼むとか弔うという振る舞いは、普遍に至る過程の儀式と言えようか。亡くなった人に託して表現するが、それが残された者たちにとって必要な儀式であることははっきりしている。墓もそうだ。お盆もそうだ。いずれも生きている者が、先祖という死者と一続きになって受け継いできた末裔として,今ここに存在していることを忘れずに生きて行けという「自戒」として「色」を擱いた。それが、祈りであり、追悼であり、弔いであり、墓や法要となった。生きている者にとってそれは、あくまでも「空」とはならない。呼び戻し、再会し、受け継がれてあることを繰り返し意識することによって、身の裡の無意識に生活の習いとして沈み馴染んでいるものを、意識の表層に思い起こして、歩んできた生命史の全体と一体となっていることを確認する。

 その到達点を一切放下というとき、それが普遍と一体化することであるというのは、同じことを指しているだろうか。ちょっとニャンスは違うなあと感じる。一切放下は普遍すらも空なることとみなしている。つまり観ている視点が、消えている。大宇宙を観るのは、何処に視点を置くと可能か。どこにも視点を置く場はない。観ることも空なることによって初めて視点を獲得する。そういう絶対矛盾的自己同一と呼んでもいいようなアクロバティックな「思い」を惹き寄せることによって、論理的に完結する。

 モノゴトを見て取る、自己省察をする、関係を普遍化して捉えようとするヒトのクセというのは、そのような矛盾を抱え込み、ときには時間を循環することとして空間に変換し、あるいは次元が十一次元に亘ることとして、目に見えない次元を想定して、イメージ世界を完結させないではいられない特性を持つ。その極みが「空」である。何もないところに目を擱くことによって究極の「真理」をみつめる。「空」はワタシにいわせれば、「混沌」と同義である。何もないということは、すべてがあるということでもある。オモシロイ。

 こうしてワタシは大宇宙とひとつになり、空なる混沌に一切放下して一体化する。いってしまうと何てことのない平凡な死生観ですが、いやなかなか良い線行ってるとご満悦です。

2023年1月29日日曜日

死ぬということは死なれるということである

 世間話をしないという私の気質が影響しているかもしれないが、じつは,出逢っていたとき以外のNさんのことをほとんど知らない。熊谷に生まれ育ったことは知っているが、どこの高校を卒業したのか、何人兄弟姉妹か、親御さんはどういう人であったかなど、まったく知らずにきていた。Nさんの奥様の話を聞いていて印象的だったのは、結婚したとき彼が奥様に言ったという言葉だ。

「オレはバカだから、あなたは仕事を続けてしっかり世の中のことを勉強して下さい」

 十人兄弟姉妹の末っ子だったNさんは高校を出てすぐに就職した。そのことを指していたと奥様は「解釈」していた。それを聞いて思いだしたことがある。中学のときによく言葉を交わしていた近所のイワサ君が,高校受験に受からなかった。それはなぜかワタシの所為でもあるように感じられて暫く心に引っかかっていた。当時岡山県は小学区制で、私の住む町には全日制高校はひとつ、定時制高校がひとつしかなかった。大学へ行ってから当時の進学率を調べたら全国平均で、全日制高校へ35%、定時制高校へ15%、合計50%であった。田舎とは言え大企業の有する造船や金属鉱業の町であったから、たぶん全国平均くらいはあったと思うが、残り半分は中学を出てすぐに就職したのであった。そこからさらに大学に進んだのは,4年制大学が7%、短大を含めて10%を少し超えたくらいじゃなかったろうか。昭和36(1961)年、のことである。5年遅れで団塊の世代が高校・大学へ進学する頃、学校設立が追いつかず受験競争が厳しくなった。「15の春を泣かせるな」というキャッチコピーが飛び交ったのもその頃、1960年代の後半であった。埼玉でも高校増設が進み始めたのは1972年以降。1973年までは「金の卵」である「集団就職」の子どもたちが大勢、私の勤める定時制高校に入学してきていた。新潟、山形、秋田などから中卒と同時に家を離れ、定時制へ通わせるのを条件に就職してきた人たちであった。それを考えると、その頃までは中学卒が普通、高校卒は半数ほど、大学へ行くのは1、2割だったろう。Nさんが何を素に「オレはバカだから」といったのかわからないが、彼の仕事回りに「大学卒」の肩書きを持った人たちが多かったせいかもしれない。奥様も大学を出ている。だがNさんのその恒なる自意識が、他者に対する寛容につながったと思う。

 会計処理が人類史的な記録の出発点と前回記した。往々にして、記録に達者な人は粘着質の厳格性を持っているから、他者を見る目が厳しい。同時に他者に対しても厳格厳密を要求することが多い。ところがNさんはしばしば出くわすアクシデントに対して「人のすることですから・・・」と鷹揚な態度を崩さない。ポイントさえ押さえておけば、後は自在に振る舞って,しかし始末はきっちりとついているという成り行きを見て取るような視線を欠かさなかったからであろう。要点は外さない。しかし、形式にこだわるのではなく、最終的な着地点をきちっと決める。前回お話しした、A3の紙をA4に折り畳むやり方のように、始発点と終着点はピシッと決めるが途中経過は自在になっているという振る舞い。文字通り「始末をつける」ことは外さないが、あとは「人のやることですから・・・」という視点を恒に保っている姿が、Nさんの立ち居振る舞いの神髄であったように感じている。言葉を換えて言うと、私にとって彼の振る舞いは人類史が連綿と受け継いできた作法の哲学的な示唆となった。

 そうそう、それでさらに想い出した。寡黙振る舞いの人・Nさんは、グルーピングの発行する機関誌に文章を書くのが苦手であった。それがなぜかはわからないが、言葉にするまでに彼の身の裡に右往左往するイメージに言葉を与えるのに手間取っていた。他の原稿はすでに出そろって印刷過程に入り、折りたたみ作業をする脇で、ページを埋めるのに呻吟する彼の姿をよく目にした。いろんなことにちゃらんぽらんでいい加減であった私は、テキトーなところで折り合いをつけて、ま、こんなことで良いだろうとか、時間が来たから仕方がないと思って切り上げる。ところがNさんは、これが出来ない。どうしてだろう。ひとつは、前記した紙折り作業のポイントのように、どこを押さえたら後は自在に(考えても)成り行きが結論に導いてくれる道筋を探していたのではないだろうか。

 もう一つ思い出すのは、1972年頃だったと思うが、九州への遠征をしたときの文章で彼が「見るということは見られるということである」という文章を書いたことがあった。九州の柳川や福岡の旧炭鉱町の人たちの暮らし方を見てくる旅で彼が、つねに見られていることを意識していたことが記されていた(と思う)。自分たちのアクションがどう外部世界をつかみ取ってくるかが交わされるなかでNさんは、自分たちのアクションが、現地の人たちにどう見えているかをイメージしていたことを端的に表現した言葉であった。

 これも哲学的な示唆を私にもたらした。「(外部を)見る」ということは「見られていることを意識する」ことを通して、じつは「(わが身の裡を)見ること」であると、関係的にわが身を世界に位置づけて見て取ろうとする視線である。生物学者なら「動態的に存在するワタシ」といったであろう。つまり世界を見て取るというのは、わが身を見て取ることと同義である。わが身は人類史だという身体感覚をNさんがもっていたのではないかというのが、私の見立てである。私はいま、ワタシが人類史だとほぼ確信に近い感触をもっている。

 半世紀経って、ささらほうさらの付き合いが到達した地点がここである。この起点に「オレはバカだから・・・」という世界への位置づけがある。私はそれを「germ/黴菌、邪魔物、萌芽」と表現してきた。取るに足らない存在のワタシがみているセカイを描き出さずにはいられないヒトのクセという出発点が、人生の最後に辿り着いたところというのは、何とも皮肉にみえるかもしれない。でも、Nさんに倣って、「死ぬということは,死なれることである」と自動詞と他動詞とを混淆し、関係的に位置づけることで、Nさんをいつまでもわが身の裡で活かしつづけたい。そのわが身はいずれ、どこかで誰かに受け継がれ、germが世界の震えに作用する。

 そうした関わりがカタチを成し、それが崩れて混沌としたイメージとなり、また姿を変えて変転する。それが人類史であり、生命体史であり、動態的世界である。その一瞬の有り様を永遠と呼んでいる。そんな気持ちが、いま働いている。

2023年1月28日土曜日

弔う/悼むということ

 半世紀来の友人・Nさんの家へ弔問に行った。家族葬という葬儀のやり方や香典をお断りすることまで、Nさんは事前に言い置いていたから、通夜前のご自宅へ訪問することとなった。グルーピング「ささらほうさら」のKさんの手配で,まだ現役仕事中の人以外全員が2年7ヶ月ぶりに顔を合わせた。Nさんの奥さんと、Nさんそっくりの風貌の長男さんがいて、もてなしてくれた。Nさんはすっかり痩せこけて、闘病の厳しさをくぐり抜けて安堵したような面持ちをしていた。

 Nさんの闘病経過に関する奥様の話を聞くと、病院とか担当医師が異なればもう少し楽に長生きする道筋があったのではないかと思われるが、Nさん自身は、そうした自分の置かれた立場を蕭蕭と受け容れ、死期を悟ったように自分の死後の準備を整えていったようであった。その話を聞くだけで、モノゴトにきっちりとメリハリをつけ、始末をつけ、後顧の憂いを取り除いて迷惑を掛けないようにするという彼の人柄が浮かび上がってくる。

 彼に教わったことで今でもわが身に刻まれた身の習慣がある。

 A3の紙の長辺を左右長く机に置き、右下の端を親指と人指し指で摘まみ左下端にきちんと重ねる。そうして半分の長さになった下側を右親指で押さえ、左端からまだ折りたたまれる前の膨らみをもった中央部へゆっくりと滑らせていく。中央部に達したら、今度は上へ同じ指でそのまま滑らせて膨らみを押さえていくと、A3の紙がきっちりA4サイズに折り畳める。この折り方を教わったのは、52年ほど前。

 それ間で私は、A3の短辺の左端と右端の辺を重ねて合わせ、折りたたむようにしていた。だがNさんのやり方は、モノゴトの始末の要所をきっちりと押さえれば、他の部分は成り行きで運んでいっても、全体がきちんと折り畳める。以来そうして紙を折ることをしている。この折り方が気に入ったのは、モノゴトの要点をひとつきっちりと押さえる始末の仕方。それと同時に、膨らむ中央部や上への折り線は、成り行きでついてくるという発見であった。その成り行きは、作業手順からみると自在にしているというか、放っておいてもついてくるように,見事に始末の筋道をたどるという自在さの感覚が伴い、身のこなしがスッキリする。傍目には端正な所作にみえる。そう思ってみていると、Nさんの所作には無駄がない。寡黙であると、先日訃報を耳にしたときに振り返ってNさんを評したが、余計なことを口にしないと言い換えた方が、より的確だと思った。

 訪問した場で暫く奥様のお話を伺いつつ、来ている面々が一人ずつNさんをどう見ていたかを振り返って口にした。そのとき、リョウイチさんが、Nさんの食器を洗う手際を見て感嘆し、以後見習おうとしてきた話した。まるで本職の料理人が夾雑物を削ぎ落としてピシッと決めるように所作に余計なものが混ざっていない。洗練された立ち居振る舞いであった。その話を聞きながら、そうだ、その佇まいがNさんだったと、私の胸中にイメージを結ぶ。半世紀も前の話であるが、当時口舌の輩であった私は、以後、深い尊敬の念を込めてNさんと接してきた。彼は彼で、私に対する敬意を欠かない振る舞いをみせ、思えば,このグルーピングを含めて57年の長きにわたって、行動を共にしてきたのであった。

 そういう意味では、通常の社会的仕事とは別にもう一つの人生を歩んできたのが、Nさんにとっても私にとっても、「ささらほうさら」のグルーピングではなかったか。後で記すが、たぶん彼は彼で、私のような口舌の輩から刺激を受け、それなりの敬意をもってみてきたのであろうが、こうした視線が半世紀にわたって身の回りを取り囲むオーラとしてあったことが、私たちの人生に言葉にならぬ余剰をもたらしたのであろうと感じたのであった。

 こうしたNさんのわが身に残したものをとらえ返すことが、悼むということである。そうすることによってNさんの存在をわが身に刻みとどめていく。それをいく人ものかかわった人たちが、それぞれの関わり具合から浮かび上がらせることによって、悼みは弔いに転化していくような気がした。

2023年1月27日金曜日

自己規制解禁のお墨付き

 手掌の手術をして半年の診察、地はビリが思ったようにすすんでいないことに業をにやしのか、医師が訊く。

「手術前に何か運動していました?」

「山歩き、登山です」

「手の平で力を入れて使うってことは?」

「ストックをもつとか、岩場を通過するとか、ときにザイルを使って安全確保するようなことですかね」

「この季節も行ってたの?」

「ええ、奥日光とかですね。事故があってからは,ザイルやピッケルを使う山へは行かないことにしています」

「雪山でしょ?」

「はいそうです。スノーシューで、勝手知ったるところを散歩するようなものですね」

 という遣り取りをして医師は、

「これからはリハビリだけでなく、山歩きなど、左手の平に力を入れるような運動できるだけして下さい」

 という。えっ、どういうこと?

 手術後半年を過ぎたのに、まだ左手指が元のように折り曲げられないというのをリハビリでどうにかしようというのは難しい。むしろ,ザイルを摑むでも岩場にとりつくでもして、無理にも手掌に力を入れるようにしていると、気が付くと昔のように動いているってことがあるかもしれないという。

 この時、この医師は年齢を重ねた体が、若いときのようには動かないってことをほとんど考慮していないと思った。たとえばバランス力は、20歳に比べて70歳は1割に落ちている。80歳ともなると取るに足らないほどになる。だがそう思っていない医師は、意志力さえ伴えば、同じように力を使い、同じように運動できると思っているかのように気軽に「運動しなさい」といっている。気軽に出来ないからリハビリに通っているんじゃないか。

 でも医師の言は、私の自己規制を解除するお墨付きになった。急に気持ちが晴れ晴れとする。そうだね、来週からでも山歩きを再開しよう。むろん、体はなまっている。長時間歩くと、疲れが溜まりやすい。バランスも悪い。平地を4時間歩くのと山を歩くのでは、倍くらいの体力を使う。よほど用心しなくては事故につながる。だがそれでも、医者の診立ては、私がこわごわとわが躰と自問自答してきた境目を取り払い、何でこんなことを自己規制してきたんだろうと思うほど簡単に、超えてしまった。

 1年前(2022-1-25)の記事「市井の老人の感懐」で、遭難事故後リハビリで復調を感じて「最初に思いついたのは四国のお遍路さん」と書き記している。そうだった。去年の感懐をもう忘れて、すっかり病人気分になっている。去年は、そこから歩くことを再開して,4月のお遍路の旅に出かけたのであった。同じような、そしていえば、躰全体の復調の土台は去年よりも遙かに良い。であってみれば、デスクワークばかりしていないで、外へ出ろ。山へ行け。歩きに歩く生活習慣を取り戻せ。そうすることによって、左手掌の難儀などは忘れてしまえと、号砲が鳴った。そう思った。

 自己規制の解除って、案外、そういう外からのほんの一寸した言葉の介添えがあると、ひょいと乗り越えられるものなんだ。たぶん私の整形外科医は、自分の言葉がそういう働きをしているとは、思いもしないだろう。でも医者って、患者にとってそういう役回りをしているのだ。そのために診察を受けているんだと思った。

 もっとも、医師がそういったことをリハビリ士に告げると、リハビリ士は「鉄棒なんかにぶら下がるってのが良いってことですよね」と、的確に日常に引き戻してコメントした。これも、しかし、ユメがない言いようだね。左手掌の握力を測ってくれた。3ヶ月前に「13kg」だったのが、「18kg」になっていた。来月からリハビリが2週に一回になる。省略した部分を山へ行けというわけである。良い節分になりそうだ。

2023年1月26日木曜日

私たちの終活

 デジタル送信された「日本は未来だった、しかし今では過去にとらわれている/BBC東京特派員が振り返る BBC News -01/22/ルーパート・ウィングフィールド=ヘイズ、BBC東京特派員」を読んで、今、考え込んでいます。

 7千文字ほどのこの一文は、1993年に来日し、日本人の奥さんを持ち子どもも二人いるBBC特派員が日本を去るに当たって書いた文章です。バブルの残り香がまだ色濃い頃から「失われた**十年」を目にしてきた30年。私たちに即していえば、50歳から80歳までの期間を、日本列島で共に過ごした同時代人でもあります。

  その間に目にした日本社会の印象が,端的に表題に表れています。私がオモシロイと思ったのは、この一文が素描だからです。いかにもジャーナリストらしく、取材のプロットを拾っています。豊かで清潔な1990年代前半の東京、それから30年年経って山林を売ろうとする所有者の金銭感覚、マンホール蓋学会という妙な好みを偏愛する地方自治体、自動車安全運転講習会という名の退職警察官の働き口を保障する風景、東京から2時間という好立地の寂れ行く房総半島の限界集落の、しかし外国人を受け容れようとしない頑なさ。それと対照させるように、バブルの頃の日本の感じさせた「未来」とその後にたどって現在位置している衰退する経済大国日本が「とらわれている過去」を素描して、「日本は次第に存在感のない存在へと色褪せていくのか」と慨嘆する。

 それは、日本社会の総体を的確に描き出しているかといえば、むろんそうではありません。また、外国人がスケッチした異情趣味だろうと名付ければ、そうも言えると思います。でも、彼の素描は「日本社会の不思議」を漠然と描き出していると感じます。

 彼の取り出すプロットの一つひとつに対して私たち日本人は、それなりに答えを出すことができます。だが、どうしてそう感じ考えているのだろうとわが身を振り返ると、自身が気づいていない感性や感覚が浮かび上がってきます。無意識に仕舞い込まれて、しかし私たちの直感的選好を左右しているように思えます。自身が抱いている既成観念を疑うことまで「探求」していくと、なかなか奥行きの深いモンダイに突き当たります。

 80歳になって私たちは、そろそろ彼岸への渡る地点を探りはじめる気分になっています。同窓生が集まった先日のseminarでも、「皆さんはどう終活しているのか」と問う声も聞こえていました。だが、この一文を読んで、ヘイズさんの感じ取った「日本社会の不思議」に共感する心の響きは、「不思議」とはわたしたちのことを指しているのではないか、と感じます。イギリス人の口を借りて、わたしたちの身の裡の「こだわり」が照らし出されているようです。それを解きほぐすのは、わたしたち自身しかいません。それこそが、わたしたちの終活になるように思い、皆さんにこれを読んで頂いて、ヘイズさんが感じている「不思議」が奈辺にあるか解きほぐしておこうではないかと考えました。いうまでもなくそれは、イギリス人・ヘイズさんの「不思議」を露わにすることでもありますが、それが当面の目的ではありません。

 いきなり「本題」に切り込むというのではなく、この文章のいう「未来であった」と「過去にとらわれている」との間に揺蕩う「わたしたち」の感性や感覚の根っこに足をつけるようにして、長い時間を掛けて考えていっては如何かと思いました。

 一先ずわが身が無意識に抱いている感性や感覚、価値意識を一つひとつ取り出して意識化し、なぜそう感じ、そう考えているのかと、モンダイを拾い出していきましょう。ヘイズさんの取材領域に限ることはありません。もっとわたしたちの日常の振る舞いに立ち戻り、ワタシはどうしているかと思い巡らす。そうやってみると、「不思議」というよりも「わからない」ことがそちらこちらに転がっているように感じます。

 もちろんその話が、「80歳の風景」にかわる「100歳の風景」に移っていくこともあると思っています。ヘイズさんは2050年の日本の人口のことに触れています。2050年というと、もし生きていれば107歳か108歳。いつだったか、同じ同窓のタツコさんが2045年まで生きてシンギュラリティがどうなっているか楽しみと話していたのを思い出します。

 おしゃべりseminarが、そうやって日常の遣り取りの積み重ねとして形を変えていけば、それはそれなりに面白いと思うのですが、皆さんはどう考えるでしょうか。

2023年1月25日水曜日

言葉もない

 半世紀来の友人から電話が入る。やはり半世紀来のグルーピングをしてきた末裔とも言える老人会「ささらほうさら」のメンバーの一人・Nさんが亡くなったという知らせ。私より4つほど若い。最初に就職した職場で顔見知りになった。職域は違ったが、振る舞いと考えの誠実さと堅実さが際立っていて、彼の職域の人たちをひとつにまとめる行動力を(目には見えなかったが)もっていた。

 その後彼が転勤した職場でのモンダイを発端に顔を再び合わせるようになり、いつしかグルーピングが発生していた。出入りした人の数は百人を超える。はじめのモンダイがほぼ解消した後も、そのときに開始した半月刊誌を2006年まで、じつに35年間にわたってつづけてきた。月2回集まり、編集作業をする。年に何回か「合宿」と称して子ども連れで行事を行う。遊びや勉強やおしゃべりなどをする運びになり、いわば初めは若衆宿のように、歳をとるにつれて家住期・遊行期・林住期と移り変わるようにして「ささらほうさら」となってきた。寡黙で実務肌のNさんは、半月刊誌刊行の裏方に徹し、その慥かさで半世紀を超すアクションを支えてきた。

 年を経るにつれて体も思うに任せなくなり、2020年からのコロナ禍によって月一回の集まりも出来なくなった。でもそろそろ集まってもいいんじゃないか,車を出すからと提案する人もいて、「ささらほうさら」の再開を検討したのは先月であった。だがNさんは、その間に喉に癌が出来、それへの対処と治療に入退院を繰り返していた。Nさんが参加できないのではやるわけにはいかないとなったとき、毎日訪問看護を受け、点滴をして家で過ごしているのなら一度見舞いにこうと連絡を取ったら、「子どもにも来るなといっている。いましばらくご勘弁を」とSMSが返ってきた。

 そうして昨日の訃報である。知らせてきた亮一さんと手分けしてメンバーに知らせる。電話に出たマサオキさんは一瞬、黙ったまんま,絞り出すように口にしたのは、「そうですか」だった。ありうることと予測していたとは言え、言葉にならない。Nさんより少し若いOsさんはメールで「言葉もない」と返信してきた。

 Nさんの得意技であった事務・実務とは、会場の予約・準備、泊まりの時の宿の確保・食事の手配,そして何より、会計の始末であった。会計といえば、文字が発明されて書き残されていたことは、まず王や豪族にかかわる贈答の中味であり、会計の処理であった。そのために文字が必要となったかと思うほど、日本の木簡などにも,そのときの会計始末が記されている。つまりNさんの技は、人類史的に最初に記録することが人の身から切り離され、人はそれを対象としてみることによって、時間を意識することへと踏み出したとさえ言えることだ。いつしかそれを凌ぐコトゴトが作り出されては来たが、ついに会計記録をないがしろに出来たものはなく、未だに原初以来の記録の伝統を繰り返し用いることによって、暮らしが円環ではなく、変わりゆくものであると考えるようになった。時間が起点から未来へ向けて途切れることなく続くという観念も、会計処理による文字の発明と記録に残す事務・実務の継承によって人々の無意識に定着していったと言える。

 ワタシはそれに気づかず、文字を読み、文字を書き、自分の感懐や思索を書き付けることが高尚な人類文化のように思い込んで、高等教育まで受けるに至ったのだが、その実、そのワタシの行為は、根柢的にNさんの担う事務・実務によって支えられていたことを、いまさらながら思い知らされたのであった。いわば、エクリチュールの起点から,一つひとつを丁寧に記録し、しかも、印刷・発行・郵送するという「仕事/アクション」を、誰でも出来る容易なことのようにみなして振る舞ってきたと、あらためて思う。いや、Nさんだけではない。そうした事務・実務を担う人たちが黙々とサ業変格活用をこなすことによって、グループの35年間の機関誌発行が続いていたにもかかわらず、それに依存しているとはつゆ思いもしなかったことを、今になって痛く感じる。

 これこそが、半世紀にわたるグルーピングの成し遂げたものであった。あらためて、そう思う。Nさんの訃報に接し、言葉がなくて当然だと思うのであった。

2023年1月24日火曜日

関係の絶対性という倫理発現の根拠

 1年前(2022-01-23)の記事「慟哭の絶対的関係と生存への欲望」を目にして読みながら、僅かこの一年で世界が露わにした相貌を振り返ってみている。呉叡人『台湾、あるいは孤立無援の島の思想――民主主義とナショナリズムのディレンマを超えて』(駒込武訳、みすず書房、2021年)に触発された感懐であるが、公刊された2016年と「日本語版への序文」が書かれた2020年5月との(台湾の置かれた)落差が大きく、さらに去年と今年の1年間の,本書を読むワタシたちの身を置く世界の変わりようが、露骨である。

 ロシアのウクライナ侵攻は、WWⅢを思わせた。未だそこへ突入せずに踏みとどまっているのは、「核の脅威/プーチンの錯乱」に欧米世界が脅えているからである。ウクライナに戦車を提供することへのドイツのもどかしい逡巡も、その動機がどこにあるにせよ、ウクライナ/ロシアの現事態に力を対置していくのがもたらす「核の脅威/WWⅢ」の発現では、世界の先行きがまったくみえなくなるからである。

 このとき「世界の先行き」として私の視野に入っているのは、欧米先進国や東アジアの近隣諸国。アフリカ諸国の人々や東南アジアの人々の暮らす姿は,ほぼ存在していない。みえていない人たちは(この事態に)「関係しない」と(私の胸中で)みなされている。ではみているワタシは「関係する」のかというと、国民国家という枠組みを通してかかわる回路しかもたない。国民国家を通す回路って、では、お前の知見を活かす通路になっているかと自問すると、じつは、まったくなっていない。だったら、アフリカや東南アジアの人たちと同じじゃないか。だったらなぜ、あなたは「世界の先行き」を懸念するのかと、自問が続く。そのときほとんど意識していなかった「関係の絶対性」が浮かび上がる。つまりワタシは日本という国民国家と同一化している。あるいは欧米先進国の、理知的な(私が思っている)思念と共有する観念をもっている(と思っている)。

 つまり、自分の置かれている地点はわが身のセカイで位置づけられ、そこから世界をみて「先行き」を考えている。だがそれは、国民国家の為政者やウクライナ/ロシアの戦争にかかわる国々の為政者たちの視界には入っていない。じゃあ何だよ、俺たちはっ、て文句が出ても可笑しくないし、何でもねえよ、ゴミだよと応えが返ってきても、それなりに説得力がある。じゃあ、知らねえよ、世界のことはと居直っても居直らなくても、為政者たちには関係ないことなのだ。

 呉叡人だってそうじゃないかと、台湾の今置かれている立場を知っていても言いたいくらい、一人のヒトは世界にとってみなゴミなのだ。にもかかわらず呉叡人は、ニヒリズムに陥らず、それどころか、自らを「賎民/パーリア」と自己規定しながら、「台湾の悲劇」を道徳的意義において意味づけようとする。

《…台湾人であるわれわれは…一切の高尚な価値を評価し直さないわけにはいかない》

 と言い置いて、こう崇高さを湛えた言葉で締めくくっている。

《…賎民は…無意味で残酷な現世に対してその意義を求めているのであり、この生存への欲望に対する承認を要求している。それが賎民による「自由」の追求の形である》

 去年私は、《このギリギリの場に身を置いて、ニヒリズムに陥らず、善へ向かう道徳的意義を堅持する気高さに、胸を衝かれる》と感想を記した。今年それを、国民国家という既成観念に収斂させるのではなく、国民国家という「関係の絶対性に」にとらわれた「賎民」が求める「生存への欲望に対する承認」を突き出して行く。誰に突き出すのか? プーチンではない。「関係の絶対性」に於いてキシダに向けて。そう考えると、a元首相が旧統一教会への憎しみにみちた銃弾に倒れたのも、aとyとの「関係の絶対性」に於いて,ある意味必然のことであったと腑に落ちる。

 私たちはそうした「目に見えない絶対性」に規定されて生存し、争い、絶対性を蹴破っていこうとする「自由への希求」において倫理的に振る舞う根拠を手に入れることが出来る。1年経って改めて、世界をみる視点を意識した次第です。

2023年1月23日月曜日

成長期の80歳という人形の家

 昨日、36会seminarが行われました。14名出席の予定が12名。一人は連れ合いが救急車で運ばれ、その介助・介護に手が離せない。もう一人は本人が「熱も喉の痛みもないのですが、咳が止まりません」と風邪を訴えてきた。聞いた出席者は「そうなのよ、私もコロナに罹ったとき、咳き込みがひどくて・・・」と、収まりそうもないコロナ禍への懸念が広まっていました。いかにも「80歳の風景」でした。

 今日のお題は「80歳のわたしの風景」。12月seminarで、第傘期のトップを切って「お題」を提供するはずであったミコちゃんが(親族に不礼があって出来なかったのを埋め合わせようと)、80歳になってみえるセカイを語ろうというもの。それを知ったご亭主のマンちゃんが「うちの内情を喋るんなら、わしはもう皆さんに顔向けできない」とミコちゃんを牽制。それを知った女性連が「私たちが加勢するから、やって」と応援して実施する運びになった。

 ミコちゃんは何冊か本をもってきている。

「なに、それ?」

「うん、いま読んでる本よ。話が行き詰まったときに、こんな本に刺激受けていると紹介しようと思って」

 と、今日の運びに慎重である。ご亭主の牽制に、自己規制しようという構えだろうか。生憎加勢組の一人が欠席とあって、むしろ私は運びがどうなるか心配であった。

 ミコちゃんの話は、意外であった。とうてい私たちの想定する「80歳の風景」に収まらない勢いをもっていて、驚かせた。子細はとうてい紹介できないが、ミコちゃん実は、「100歳のわたしの風景」を夢見ていた。

「えっ? 80歳のわたしは、まだ未熟ってこと?」

「そうやなあ、keiさんみたいに自分のやることをしてきたって充実感がないの」

「仕事をしたいわけ?」

「そう、今のままで終わっちゃいけん、そう思うとんよ」

 いま働いているお店は、ビル建て替えのために2年後に一旦終わりになる。その後3年掛けて新しいビルを建てる。そのための話しが間もなくはじまる。が、その後の店舗展開をどうするか(ミコちゃん家では)問われることになるそうだ。

 そう言われて思い出した。私たちが70歳になろうという頃、お店の入っているビルの建て替えの話が持ち上がっていた。マンちゃんはそれを機にお店を止めて,その後どう暮らすかを思案していると話していた。ところが2013年、東京オリンピックが2020年に開催決定となった。そのため東京に建設ラッシュがはじまり、ビル建て替えの話しは,オリンピックが終わってからということになる。加えて、コロナ禍だ。オリンピックも1年延長になった。結局マンちゃんのリタイアは10年以上延長になった。

 その間に彼も、連れ合いのミコちゃんも、十年歳をとった。身体機能も変化した。マンちゃんは糖尿の持病をかかえて出来する体各所の異変に対応し、私にいわせればいつ墜落しても不思議じゃない低空飛行を諄々とつづけてきた。その間の2011年6月にミコちゃんが脳梗塞になった。詳しくは『うちらぁの人生 わいらぁの時代』(pp28~29)をご覧頂きたい。いまのマンちゃんは、見事に年寄りになった。目も悪くなりTV画面を見ていることができない。耳が遠くなり、普通の会話は聞こえない。補聴器を使ったりしているが、いろんな音がざわざわと聞こえてきて、五月蠅くて適わないという。歩くのもゆっくりだ。でも、食べるのも(何かと煩わしいのか)ごく少なく、痩せ細っている。とはいえ、暮らしの大半を自力でやっていける。ミコちゃんも、脳梗塞からすっかり回復し、マンちゃんの暮らしを介助しながら、姪御さんの手伝いを得てお店を切り回している。

 最初驚いたのは、マンちゃんが仕事をやめたいと思っていることに、ミコちゃんが不平を鳴らしたことだ。

「えっ? まだ働けっていうの?」

「だって働かなくなると、この人、死ぬんよ。仕事へ行くから 朝は起きるし、着替えもする」

 マンちゃんの生活習慣ともいうべき、お店に出るということが断たれると、どう暮らして良いかわからない。なによりマンちゃんの低空飛行とはいえ生活習慣の維持を、どうやったら良いかわからない。そういう不安が、ミコちゃんを取り囲んでいるようだ。

 加えて、仕事に関する彼女の「達成感」が姿を現したように感じた。聞くと、マンちゃんは、ずうっとお店を仕切ってきた。いつも一緒に店番をしてきたミコちゃんも、マンちゃんに頼りっきりであったことを忘れていない。それがいま、姪御さんの手伝いを得て辛うじて切り回している。マンちゃんは今、ほぼ役に立っていない。だがそのときミコちゃんは、働くことにやり甲斐ってものが、お店を切り回す役回りにあると気づいたのではないか。そうして、これまでそれを自分がやったことがない。ミコちゃんが言う「働くことの充足感/達成感」は、いまようやく目覚めたのだ。「遅れてきた少女時代」と私は思った。「100歳の夢」は、やっとほの見えた人生の達成感を手に入れることだったと、私は気づいた。

 それを、同席の女性陣が別様に言葉にした。

「ミコちゃんは、これまでが恵まれていた。みな周りの人が手を貸してくれ、何不自由なくやってくることが出来た。だから80歳になって今が一番健康だし、体力もある、気持ちが前向きになって、100歳を夢見るようになっている。でも普通は、マンちゃんのように体力は落ちる、目も耳も悪くなる。そうした現実を受け容れて、もっと違った生き甲斐を見つけることを考えた方がいいんじゃないか」

 私はミコちゃんのかかえている「混沌」を、彼女自身が身の裡を覗き込むようにして腑分けしていくことを考えていた。その言葉は,自ずからミコちゃんの「矛盾」に向けられ、問い詰めるような口調になる。そんなことをいうつもりはないのに、彼女がマンちゃんに対する「感謝」を忘れているんじゃないか、かつて僧侶修業をしていたときの「他力本願」とどう整合性を持っているのかと問うている。彼女は大乗仏教からスリランカの僧侶が説いた小乗仏教に魅力を感じていると、真っ正直に応えていたが、その遣り取りが本筋を離れていると断っていた。私の見当違いを軽くいなしたのであったろう。

 そう考えてみるとミコちゃんの「100歳の夢」というのは、ただ単に「遅れてきた少女の夢」というのではなく、じつは女性を保護さるべきものとして父権主義的に振る舞ってきた私たち世代の男・夫がもたらした必然であったとも言える。妻は夫に遵うことを旨として生き、歳をとってからは夫の世話をするのを当然としてきた。

 そうだ、イプセンの『人形の家』のノラだ。そう思った。とすると、80歳になってやっとそういう風景を見るようになったのが、ミコちゃんということか。しかもその心情の根っこに、マンちゃんの生活習慣を崩さずに持続するにはこうするしかないという志があり、そう思案する自分を「愛情がないんじゃろうか」と問い詰める、アンビバレンツな心持ちが静かに流れている。

 うちらぁの人生の総集編のような「お題」でした。

2023年1月22日日曜日

マスク付きコロナフリー

 今日はこれから、seminar。昨日、「seminar次第」A4版12ページをコピーしようとコピー機に原稿を読み込み始めて、11ページであることに気づいた。末尾につける1ページ分のプリントしたものを忘れてきていることに気づいた。全くの迂闊、粗忽。

 家へ取りに帰ったが、すぐに出直す気にならず、3㌔ほど先へ買い物に行くことにした。実は昨日は年に一回の、各家庭の排水口の高圧洗浄の日。日にちだけが通知されていて、午前か午後かもわからない。留守中に業者が来ては気の毒だと思っていたから、買い物に行くのを躊躇っていた。隣の4号棟からはじめている。高圧器を積んだ車両の所まで行ってみるが、誰もいない。皆作業現場へ行っているようだ。となると、わが棟は午後と読んで、買い物に出かけた次第。往復1時間半ほど。

 北西の風が吹き、寒い。首回りと手が冷たい。ネックウォーマーをして手袋を塡める。歩いているうちにだんだん暖かくなる。晴れた空が気分を明るくする。カミサンが書き置いたメモを見ながら必要な品物を手早く買い求め、足早に帰宅する。帰りには少し暑いほどになり、羽毛ジャンパーの前を開けて風を入れる。帰りは追い風になるから、ネックウォーマーも取り払う。荷物はリュックに収まる。5㌔にもならない。

 11時過ぎに帰り着いてみると、高圧器を積んだ車両はまだ4号棟の方にあり、ホースだけがわが棟のわが階段にまで延びていて、入口で止まっている。良かった。まだ、のようだ。

 お昼を済ませ、ボーッとTVを観ていたら、ピンポーンがなった。ちょうど1時。作業の人が入ってきて、ブルーシートを玄関口から台所までさかさかと敷き、台所や洗面所、風呂場、洗濯器置き場、トイレの洗面台へ次々と高圧洗浄を済ませ、10分ほどで終了した。終了の印をつき、やあ、ご苦労様でしたと送り出す。やれやれ。

 この高圧洗浄は毎年一回行っている。先日関西に住む娘が話していたところでは、一戸建て家屋の排水がスムーズに行かないので、何カ所かの排水口から排出溝までが詰まっているようだと、覗いてみたら、石のようなものがこびりついていたという。それをいろんな器具を使って削るように取り払ってみたら、こぶし大の固まりがバケツいっぱい以上にもなった。聞くと、13年分の脂の固まりだそうだ。へえ、脂がそんなに溜まるんだと思うと同時に、(団地の場合)年に一回の高圧洗浄という作業がそういう面倒から持主を解放してくれていると思った。

 午後わりと早くカミサンが帰ってきた。お茶をしてから、seminar「次第」のコピーを取りに行く。お昼のTVでは「マスクは必要かどうか」とやっていたが、お客は皆さんマスクをしている。外を歩くときも、寒さのせいもあるのだろうか、ほぼ皆さんマスクをつけている。私は外ではマスクを外すが、自宅以外の建屋・家屋に入るときにはマスクをつける。政府がマスク不要と言おうと言うまいと、自己判断するしかないと人々は肚を決めた。メディアの云々も、ほぼ聞き流すだけだ。そこまで、この3年ほどの間に鍛えられた。「5類」にするとどんなモンダイが生じるかとTVは遣り取りしている。だが、その「分類」の枠組みそのものを流動的に考えようという意見は、ほとんど聞こえてこない。融通の利かない法的硬直性がこの国を縛り付けているようで、先行きが危うく感じられる。

 帰宅してまた、TVの前に座り、大相撲を観る。十両の朝乃山が優勝を決めた。千秋楽で勝つと、幕内へ戻ってくるようだ。下剋上とメディアは表現するが、平幕と役付き力士の力の差が小さくなった。平幕の琴勝峰も,千秋楽では貴景勝との取り組みになる。観ている分にはオモシロイ。国技館も連日「満員御礼」だから、コロナはマスク付きでフリーになったような感触だね。

 今みたら昨日の歩行数は「11200歩/8.2km/1:33」。なんだこれしき、であった。

2023年1月21日土曜日

不安の煙、死の予感?

 寝ているとき妙な体感をもった。ふと気づいたのだが、ぷくりとどこからか湧いてきた煙のような「不安」が胸中に感じられ、あっこれが、死の予感かなと思ったのだ。「不安」と名付けたが、寄る辺のない不安、地図のない道を独り行くような心もとなさ。

 消化器系の不調ではない。といって循環器系のどこかに不安の素を当てはめることが出来るほど、明確な「煙」ではない。まさしく色即是空、空即是色といった風情の「煙」だ。何だろうこの煙の醸す不安はと考えて目を覚まし、時計を見る。夜中の1時半。4時間ほど寝ている。トイレに行き、寝床で再び考え込む。そう言えば、山のホテルで床を並べている隣にいた長兄が熱があると起きだし、咳き込んでいたので、救急車を呼んだ。その救急車が来るまでの15分ほどの間に急逝したときも、ひょっとしたらこんな気分だったのだろうかと8年半ほど前を思い起こす。急性心臓死だった。

 あるいはまた55年ほど前、前夜大宮で会って話し込み、夜10時頃に分かれた友人が,その夜の就寝中に急逝し,奥様から電話をもらったのは明け方の6時前であった。突然死とかポックリ病と当時は言っていたが、彼はまだ20代の後半ではなかったろうか。その彼も、このような「不安」を感じたろうか。

 昨日の私の行動を振り返る。午前中、カミサンが見沼田圃のトラスト地のボランティアに行くのを車で送り、そこへ車を置いて見沼自然公園へ散歩に出た。高台の植栽地を巡ってホオジロやシジュウカラ、ツグミなどをみて歩き、加田屋川沿いに戻ってくる1時間半余のルート。人も少なく、ヒドリガモやオナガガモ、カイツブリ、オオバンなどが群れ、ダイサギやアオサギが悠々と川の流れに沿って飛ぶ姿は、さすがに見沼田圃の名に恥じない。

 家へ帰って日曜日のseminarの準備をして、昼食。午後3時から公民館のストレッチに出かけ、2時間ほど遊んで帰ってきた。水分は午前中350ml、午後350ml。しっかり摂取している。大相撲を見て夕食。おでんも美味しかったし、おチョコに2杯の日本酒も,これで十分という感触が良かった。つまり体調的に可笑しなところはどこにもなかった。健康そのものだと思っている。

 そして深夜突然の「不安の煙」。そう言えば先日読んだ中井久夫の自伝的本の中で、曾祖父だったか高祖父が「間もなく死ぬ」と告げて4日間絶食して身罷ったという話を書いていた。寿命を悟ったのであったか。そういうことがあって、そのようにできるなら、それもまた見事だと思いつつ読んだことが影響しているのか。死の予感を得たように思ったのだった。

 心当たりがないわけではない。何しろ80歳だ。それに来週には市立病院へ行って、24時間測定ホルターをつけて検査して貰う。私の右だか左だか心房肥大があり、不整脈の原因となっている。1年に一回程度検査を受けてチェックして下さいと言う。医師は取り立てて騒ぐほどのことではないが、注意しておいた方が良いという口調であった。

 この「不安の煙」の話は、しかし、カミサンには話さないことにした。言うと、それが彼女の心配のタネになり、彼女の高齢者鬱を引き起こす引き鉄になりかねない。それにしても、「不安の煙」はしっかりとワタシの胸中に踏み跡をつけていった。こういう「煙」が繰り返し現れるようなら、間違いなくワタシの寿命の期限が迫っている証し。いつ身罷ってもいいように、カミサンや子どもが困らないように,伝えるべきことを書き置いて準備をしなければならない。そんなことを夢うつつで考えていたら、6時前になっていた。

2023年1月20日金曜日

予知夢?

 妙な夢を見た。トイレの便器にペーパーが溢れそうになっている。水を流すことをまったく考えていない。でもこの事態がワタシの招いたものだと私は思っている。便座の蓋を降ろす。すると、便座の上に大きなうんちがとぐろを巻いて落ちている。えっ、こりゃあ大変だとトイレットペーパーを切り裂いてそれを便器に入れようとするが、きれいに取れない。あたふたする。すると向こうにお袋がいて手を貸そうかという顔をしている。ドアから亡兄が覗いて手伝おうと声をかける。いやいや、これは私の不始末だからと思うが、言葉にならない。

 この辺りでトイレの事態を観ている自分に代わっている。紙が詰まっているって言うよりも、紙おむつを流したから詰まってんだよと、少し事態がみえている。でも紙おむつってどうしてワタシが? と思ったとき、そうだ、市立病院で手術をしたとき紙おむつを用意したんだっけ。それを使わないままに持ち帰ったのがあったが、それを流しちゃったのかと理屈を合わせている。これって、ワタシが認知症になったときの夢ではないのか。なぜこうなったかをわからないまま、しかし、この事態を引き起こしたのはワタシであり、これを始末しなくちゃならないのはワタシなのだと認知している。でもどうしていいかわからない。あたふたするのは、自分を客観視できないからだ。そんな理屈まで考えていたのが、夢の中。

 ゴーゴーと鉄路を走る電車の音がし、隣のリビングに灯りがついている。おやまだ、終電の頃なのかなそれとも始発の頃なのかなと,枕元の目覚ましを見る。5時35分。おや、朝までトイレにも行かず8時間半ほども熟睡したんだと思って起きだした。

 予知夢かと考えていたが、そうでもない。団地の給水管の更新工事をした後に、トイレが詰まって逆流する事故が2件あったと、カミサンが井戸端会議で聞いてきたことを話していた。トイレに流せる紙おむつを考案したと新聞の記事で読んだ。認知症の母親が,自分の不始末を始末しようと畳の上の便を手で撫で回して大変だったと、十歳も年上の友人がむかし話していた。

 でもこれが何で今ごろワタシに甦ったのか。亡母も亡兄も手を貸そうというのは、三途の川を彼岸に渡る手伝いってことか。それにしても辻褄が合いすぎる。突き放してみるとオモシロイが、心地の良い夢ではなかった。

2023年1月19日木曜日

合理的ブラックボックス?

 風呂のスウィッチを入れてテレビを観ていた。おや(もう30分以上経ってるなあ)、沸いたかな? 先へ入ってとかみさんが言う。そうか、沸いたか。準備をし、風呂場に入って湯船の水を汲み出して身体を洗おうと湯を掛ける。おっおっ、なんだこれは,まだ沸いてないじゃないか。慌ててタオルで拭き取って,服を着る。風呂のスウィッチをもう一度押す。「お風呂を沸かします」とカワイイ音声が出る。「なにやってんだ、沸いてないよ」と声を上げてリビングへ戻る。カミサンが、えっ? といって風呂場へ立つ。また、カワイイ声が聞こえてくる。「壊れちゃいましたね」とカミサンが言いながら戻ってくる。

 機器類の「取説」をひとまとめにしているファイルから給湯器のそれを探す。あった。ファイルに挟んだ修理記録の領収証がポロリと落ちる。拾ってみると、2015年12月の日付。「湯が沸かない」と症状も書き、「出張費」「技術料」「部品代」と修理細目も記している。そうか、約7年前か。カミサンが東京ガスのカスタマーセンターの電話番号を記した小さなカードと社員の名刺を持ってくる。そうだ、先々月だったか、突然ガス警報器が鳴り出して点検修理に来て貰ったことがあった。そのときに置いていったものだった。みると、7年前の領収書の電話と同じだ。

 翌日カミサンは、植物観察で出かける予定があった。行け行け、私は何もないから修理をして貰うよと送り出す。大丈夫? とカミサンは言う。バカ言ってんじゃないよ、これしきのこと、と引き受ける。そう言って、いま読んでいる吉田修一の短編「口癖」を思い出す。「なんのそれしきで」という姑の口癖がこの短編の謎解きになるというミステリーだ。

 9時過ぎて,カスタマーセンターへ電話を入れる。すぐにつながり、こちらの訴えを聞いて、「午後1時から3時の間に伺う、行く前に電話する」と即答。やれやれ、一安心だ。JCOMとかNTTとかは、カスタマーセンターにつながるまでに10分も15分もかかる。苛立っても機械相手では仕方がないが、アナログ育ちからすると、なんと不便な時代になったんだろうと愚痴も出る。それと比べているワタシを一寸意識する。

 午前中に「一時から2時の間に伺うが」と問い合わせ電話が来た。「はいはい、ありがとう、よろしく」とお願いして散歩にでも出ようかと思っていたが、立ち歩くと腰の具合が不安定だ。このところ「ささらほうさら・無冠」の今月号の編集でパソコンの前に座りっぱなし。ただ歩くだけという運動もしていない。加えてこのところの冷え込みで、体は縮こまりたがっている。腰も伸びないわな。横浜に住む同期の友人も、腰を痛めて今月のseminarに参加できないと返事してきた。そういう季節のそういう年齢になった。

 1時に東京ガスからやってきた。一人、60年配。スリッパなども用意している。ベランダへ出て、給湯器の蓋を開け、中をチェックする。覗き込む私に、「ああ、これが壊れてますね。これが回らないと点火しないんです」と、ネジ回しでコツコツと部品の一部を叩く。ファンらしい。部品を止めた車に取りに行き、戻ってくる。そして「この部品修理は代金は要りません」という。えっ、どうして? と思うが、文句を言うわけじゃないから口にはしない。彼は坦々と取替作業を済ませ、一寸風呂場のスウィッチを入れて直ったことを確認し,修理は終わった。出張料も技術料も不要であった。どうしてだ?

 この団地に住み始めたのは1990年の3月。それ以降一度,給湯器は取り替えている。十年目ほどであったと思う。7年前の領収書を見ると「機器ナンバー」を記してある。××03-07.××とあるのをみると、2003年だったろうか。取り替えてからそろそろ20年になる。いや2台目が良く持ったものだ。そしてファンの故障。修理者がみせてくれたのは羽がボロボロに壊れているファン。「樹脂製だったんですが、今度は金属製に変えましたから大丈夫です」と言葉を足した。とすると、こうか。樹脂製のファンは欠陥品として全製品取り替えねばならないことに(いつやらから)なったが、故障してから(東京ガスが)無料で取り替え、その修理に要した費用は製品の製造会社(うちの場合はナショナル=現パナソニック)が負担するってことになっていたのかもしれない。そう考えると、グラックボックスもそれなりの合理性を持って設えられ、それなりに運用されている。それにしても20年も、よく部品がとってあったなあと感心した。こうしたことひとつが、産業製品に関する社会的信頼につながっていると、わが身の裡に去来するコトゴトを思い浮かべて思ったのでした。

2023年1月18日水曜日

塗り重ねるウソ

 また1年前(2022/01/17)の記事「平均も中央値もない幸運」というのが送られて来た。コロナウイルス禍に対処する政府・公助のありようがわからないことと自助しかないことの覚悟とが、さらに1年前、つまり2年前の様子を交えて綴られている。ちっとも変わらない。一つ、2年前に私は「ゼロコロナ」をイメージして政府の対処と都知事の反応とを比べて記している。そして1年前にはもうすっかり「ゼロコロナ」は姿を消し、自助しか頼るところがないと心定めた経緯が記されている。これはちょうど、今の中国政府の方針転換をみている人々のように、結局頼りになるのは自前の術だけと自覚するのに似ている。

 中国のwith-コロナへの転換に伴って公開するに及んだ「情報」が嗤われている。死者の数が「38人」から一挙に「6万人」に増えた。それでも日本のメディアは、まずこの十倍はあるでしょうねと報じている。中国政府は、国内向けの「情報」と国際向けの「情報」を使い分けているつもりだ。

 中国国内の人たちは死者数を,ご近所で目にする死者の数とか身近な火葬場の混雑具合で推しはかるしかない。マス・メディアを通じて知るのではないから、直ちに一般化しない。身近な様子で見極めるしかない。知り合いとの伝聞を通じて,つまり流言蜚語として、現状を摑む。どのつまり政府の数字はウソだというふうに行き渡る。

 それが厳然と露呈するのが、海外へ渡航しようとするヒトへの、外国の処遇である。ことに日本政府が中国からの渡航者に課した感染確認期間の対応が厳しい。中国政府は(国内向けと考えるしかないが)「差別的な扱いをしている」と抗議することで、ウソを塗り重ねようとする。でもこれがさらに、中国政府のウソでウソを塗り重ねる為体を露呈させる。

 世界はどうするだろうと思っていたら、WHOは「数が少ない」と批判した。アメリカも、感染しているウイルスのDNA情報を公開せよと要求して誤魔化しを認めない。なるほどそういうふうに詰めていくのだと、王手を掛ける将棋をみているような気配に興味が湧く。

「でも中国だけじゃないじゃん」

 と,わがカミサンは、日本だってアメリカだって似たようなものという口調だ。中国びいきというわけじゃないが、いじめっ子のジャイアンのようにアメリカが口を挟むと、判官贔屓というか、ついついいじめられているのび太の肩を持つ。

 おいおい、そういうモンダイではないよ。日本やアメリカは,それでも情報公開のシステムを取っている。中国は、端から蓋をして,知らしむべからず依るしむべしという国是だ。日本の情報公開が笊のようで、ホントのことが何かわからないというのは、その通りかもしれないが、それでも、笊のようだということは、隠さない。何が事実かは推察するしかないが、推察する手がかりはオープンにしている。そこが違うと私は思う。

 いやしかし、よくよく考えると、どちらが優れているかわからないところもある。なまじっか隠さないシステムと思っていると、隠しているのに気づかない。だが恒に隠していると、何を言っても、ホントのことは隠しているというリテラシーが鍛えられるってワケだ。だからどちらが優れているというよりも、政府は基本的に情報公開を旨として運営せよという程度の基本姿勢を、為政者はもつ必要がある。これが、民主主義って政体の基本である。

  そして3年目の感懐。たとえその民主主義の政体であっても、基本は自助なんだということ。何がホントで何がウソかも、自分で見極めるほかない。ワタシは何をホントと思い、何をウソと感じているかを,一つひとつの事象についてわが胸に問い、その自問自答を繰り返し、積み重ねる。そうやって世界を見る目を養い、自分を見る眼を鍛えていく。これ以外に、中国政府のウソをウソで塗り固めて自己破綻する場合はともかく、ヒトの世界の(ワタシの)真実はみえてこない。

 でもそこまで開き直ると、案外セカイはスッキリしてみえる。そんな感じがする。

2023年1月17日火曜日

我田引水流の思い込み

 1年前(2022-01-16)の記事「ヒトの暮らしの現場を見よ」が送られて来て読み返し、いやはやお恥ずかしいと思ったこと。前段で書いたコトのオマケとして、こんな風に書いている。

《いつであったか、カミサンがTVのチャンネルを切り替えていたとき、国会中継が流れていた。その瞬間、「人がやることですから・・・」という大臣の声が聞こえ、「ちょっと止めて」とチャンネルを回すのを止めてもらったことがあった。質問者が何を聞いたのかはわからなかったが、コロナウィルスとマイナンバーカードとデジタル化のことではなかったか。発言者は山際経産相。こういう政府答弁を耳にしたのは久しぶりだという思いが湧いた。こういう人を大臣に据えているだけで岸田内閣に対する信頼感は、グンと増すと思った。「人がやること」には、推進する作業現場の人の姿が組み込まれている。その不確実性を参入すると、そう機械的に、形式的に、予定通りにコトが進むとはいえないという言葉の含みが、好ましい。》

  この山際大臣の辞任に触れて、1年も経たない2022年12月26日の記事「年寄りの小言」で、恥知らずのお人のように書いている。何とこの落差、何とこの人を見る目のないこと。そう自分のことを思った。 なぜこんな違いが生まれたのだろう。

 まず私は、1年前の山際大臣の発言がどのような場面でどういう趣で口をついてこぼれた言葉かを知らないままに、好感を抱いたと記している。これって、思えば、彼の言葉を文字通り切り取って、自分に好都合に解釈して好感をもっただけじゃないか。つまりそもそも、ヒトを見ていない。まして政治家の,国会発言中の言葉だ。そんなことを素に受けて、自分の思いを重ねるなんて、それ自体が恥ずかしい振る舞いではないか。ましてそれを「こういう人を大臣に据えているだけで岸田内閣に対する信頼感は、グンと増す」などと内閣への評価に結びつけるなんて、政治へのリテラシーがまるでないことを露呈している。我田引水の流言蜚語である。まずそう反省した。

 ついでほんの半月前の「辞任」にかこつけた記事。これも山際という人物に触れているわけではなく、ホンネとタテマエという列島に長く定着してきたヒトを見る自然観が、もはや身を覆う衣装ですらなく、ホメオスタシスと言われる自己保存本能は、剥き出しで人前にさらしてなに恥じることがない時代になったとみてとっている。もう一つ、一月前(2022/12/11)の「羞恥心の起源」で、「自己愛」という「愛(ハ)し」を知るホンネだけが表通りに引っ張り出され、タテマエ同然にまかり通るご時世になったと慨嘆した。そういう時代的表象としてこの元大臣を引き合いに出しただけ。やはり人物を俎上にあげたわけではない。むろん、それで十分と思ってはいるが、そのワタシの心持ちが,今回のヒトを見る目の無さをよく表している。

 つまりワタシも、普遍的にヒトや時代を語るクセが身に染みていて、結局、今ここにいるワタシが、特定すべきコレについて語るという語り口をもっていないことが表面化していると思える。何だ、どうこう言っても、結局、欧米風普遍主義的客観主義の枠囲いの中で云々している輩に過ぎないじゃないか。つまんねえヤツだなあとわが身を振り返っている。いや、申し訳ない。

 でもまあ、1年の猶予を得たにせよ、わが身を振り返って反省する機会をいた。これも、わが感懐を書き記して,外部化しておいたが故に出逢うことの出来たこと。徒然草も、まさに自己対象化の方法として、自問自答の梃子になっている。結構、結構。

2023年1月16日月曜日

最短距離とショートカット

 今月の「ささらほうさら・無冠」の編集を済ませた。発行するために、コピーを取りにご近所のスーパーへ行く。雨。道には水溜まりができている。どこをたどるか思案しながら歩いていて、ワタシのヘキに気づいた。ほぼ恒に最短距離を取ろうとしている。道はくねくねと曲がっている。真っ直ぐな道とか四角な建築物は、高度経済成長期のセンスだ。無駄を削ぎ落とし、コスパを良くし、機能一片やりの土建国家で突っ走ってきた。その結果手に入れた高度消費社会は、文化としての余裕をもてよというかのように、建物には曲線が取り入れられ、道路や橋脚は曲線が取り入れられて、美しさを誇るようになってきた。もっとも、百年以上主前のバルセロナのガウディの建築やグエル公園は、高度消費社会ではなかったろうに、すでに、真っ直ぐな直線的建築を笑うかのように建っているから、日本の高度成長期建築群の特徴なのかもしれない。

 だがワタシの世代は、産業社会の高度成長が身に染みたせいか、ついついモノゴトに真っ直ぐに取り組み、出来るだけ効率的に,最短距離で最高度の利得を手に入れるように身体が動いてしまう。道を歩いていて、つくづくわが身がそうなっていることを実感する。これは、潔癖症とも関係しているのだろうか。

 癖(くせ)というと意図せざる身の習いのようにみえるから、ヘキ(癖)と呼ぶ。でも無意識に染みこんで身についている習いは、もはやクセ(癖)というよりヘキ(性癖)。しかもヘキ(壁)としてわが身に立ちはだかり、意識していないとついつい最短距離を取り、それ以外の道を排除してしまうカベになる。そう思った。話は逸れるが、この性分は、案外デジタル的なアルゴリズムには相性がいいかもしれない。

 山を歩いているときも、地図を見て行けそうなら最短距離を選ぶ。ま、ふつうは、踏み跡をたどるものだが、木に摑まり急斜面を降れば、十㍍下の林道に降り立てるとなると、何百㍍の回り道を迂回してそこへ出るルートを振り払って、そのショートカットのルートを取ろうとしてしまう。加えて、そのときの緊張感がまた、たまらなく達成感を生む。アドレナリンが放出され、何でもないハイキングがいきなり中級や上級のルートファインディングに変わる。ますます意気軒昂になって、危ういところへ踏み込んでしまうってワケだ。いや、ワケであった。これが私の「至福の滑落」につながっていたようにも思う。懲りないのだねえ。

 その、身に染み付いたヘキを改めないと、なかなか現代文化に馴染めない。いまさらとは思うが、この先,永訣まで十年もないとは言え、後期高齢者が愈々末期高齢者となってなお、散歩にもコスパを考えてしまうというのは、可笑しい。滑稽だ。お笑いである。その対局には、ボーッと生きるしか道がないように見える。後のない高齢者が,も少しスマートに、のんびりと散策をたのしむって風情に身を浸しておかないと、人生そのものもショートカットして,パッと彼岸に渡ってしまいそうになる。

 ま、こんなわが身のヘキを発見して、日本社会としては史上初めて通過した高度消費社会の真ん真ん中を、敗戦直後の貧窮生活からたどっり歩いたのだと思うと、ひときわ感慨深くなる。そうだねえ、その中軸とも言うべき世代だったわけだから、悪いことも良いことも、みんなワタシが悪いのよって責任を被せられたって,申し開きは出来ないかもしれない。でもね、この潔癖症とも言うべき,最短距離ヘキは、日本産業社会の成長期になって発生したものなのかなあ。もっと昔から、連綿と受け継いできた社会的とか集団的無意識とかいうものが、作用しているんじゃないかなあ。そういう疑問を残したまんまで、わが身のヘキに思いを致したのであります。

2023年1月15日日曜日

永遠って混沌のことか?

 録画していた《見えた 何が 永遠が 〜立花隆 最後の旅 完全版〜》(NHKBS、2023/1/3)を観た。「知の巨人」と持ち上げられているらしいが、なぜそう呼ばれるのかは知らない。田中角栄の金脈政治を告発したジャーナリストという程度だった。カミサンが見始め、私はパソコンの前に座ってみるともなく目にしていたが、立花隆の「享年80歳」というのを耳にして、何だ(今の)私と同じじゃないかと思い、座をソファに移して最後まで観た次第。彼が二つ年上であった。

 彼の探究心はヒトのクセの発露と思う。書籍と歩いて得た取材記録・インタビューで、足の踏み場もないほどの「資料」の山に囲まれた彼の仕事部屋をみると、「巨人」かどうかはわからないが、なるほどこれを「知」と呼ぶのか、好奇心の分量としてはすごいと思った。と同時に(おおよそ比較しようというレベルではないが)、渉猟した本の領域は似ているけれども咀嚼の仕方が違うと感じた。ただ番組は、その取材者や編集者・ディレクターの身体回路を経過しているから、そのまま立花隆のものと言えないかもしれない。

 渉猟した本の領域というのは、宇宙や生命の淵源にかかわる自然科学や進化生物学から社会関係論への「かかわり」を含む領野を視野に入れているということ。もう一度繰り返すが、その分量に於いておおよそ比ではないから,比べているのではない。それを生業とした立花隆が自らに課した制約は、むろん門前の小僧ではない。まさしくその専門領域の境内にまで踏み込んで、しかもその領域の「知」が保とうとしている客観性とか中立性とか公平性を、「普遍性」という言葉に寄せて具現しようとしているのである。そこに領域的に分業分断分節した「知」である専門家と、その領域にきわどく線引きされる限界に構うことなく自らの身体性に組み込んでまるごと咀嚼しようとする生活者・庶民が突破する(流言蜚語的)大雑把さの、敢えて言えば、確執をワタシは感じている。

 その世界の読み取り方が、なるほど彼はジャーナリストだと思った。自分の身体性経由させた形跡を見事に行間に隠してしまう。そもそもそのモンダイに接触したときの内発的な衝動を伏せて、その探求がどう科学的に,人類史的に意味を持つかを、普遍的に問うている(とディレクターが受け止めている)。その矜持は、(庶民からみると)襟を正すに相応しい厳しさを感じさせる。どれと共に、どうしてそこまで「普遍性」を特異的に屹立させたいのかわからないなあと思わせる。

 ただ立花隆が講演をしているときも、取材相手を言葉を交わしているときにも、湧き起こる内心の感情に言葉を詰まらせ、しばし気持ちの平静を取り戻す時間をおいて、話を続ける姿を見ていると、ああ、彼も「我がこととして述べるようにすれば、もっと違った陳述になったであろうに」と思わないではいられなかった。どちらがいいというモンダイを述べているのではない。普遍的であろうとすることがもつ(ジャーナリストや科学者の)クセの制約というか、抑圧性をワタシ(庶民)は気に掛けないようにしていると思ったのだ。ここに、言うまでもないが、庶民の危うさも組み込まれている。

 立花隆の辿り着いた地点に「見えた、何が、永遠が」とフレーズを置いたディレクターは、宇宙からすると一人の人間はゴミみたいなものと(立花が受け止めた)とみている。これもワタシの感懐と似たようなものだ。ただワタシは、ゴミどころか、黴菌とかウイルスにも当たらないケチな存在とみている。だがそれを、「永遠」と呼ぶのが,まだしっくりこない。

 ニーチェのような「永劫回帰」という意味合いを込めているのか。ケチな存在からすると大宇宙はほぼ永遠に等しいという意味合いなのか。まさかね。だって138億年前のデキゴトと(ケチな存在が)限定しているんだもの、それを「永遠」というのは、自家撞着ってもんだ。

 では「永遠」って何だ。(ケチであろうとなかろうと)ヒトの好奇心からすると、「混沌」が「永遠」なのではないか。一直線上に「発展する」とみると、「永遠」というのはとどまるところを知らない先になる。だが、「わかった」先に「わからない世界」が恒に起ち上がるとなる「混沌」は、「永遠」と名付けるに相応しい。立花隆の「知的旅」の果てに、そのディレクターは、その「混沌」を感じたのであろうか。もしそうだとすると、ワタシはうれしくなる。

 でも、そうだとすると、科学的専門家とジャーナリストとは違うし、彼らと庶民ともまた違う。好奇心の発露はどの世界の方々も似たようなもの。とすると、その佇まいの仕方の違いの差異から、生み出される違いなのだろうか。

 門前の小僧である庶民、境内に座を占めているジャーナリスト、境内の奥に置かれた本堂や講堂、舎利殿や金堂、五重塔などに坐します専門家という想定をして、そのヒトたちの佇まいと関わり具合とが、今、どのように位置しているのか。

 そうしたことをケチな存在としてもみておきたいと思った。

2023年1月14日土曜日

共助依存が怖い

 芦屋から娘がやってきたのは、いとこ会が新宿で開かれたからであった。いとこ7人のうち5人が集まった。出席しなかった二人のうち一人は北海道に出張仕事があったためだが、もう一人は仕事の都合であったのか。一番遠くからの参加は仕事で南米に在住している。年に一度の帰国を機に、もっとも集まりやすい東京で行われた。いとこのネットワークがこのように機能していたことに親世代の私は驚いているが、最初にこの話を聞かせてくれた息子は、えっ、結構連絡は取り合ってるよという。

 うち二人はそれぞれ一人ずつ子どもを帯同していたという。中学生と5歳児。写真を見せて貰った。いや、親子だねえと感嘆の声が出るほど、父娘が似ている。5歳女児は3年前に会ったときの無邪気なまんまという風情に、うれしくなった。

 いろいろな近況を交わしあったようだが、間もなく40代を終えるわが娘が驚いたというのを聞いてう~んと呻った。いとこ5人のうち二人が,すでに転職4回だと話していたそうだ。最近の東京では、そういうことがごく普通になっているのかと問われて、応えることができなくなった。むろん仕事にもよるのであろう。IT関係の仕事やITを用いたイベントの開催や広報活動の領域では,ひょっとするとそういう傾向になっているのかもしれない。何しろ第三次産業とか第四次産業と呼ばれるのが産業の主流になっているのだろう。もう昔の産業社会感覚では、見えなくなっているのかもしれない。漢語という専門職の仕事なら、もっとそういう転職ってあってもいいんじゃないと言われて、娘は言葉を失ったそうだ。一つことを長くコツコツと務めるってコトを美徳のように思っていたと笑う。ははは、笑われるのは、私の世代も同じだね。

 中学生は,大学まで続く所謂エスカレータ式の学校のはずなのに、塾に通って勉強しているという。どうして? と目下高校受験生をもつ親いとこは聞いたらしい。勉強が好きなんだそうだ。そう言えば、と私は思い出した。近頃、小学生や中学生で、ほとんど専門職の大人と同じような「研究」に勤しむ子どもがいる。よくTVで紹介されて驚かされる。そうだねえ、親がそういうセンスを持っていると、子どもの育ち方にも影響するだろうね。学校だけじゃ何だよって時代になってきたとも言える。

 南米に暮らす子どもの方は、日英のバイリンガルだったり、日英西のトリリンガルだったりして、すっかり国際派になっていたという。5歳児は、安易かを強く訴えるときとか怒るときには英語が口をついて出てくるそうだ。そだねえ、もう日本では暮らせないかもしれないねと、他人事ながら(その子が高校生年齢になる頃のことを思って)私は心配になる。ま、いいか。日本で暮らさなくても、世界は広い。

 夜遅く帰ってきた娘とそんな話しをしたが、翌朝娘から、「動けなくなってからじゃ遅いから、動けるうちに芦屋でも名古屋でも、子どもの近くに越してきなさいよ。結構今なら、サ高住など、賃貸の高齢者用住宅があるから」と、最終段階の警告のような言葉が出てきた。いや、我が家も、二人のうちどちらかが身罷ったら,そういうことを考えましょうと考えてはきた。だが娘の話では、二人が動けるうちにそういうことを考えて、手を打った方がいい。もっと歳をとると、引っ越すのもメンドクサクなってできなくなるからと心配している。

 元気なうちは世話にはならないよと言ってきた私も、メンドクサクなる、には肚の底を覗かれたような心持ちになった。そうか、80歳というのは、そういうことを具体的に算段しなくちゃならない歳なのだと思い知られた気持ちがする。足腰が元気なうちは,まだいいかと思っていた。だが子どもにそう言われると、ついつい子どもを頼りにしたくなってしまいそうで、(そういう自分が)怖いなあ。そんなことを思った。

2023年1月13日金曜日

一つコトしかできない

 今日は13日の金曜日。黒猫をみることはなかった。歯医者予約の日。歯槽膿漏で歯はボロボロになり、次々と入れ歯に代わってきたのに、まだ最後の悪足掻きか、左下奥歯が揺さぶられている。医者は丁寧に噛み合わせの調整とぐらつく歯をできるだけ抜かないで長持ちさせましょうと,手入れを施してくれる。本当に,デキの悪い歯で申し訳ないですねと歯に責任があるようなことをワタシは思っている。

 あっ、そうそう、昨日何かの番組を観ていたら、コロナウイルスの自然免疫だかに、歯槽膿漏が関係して効果を発揮するということが話題になり、織田裕二が「じゃあ歯槽膿漏になればいいんだ。これって、人為的にできますよね」といって、でも歯槽膿漏になっちゃいますよと相手をしていた司会者が笑っていたっけ。そうか、それで私は、コロナに罹らずに来てるのかな。

 概ね月一回通っている。その都度、医師が治療をはじめる前にチェックして、歯科衛生士が歯を綺麗に手入れしてくれる。ありがたいことだ。

 暖かい。日差しもあって、寒さを忘れる。

 家へ帰って,今月号の「ささらほうさら・無冠」の編集をはじめる。今月号には、「間貸し」をしている人たちの入居が多い。それをタイプして割り付ける。一つことをやっていると、他のことが飛んでしまう。

 お昼を食べていて、そうだ今夜、遠方から娘がやってくるのだったことを思い出す。カミサンは歌舞伎を観に行っている。リビングに掃除機を掛けるっていってたけど、やったのかなあ。やってないなあと気づいて、掃除機を動かす。ついで、いつも占拠して散らかしっぱなしにしている食卓テーブルの古新聞や置きっぱなしの資料類を隅の方にひとまとめにする。

 午後3時前、家を出てストレッチへ行く。公民館へ行ってから、講師料をもってきていないことに気づく。慌てて家へ取りに帰る。何しろ私が会計係だから、忘れるととんでもないことになる。これまでも2,3回そういうことがあり、取りに帰った。同時に幾つモノコトが処理できない。肝に銘じなきゃあと思うが、なかなかウマイ手がみつからない。

 こうしてやっと今、今日のブログを書いている。一つコトに取りかかると、他のことがお留守になる。歳をとってそれが、はっきり現れるようになった。ま、それもいいかと半ば思いつつ、そうやって自分を許してしまうと、ズボラがますます顕著になるような気もする。

 そうだねえ、一つコトしかできないのなら、一つずつ、きちんきちんと片付けてやっていくしかない。思いついたことをメモでもしておいて、やり終えるごとにチェックでもしてやろうか。いまさらとは思うが・・・。

2023年1月12日木曜日

「ウィ」と「ウイ」の当事者性

 石浦章一が『日本人はなぜ科学より感情で動くのか』(朝日新聞出版、2022年)で「ウィルスと書くのは素人、プロはウイルスと表記する」と記していて、驚いた。知らなかったというより、わざわざ「ウィ」と表記するためにキーボードを「wi」で叩いていた。何という粗忽、何という迂闊と、まず思った。ついで、でも、なぜこうした誤りにワタシは気づかなかったろうと思った。石浦は「素人」と「プロ」の違いがなぜ生じるのかに言及していない。

 言語学の専門家に聞くしかないが、「ウイ」と「ウィ」の表記について,たぶん日本語はいい加減だとワタシは思ってきた。もちろん経験的なわが身の感触である。

 たとえば、江戸初期の三浦按針はウイリアム・アダムス(William Adams)といった。「ウィリアム」と表記してもいた。アメリカの大統領・ウッドロウ・ウィルソン(Thomas Woodrow Wilson)は「ウイルソン」と書いても間違いだとは考えなかった。

 社会的慣習としてはどうだろう。冬を意味する英語winterは「ウィンター」と表記するするのが「普通」だと思うが。「朝日新聞デジタルのウインタースポーツについて・・・」とあって、「ウインター」と表記するのもあった。

 じゃあどうして、「プロはウイルス」なのか。ネットで検索してみて,これもちょっと驚いた。wikipediaでは英語の「virusヴァイラス」とあるが、語源はラテン語の「virusウィールス」とある。ウィルスでもいいってことじゃないか。そうワタシは思う。

 いやね、私は、自分の知らなかったことを正当化しようとして,こだわっているのではない。サイエンスコミュニケーションの専門家である石浦章一さんが、何の説明もなく、「素人はウィルス、プロはウイルス」と言い切っているのに、違和感を覚えたのだ。市井の庶民が素人であることは紛れもない事実。ラテン語の語源を知っていて、そう表記しているなんてことはないのだから、言うまでもなく石浦の言っていることが「正しい」に違いない。そう気づいてからみていると、おおよそ世の中の権威とされるメディアの表記は「ウイルス」となっている。パソコンの検索ソフトでさえ、「ウィルス」と打ち込むと「ウイルス」と訂正して検索するから、世の常識である。だが、もしそれを石浦さんが気づいたなら、どうして素人はウィルスと書くのか、プロはなぜウイルスと記すのかに触れて記述しないと、ただ単に素人の無知を嗤う響きしかもたない。おっと、だから「日本人は感情で動くのか」と強調したいのだというかも知れないが・・・。

 プロが素人より優位性をもっているのは、より根源的に、モノゴトの淵源を突き止めて考えていくことにある。だからこそ、「感情より科学で動く」と科学者は胸を張れるのではなかったか。その肝心なところで石浦さんはミスを犯しているとワタシは感じている。ミスというより、石浦さん自身の身に染みた「科学者/庶民感覚」が露呈したのであろう。

 いやこれ自体は、たいしたことではない。だが、この「感情で動く」ところが、まるごとの庶民の受け継いできた生得の技である。庶民は常に「当事者」なのだ。科学者は,自らを当事者性から外すことによってモノゴトを客観的に見ることができる。科学者の得意技を手に入れるには、誰がみても確認できる事実を積み重ね(そういう当事者性を解脱して)、論理的に突き詰めることができなくてはならない。だが。庶民はそうではない。自分のことしか目に見えていないと誹られるかもしれないが、「当事者性」を一歩も譲ることができないのだ。

 サイエンスコミュニケーションが必要とされるのは、科学的知見がそのまんまで当事者の跋扈する現場で通用するはずもないからだ。そこでは、現場の合理性に合わせて科学的知見を「補正」していかねばならない。その両者の言葉を仲介し、翻訳し、融通無碍に使いこなしていくことをサイエンスコミュニケーションの専門家は期待されている。政治家や官僚という為政者も,その才覚を必要とされる。

 その点で政治家が信頼を失っているのは、いうまでもない。政権政治家は科学者に対しても,その胸のうちを明かさないまま、対決姿勢を採ることにした。逆に庶民に対しても、見掛けのリップサービスばかりで、やっているのはお仲間のお接待だけというお粗末さであったから、おおよそ信頼とはほど遠い。庶民もまた、もうそれでいいやと思っているのか、我関せず焉なのかわからないが、知らぬ顔の半兵衛を決めこんでいる。ワタシもそうだ。

 ま、そういうわけで、せめて科学者への信頼は保ちつづけたいと思っている。だからヒトが感情で動くのは、コトの当事者だからだと理解し、それを組み込んで科学的知見を工学的技術に変換する手立てを考え出して頂きたい。もちろん、科学者も現代社会という現場の一人であることを忘れずに、と願っている。 

2023年1月10日火曜日

なぜヒトは科学より感情で動くのか

 石浦章一『日本人はなぜ科学より感情で動くのか』(朝日新聞出版、2022年)を読んでいる。どうしてこのような表題にしたのか,疑問が湧く。石浦は「日本人は」ということに特定した記述をしていないからだ。彼の記述内容が大学での講義をまとめたものである。私にも覚えがあるが、ワタシの体験から発することは、ついつい「日本人の」ことと思ってしまう。石浦は分子認知科学とサイエンスコミュニケーションを専門としている方だから、海外の研究者との付き合いも深く、そこで感じた「日本人」を取り出したのかもしれない。だが、そのような記述がなされているわけではない。

 私は日本人は・・・というより、ヒトは・・・と考えている。

 石浦と逆で、科学者はなぜ感情をないがしろにして「科学」の論理だけで動くのかと問いたいくらいだ。いや、石浦の展開しているのが、科学を無視し体感だけでモノゴトを判断する庶民に対して、もっと科学リテラシーをもてと一方的に。啓蒙的に言っているわけではない。科学者にもまた庶民が科学者に何を期待しているかを知る必要があると説いている。だからか、科学リテラシーと言わないで、サイエンスコミュニケーションと称している。双方向の遣り取りを考えている。通常科学リテラシーというと、ずぶの素人が専門的な科学をどうやって理解していったらいいかを説くものと相場が決まっている。つまり、科学に関してこれくらいは理解する素養を身につけてよと謂うのが、「リテラシー」ってヤツだ。科学とはまた一寸違うが、建築の専門家が団地の大規模修繕に関して住民に説明する際に遣う言葉が、専門用語そのまんまだったりする。もっとわかりやすく言ってよというと、「もっと勉強して下さい」と返事が来て、そんな言い方はないだろうと遣り取りしたことがあった。団地の理事長をしていたときだ。修繕専門委員会に、理事会にわかるように説明して下さい、理事会がわからないことは住民に説明できないですからと突っぱねて、押し切ったことがあった。もちろん喧嘩したわけではない。聞いた説明を理事会で文章にして,住民に伝える。理事会が納得できないことはとことん聞き質す。そして言葉をほぐし、修繕経過のどこが一番気になっているかを居住者から聞き取る。

 専門家は住民が勉強不足だと思っている。居住者は(専門的なことはわからないと)バカの壁を設けて、端から耳を貸さないってこともある。ほぐしすぎて理事の一人から「もっと簡略にできないか」と注文がついたこともあった。メンドクサイが、一つひとつそうやって解きほぐしていって、半年ほど経ってからやっと、専門委員会と理事会の意思疎通が図れるようになった。簡潔に言えば、理事会は修繕専門委員会のご苦労に厚く感謝するようになった。専門委員会は、理事会に解きほぐして工程の説明をするようになった。

 だが、科学する人と市井の人々との間に,どのような違いがあるのか。科学する人たちは、誰がどこから見ても同じように言えることを客観的といっている。だが、庶民は、誰がどこに立ってどのように見えているかでモノゴトは違って見えることを,経験的に知っている。専門家だって、何処に足場を置いて「科学的知見」を説いているか見極めないと、不都合なことは口にしないからわからない。後でただされると、「質問されなかったので・・・」とまるで政治家のようなことをいう。

 では庶民の立場って,何処に身を置いて何に関心を持ってみているかと問うと、一筋縄で説明することはできない。つまり「科学的知見」がそのまんまで庶民の暮らしに適用されて万事つつがなきやって風にコトは運ばない。「科学的知見」は、庶民の暮らしの合理性に適合しなくてはならないのだ。この庶民の暮らしの合理性に、感情が混ざるというか、介在するのがケシカランと石浦さんが考えているのだとしたら、やっぱり構えはよくても実質は一方通行のコミュニケーションだと言わねばならない。

 暮らしというのは、ヒトが感知するまるごとがかかわる。利害だけではない。コトの成り立ちや手続きやがモンダイになる。そればかりではない。理解するが、納得はできないってこともある。納得しても,承知できないとごねたくなることもある。何しろ私を含めて庶民は、自分でもなぜかわからないが、直感的に,まさしく感情で不条理だと感じることがある。ときどきなんてもんではない。しばしば、腑に落ちないことがある。もっと時間をくれよと言いたいが、提案したり説明する側は、タイムスケジュールってものがあるから、そういう言い分は聞かない。

 そうして、どうしてオレは、あいつの言うことが納得できないのかと自問自答する。そうしているうちに、ふと気づく。日頃の振る舞いが信用できない。つねに関連情報を公開しているわけではない。そもそもモンダイ点を検討するというが、提案者側に都合のいい、回答が目に見えていることだけをモンダイ点としてるんじゃないか。不都合なことは、問われたら応えようという姿勢が常であるから、ここへきて「誠実の対応して」などと美辞麗句を並べても、ハイそうですかってわけにはいかないのよね。

 日本人はというよりも、ヒトは感情で動くものなんですよ。感情よりも科学の論理(理性)で動くってヒトは、科学者という限られたセカイで専門的な知見と技術を駆使し、極め付けの好奇心ととびきりの忍耐強さで、自制心を存分に用いて一つコトに身を献げている奇特な人たちなのです。暮れとして言えば、未だにギルド的ともいうべき閉鎖的な序列と権威を奉じている人たちと見受けます。むろん言うまでもなく、庶民は門前の小僧です。でも、境内の中の苦行の修行僧をみるように、畏れ多くも近づきがたい経緯をもって「科学者」という人たちをみているのです。

 この感触の違いから説き起こさないと、いきなり「日本人は・・・」と括られても、オヤおいらのことかいなとばかり、他人事のように思ってしまいますね。石浦さんの文体は、そういう揶揄うような内容ではなく、十分咀嚼して余りあるほどの指摘に満ちてはいます。でも、本のタイトルに書くほどの「日本人」に関する記述は,ほとんど見当たりません。ちょっとこれって、出版社の編集担当者がだいぶ「感情的に」直感してつけたんじゃないかと推察しています。著者の石浦さんには気の毒ってところかな。

2023年1月9日月曜日

政治家はもう要らない?

 2年前に《空言疎語の「緊急事態宣言」》(2021-01-08)を記し、コロナウィルス禍に対する政府の無策ぶりと庶民の自助に触れた。いい加減にしろよといいたいほど、政治家はわが身を専守防衛する言葉をもてあそび、あたふたする姿を庶民に見せて、行政が(立法も司法も,そして官僚組織も)頼りにならないことを,よくよく国民に教育している。

 そしてその1年後、つまり今日から1年前《我が家の火消し》(2022-01-09)で、中国の情勢が不安定になることに触れた。去年の11月から、不安定が暴発寸前に向かい、とうとう中国もゼロコロナ政策を転換した。それによる急激な(中国政府の対応と中国国民の百花斉放な世界への旅のはじまりにともなう)世界的な感染拡大が,再びコロナウィルス禍の再来を思わせるほど懸念されている。日本は、それでも、中国からの旅行客に対する規制を(以前に比べて緩めながらも)しているが、まったくそれをしない欧米各国の状況をみていると、さあ、これからが正念場だとの思いが募る。

 去年は、そうなったときの中国国内の憤懣の暴発が台湾など、外へ向かうことを懸念していた。だが、一足先にロシアがウクライナに仕掛けてしまったために、中国は目下様子見で手も足も出せない事態になっている。ゼロコロナを転換させてwith-コロナに向かっても、すでに中国の発信する情報が信用できないと思ってしまっている私たちからすると、どうか短気を起こさず、経済的な停滞を招かず、穏やかに事態を収拾して、with-コロナに移行していって下さいねと「習おじさん」にお願いするばかりなのですね。

 と同時に、欧米の力が世界の「平和」を左右している事実を、日々のニュースで見せつけられている。いやヨーロッパはすでに降りているのかもしれない。アメリカの後ろに回って、応援団ってところか。その守護神バイデンも、守護神らしさを欠片もみせず、状況対応的に手探りしているようだ。

 庶民にとってナショナリティは,身を護るよりも身を縛る公権力として作用する。その点日本の国家権力は強制力の発揮を渋るほど、腰が引けている。じゃあ国家権力は,ふらついているかというと、そうではない。きちんと権力を揮うところでは経験則的法秩序を無視して、好き勝手にやっている。もはや国会で決めれば何をやってもいいというのを通り越して、閣議決定すれば、財政も施策も自在に力を揮えると思っているかのようだ。為政者のやることに国民が文句を言わないから、為政者は庶民とは棲み分けているかのようにやりたい放題をして、戦争ごっこへ向かっている。つまり「習おじさん」と同じ器ってワケだ。

 いずれ日本は、財政的に息詰まる結果になろうが、世界経済も重心を失って右へ左へふらついている。日本の破綻を先へ先へと引き延ばして、世界の破綻と一緒にでもなれば、結果オーライってことでも考えているのだろうか。先に銃撃されて鬼籍に入った元宰相aノミクスは,そういう意味では、ものの見事に自己完結させてしまった。

  取り残された為政者たちは、何をどう始末していいかわからないかのように、ありようを散乱させている。もはや政治家としての集中も集約点も失ってしまっているようだ。こんなことだから、朝日新聞の新年特集で「政治家はもう要らない?」といっているような記事が掲載されるようになる。去年私は《統治者にはゆめゆめ、それを忘れぬように願いたいものだ》と法治国家内的な秩序を踏まえて表現した。1年経ってワタシは、政治家はもう要らないかもと思っている。時が経つのは早いねえ。ヒトの心が移ろうのも、すぐだねえ。

2023年1月8日日曜日

キレの悪さが露呈している

 山の会の9年間の活動をまとめて本にしようとしている。去年の師走になって「写真もつけるといいかも」と出版社から提案があり、写真の整理をはじめた。だが1万枚近くもある。どのように絞ったらいいかも決めないまま、取りあえず関係する写真をUSBに入れ、本の章ごとに分けることにした。しかし、1万枚ほどもある写真をそのまま分けても意味がない。とりあえず、一つの山につき10~20枚に絞っていき、後にそこから2~3枚を選ぶようにしようと考えた。その第一段階に手をつけたところへ、出版社から編集最新情報が寄せられた。

「BOOK形式へのテキスト流し込みにつきましては、来週いっぱいくらいで終わりそうとの報告を受けております」

 おおっ、もうそんなに早く仕事が進んでいるのか。ならば写真の選択も急がなくてはならない。テキストの流し込みが出来上がれば、構成に取りかからねばならない。写真どころではなくなる。これまで、原稿を入れて「急ぎません」とのんびり構えていた。じゃあ、やっぱり3月に入る頃には仕上げると考えてくれていたんだ。

 そう尻をたたかれて、ピッチを上げた。どうやったか。

 写真のうち、その山からの眺望景観に関するものを2~3枚。植物動物昆虫などに関するものを2~3枚。山の会の人たちが登って悪戦苦闘している姿を2~3枚に絞ると決めて、一山40~100枚のうちからピックアップする。そう決めて取りかかると、バサバサと切り捨てることができる。

 こうも言えようか。私の決断力というか、物を捨てることに対するわだかまりはわが身の裡で分節化できないことに由来するとわかった。分節化して選り分けると、細かいことにこだわらない。記事を一つひとつ読みなおして、その山に関して何に強い関心を惹かれていたかということにまで思いを及ぼして、写真と記事とを連関させようとしたら、とんでもなく時間がかかる。でもそんな振る舞いを,これまでの私はしていたようだ。

 こうしてとりあえず、一山10~20枚をピックアップしていっている。ようやく9年の半分が終わった。あと2日で残り半分を広い、その後に、さらに一山3枚くらいを拾ってゆく。そう段取りを決めたらずいぶん捗ったような気がした。

 ただ、捗らない理由がもう一つわかった。目がしょぼしょぼするのだ。つまり躰がついていかない。むろん飽きてくることもないわけではない。だがそれ以上に、パソコンの前に座って同じ作業を繰り返すことに、躰が「飽きる」。悲鳴を上げるほど突き詰めた作業ができるわけではないことがわかる。若い頃は、というか、仕事をしていた現役の頃には、外部の時間に合わせて作業を進めることができた。身体に無理が利いたってことかもしれない。いまは、(何をしゃかりきになってやっておるのか)と内心の声が身の裡に響く。つまりリミット手前のところで、ブレーキがしっかりかかり、身体が拒否反応をするようになっているのですね。

 現役の頃には、外からの要請に合わせた。アタマがカラダに勝っていた。それが引退してもう20年にもなると、カラダの方が強くなってきた。とうとう「己の欲するところに遵って矩を越えず」って風になった。いまさら巻き戻すわけには行かない。

 そういうワケで、しょぼしょぼとデスクワークをしている。

2023年1月7日土曜日

わが身に忘れ物

 昨日は、何となく過ごしてしまったような気がする。何でだったろう。

 年明け初めてのリハビリへ行った。往復約10㌔。朝の冷え込みもあって、汗も掻かず早足だったようで、片道45分。片道約5㌔と思っていたのに、これでは時速6㌔を上回っている。そんなはずはないと思って歩数計を確認すると、片道4.8㌔。あっ、やっぱり時速6㌔ほどだ。これくらいで歩けるってことは、大分体調が戻ってきたってことか。

 リハビリ士が施術をしながらどう年を越したかと話しかける。ああ、この方の過ごしたことを話したいのだと思い、そう言えば豊岡はどうでしたと返す。新幹線が混んでいたこと雪が思ったほどなかったこと、コウノトリは観なかったなど話しながら、左手掌の伸び具合、曲がり具合がどう変わっているかをチェックし、ほぐしていく。痛みは少なくなった。ずいぶん伸びる。曲がるのがまだ覚束ないが、それでも中指も手の平につくようになった。向こうの方でやっているリハビリ士が、患者に「では、これからは週1にしましょう」と言っているのが聞こえ、そうだな、こちらもそろそろそれくらいのペースにしようかと思った。

 リハビリの帰りに図書館へ寄り、期限の来た本を返す。まだ読みかけの一冊があった。オモシロイが、一節ずつに触発されることを考えて読むうちに、他の興味深い本も割り込んできて、並行していて期限が来てしまった。こういうとき、返却する前に、カミサンの図書館カードを借りて「ネット予約」しておく。そうすると、私の返却とほぼ同時に、「予約本が到着しました」って知らせが来る。本を返して、暫く館内で時間を過ごして受付カウンターへ行くと、「あっ、来てます」とすぐに手元に入る。その裏技を使ったつもりであったが、正月明けとあって、返却本のチェックに手間取っていて、こちらの考えるようにはうまく運ばなかった。家へ帰って午後、パソコンをみていると「予約本が到着しています」とメールが来た。ま、明日取りに行けばいいや。

 帰宅するともう、お昼だ。食事を済ませ、炬燵に座っているとうとうとしてしまう。カミサンが「ちゃんと横になれば」と声をかけたので、やらなきゃならなかったことを思い出した。午後3時からの「男のストレッチ」教室の会計報告をプリントアウトしなければならない。プリンタが「ハガキ仕様」 になっていて、午前中に「用紙がありません」とプリンタに文句を言われ頓挫していたのだった。プリントアウトを済ませ、今月の会費徴収の準備をする。後でストレッチに行って気づいたのだが、この会の忘年会の費用を幹事が立て替えてくれていたのだった。その支払いをみなさんがしていて気が付いた。皆さんから集めたものから一寸借用して幹事に支払い、家へ帰って整理するときに返しておいた。ボーッと過ごしているんだね。

 会計報告をプリントアウトしていて、もう一つやることを思い出した。山の本につけるかもしれない写真を、これまで撮った1万枚歩度から選別する仕事がまだほんの1割くらいしか終わっていない。これを今月半ばまでに仕上げなくては、本のデザイナーに迷惑を掛ける。一回の山行に撮った50枚ほどの写真から、10枚くらいをピックアップしておく。後にそれをさらに半分にし、デザイナーに送る。最終的には一山2枚くらいになるだろうが、それは任せる。

 時間になったのでストレッチに足を運ぶ。皆さん新年の挨拶を交わし、アラ知命の講師も何だか清々しい雰囲気でにこやかだ。なぜだろうかワタシは、年があらたまった気分がしない。新年の変わり目に身体が反応しなくなっているように感じる。これって案外大変な変化じゃないかと思うが、なぜかはわからない。ワタシが世間から逼塞していっているんだろうか。ボンヤリそんなことを考えながら、1時間半を過ごした。

 帰宅して又パソコンにとりついていて、図書館からのお知らせも受けとっていたとき、電話が鳴った。大学同窓のTさんからだ。同期のYの奥さんから年賀の返事だろうと思う手紙が来た。Yが病の床に伏して返事が掛けないというのかと思ったら、そうじゃなくて、11月に逝去した、喪中葉書を出す気力もなく年を越して、失礼したと前置きをして、Yが好きであった自宅で死ぬまでを過ごすことができた、3日ほど寝るように意識が遠のいたので救急車を呼んで病院へ行った3時間ほど後、そのまま亡くなったと記してあったという。聞いていて、奥さんの切々とした心持ちが伝わってきて「名文だね」とTに感想を伝えた。

 同期12人のうち、5人が鬼籍に入った。平均寿命が81歳とおもうと、私たちも平均的世間を生きてきたことになる。でもYは私にとってそれだけではなかった。シティボーイだったニコタマ育ちのY。ニコタマもシティボーイも、もっとずうっと後になってつくられた言葉だが、そういう雰囲気の似合う都会育ちの自分を少し恥じるような気配をもっていた。オサムという自分の名前に当時流行っていた漫画家に倣って虫をつけて署名していた。野球の上手な器用な運動能力の持主。田舎出の私にいろいろと気遣いをしてくれたことが思い浮かぶ。アメリカンポップスを教えてくれたり、東京の「バー」というところへ初めて連れて行ってくれたのもYであった。自宅に招いてお母さん手作りの餃子をごちそうしてくれたのを思い出す。餃子は、私にとって初体験のごちそうであった。

 彼が金融関係の仕事に就いてからも数年に一回という程度に会っていたが、静かな振る舞いと軽妙な語り口は相変わらずと思っていた。古稀を少し過ぎたころだったか、「人に会うのが嫌だ」とTに断って、同期会に顔を出さなくなった。その気分が少しはわかると私は思うと同時に、老人性鬱症状かと推察していた。YはTとは住まいが近くゴルフ仲間であったが、それにも同行しなくなったと聞いたことがある。70代の半ばだったか、メールでYに久々に今度の新年会に顔を出さないかと私が呼びかけたら、そうだね、一度顔出ししようかと返信が来て、会うのを楽しみにした。だが、当日になって「やはりダメだそうだ」とTが話してくれた。そうかYが亡くなったか。わが家に忘れ物をして静かに立ち去ったような気がする。

 そうだ昨日は、息子の誕生日であった。これは一組の親の誕生日でもあった。息子に誕生祝いのメールを打ち、仕事に脂がのっている時期だなということと定年まであと十年ほどだろうかと、同じ年齢だった頃のわが身を思い出していた。

 そんなこんながあって、昨日は記事を書く気にもならなかった。

2023年1月5日木曜日

庶民はなぜ「情」を抜きにしないか

 国分功一郎のジョン・ロック批判をワタシへの批判と受け止めて理解するとともに、しかし、「哲学ではなく意見だ」というのであっても、この視点を外せないと感じています。そのワケを考えてみたい。

 前回紹介した《★「哲学する」グレーゾーン》(2021-12-29ブログ記事)の末尾で、

《しかし私は、市井の庶民流の哲学する志を持ち続けていきたい。開き直るわけではなく、庶民の市井の道を歩いて行きたいと思う》

 と記しましたが、この歳になって「志を持ち続けたい」なんておこがましい。今現在の私が「市井の庶民」そのものです。それにこれまで一度も専門的な哲学の境内に立ったこともなく、ただただ門前の小僧だったのですから、ワタシの内側を見つめても「庶民としての」視線しか取り出しようがありません。そのワタシの内面的な営みがどのように行われてきたかを取り出すことができれば、専門家ではない市井の庶民の自己省察が浮かび上がるかもしれないと思っています。

 その手がかりを、「ツナシマさんの80歳の風景」においてツナシマさんの取り上げる「知・情・意」をワタシはどうとらえているか,腑分けして考えてみようと思った次第です。ツナシマさんの「80歳の風景」に私は勝手に(1)~(6)までの番号を振らせていただきました。それに沿って話を進めましょう。

 ツナシマさんは《(4)私の抄録作成の仕事と知情意》で、

「純粋な技術論文や技術専門雑誌、経営・行政に関連した記事を300~400字程度に要約する仕事をしている。抄訳はデータベース化される。(…)仕事は基本的には、著者の意向を正しく理解し、正しく伝えることを考えている。本文中の記述で知の部分を引用し、情、意の部分は捨てることが多い。あいまいな形容詞なども捨てるとことが多い。こうしたことを長く続けていると知に偏向した人間にならないかと危惧し注意している」

 と記しています。

 大変な仕事を、80歳になった今も続けておられることに敬意を表します。専門家の書いた論文を専門家が読むサマリーを作成していると見受けます。

 ツナシマさんも《(2)原子力発電の導入と事故後》で《大学では「科学技術コミュニケーション」の研究が開始された》と触れていますが、これがたぶん,科学技術的な「知的分野」のことを読み取る技法である「科学技術リテラシー」に関する研究なのだろうと思います。

 考えるに、それにも二通りあって、一つは専門家が一般の庶民に(専門分野のことを)伝える技法、もう一つは一般の庶民が科学技術的な領野のことを読み取る能力をどう培うかという受けとる技法の研究です。昔なら専門家が一般の庶民に「説く」のですから、啓蒙的な要素をどう組み込むかと考えたでしょう。ですが、たぶん今はそれと違って、専門家は一般の庶民が何にどう関心をもちヒトの暮らしに於いて専門家の研究はどうかかわっているかを知る分野として「研究」が行われているのだろうと推察しています。啓蒙とはひと味違う双方向性が意識されてきているのですね。

 近頃は「情報化社会」ということもありましょうが、メディアがさまざまな分野の専門家が探求しているモノゴトを手短に紹介したり、画像に置き換えてわかりやすく解説する情報番組が流れてきます。私たち市井の庶民は、オモシロそうなものに食いつきます。

 それは必ずしも役に立つか立たないかということに限りません。へえと思うような「発見」には強い興味を示します。たとえば、完全変態を遂げて成虫になる昆虫の場合、蛹の中はどうなっているのかと関心を持つのは、子ども時代。その中を解剖してみて、「ドロドロだった」と驚いた記憶を記しているのは生物学者の福岡伸一さん。ところがつい先日のNHKの進化論を紹介する番組では、蛹の中を透視する技術を用いて、成虫になる準備の腱が形成されていく過程が撮影されている。これは、ますます自然の不思議を感じさせました。

 ではそれがどう庶民の暮らしに役立つのかと問いを立てると、いえいえ、役に立つことは何にもありませんよと応えるしかありません。でも、そうして、不思議を感じるということは、世界を感じることだと私は思っています。ヒトのクセです。

 よく啓蒙的な専門家は庶民に対するとき、知らないことを教えると思うようですが、そうじゃないとワタシは今考えています。知らないことを教わると、その分(庶民の)知識は増えますが、それはそれだけのことです。「〈知らない〉ということを感じさせる」のが「科学技術リテラシー」の極意だとワタシは感じています。不思議を感じるということは「知らない世界がある」と、興味関心が蠢き出すインセンティブを養うことです。この蠢きが庶民の「知性」だと思います。もちろん専門家は、「知性」を現実化して専門領域に於ける知的蓄積を行います。庶民はその専門家の(マンネリズムに耐えて行う試行錯誤の)研究に敬意を払っているわけです。

 そのとき、専門家の研究がもっている限定性があります。ツナシマさんが扱う「純粋な技術論文」にしても、それが前提する「成立条件」があります。ことに技術となると、その研究がもたされている社会的な有用性もあります。AI研究の第一人者が制作したロボットにしても、それが「人間に代わる」といってしまうと、その研究者が「人間」をどのように考えているのを聞いてからでないと、おいそれと同意共感するわけには行きません。その研究者が無意識に持ってしまっている価値意識は、もっとメンドクサイものになります。これらは、「情」と表現されるヒトのもつ感性や思考の傾きや価値意識とどう峻別されるのでしょうか。

「科学とは何か」「論理的とは何か」と哲学的に突き詰めていくと、「いつ誰がどこで行っても,誰が考察しても同じ結果をもつ客観性」と表現されるものは、ごく限定された、数学的・理科学的な実験にだけ適用されることになります。それが《技術専門雑誌、経営・行政に関連した記事》ともなると、どのような立場でそれが提示されるかによって、俄然、その論調の持つ意味が異なってきます。

 新型コロナウィルスの感染についてメディアに登場した専門家や、フクシマの事故に当たって顔を出した専門家が「解説」するのを聞いていると、それぞれが前提にしている「与件」がいつしか忘れられて、遣り取りされるのが気になります。もちろんそれらの限定性を乗り越え、「意」を決して政治家が判断を下す場面も多々あったわけですが、政治家は政治家で、なぜそういう判断を下したのかを説明しない。あるいは政治家自身が、専門家の護っていた限定性を意識しないで、判断を下してしまう。むろんツナシマさんの言う「意」の強いヒトがそうしてしまうのでしょうが。

 専門家の非を言い立てているのではありません。政治家の非道さを訴えているのでもありません。善し悪しはどうでもよく、ヒトってそういうものだと理解する心眼を得ているとでもいいましょうか。そういう歳になったと思っています。庶民がオモシロいと受け止めるときの、内奥のどこかで蠢き出す興味関心は、そういう世間的な価値を飛び越えて世界の核心へ突き進むように真っ直ぐに伸びます。あるいは、わが身の利害にかかわるときには、その判断がどういう期間にわたりどういう責任を伴うかに頓着せず、まず利害得失にどう関わるかを直感して善し悪しを見極めようとします。モノゴトを見て取るとき、誰がいつ何処に身を置いて〈この問題を考えている〉という「当事者性」が庶民のものだと私はいいたいのです。当事者が当事者らしい判断と決定ができるというのが、ワタシの自由の核心にあるとでもいいましょうか。

 ここで、専門家と庶民とを繋ぐ回路が生まれます。当事者性が庶民にあるというのが、民主主義の基本です。でも今のご時世、たとえ暮らしに用いるものであっても、専門家の手助けなしでは庶民が自治的に始末できるものではありません。エネルギーにしても、水にしても食料にしても、インフラを整えそれを貧富の格差も超えて不自由なく用いるには、専門家の研究の助力がなくては成り立ちません。

 それを庶民がわがこととして研究し、決定していく社会システムは、ほとんど行政機関に任せっきりで、とても当事者が判断しているようには機能していません。本来なら庶民の当事者性を発揮させるべく活躍する政治家が、たくさん絡まってはいますが、彼らも徒党を組んでわが身の、身過ぎ世過ぎにせわしくて、果たして庶民に主権があるのかどうかも分からない状態ですね。

 日本人は理性的な判断ができず感情で受け止めると,ことにフクシマを巡ってよく批判する声を聞きます。これもオモシロい論題ですので、機会があれば取り上げて考えてみたいと思います。ですが、日本人が感情的に事態を受け止めると批判するより先に、庶民が原発に関する専門家をなぜ信用しないのか、あるいは政治家のいう原発再稼働をなぜ拒否するのかは、理知的判断とか感情的判断とかとは関係がないと思っています。そういう専門家や政治家を信用していないのです。

 それは、庶民が日々出くわしている細々としたデキゴトが醸し出す雰囲気、気配、空気から受け止めている感触です。むろん一つひとつを取り上げていえば、あれもこれもとないわけではありませんが、それよりも全体として尊敬され、信頼するに値する言動が長年積み重ねられて醸成されていくものです。もう私たちは年寄りですから、是非若い人たちの信頼を得られるように、見掛けではなく庶民と共に自治的に研究していけるような暮らし方を、専門家にも政治家にもお願いしたいと思っています。

2023年1月4日水曜日

国民国家は、もう結構だ

 ウクライナの戦争をウクライナ側に立ってみている自分を感じながら、しかしそれも、もうイヤだなと考えている。大雑把な印象だけで話すが、2014年前後のウクライナの様子は今とはまったく違っていたと言える。

 親露派と親西欧派とが対立し綱引きが行われていたらしい。2004年頃に政権中枢部は西欧派が優勢であったが,その後親露派が優勢になるなど、おおよそ国民国家としての「民族性」は落ち着かなかったという。それ以前に「ソビエト連邦」として一つであったこととか、さらにソビエト以前のロシア帝国の大本はウクライナとベラルーシとサンクトペテルブルクなどが一体となった大ロシアであったと思っているロシアとしては、ウクライナが西欧に傾くのは許しがたい「(民族的)裏切り」に思えたのかもしれない。

 しかしおおよそウクライナの人々は,そういった政治上層部の右往左往とは別の筋道で暮らしを立て、文化を受け継ぎ、おおよそ一つの民族とか宗教的正統性とかはわが身に堆積している身のこなし、振る舞いとして継続性を感じているばかりであったと言えようか。国民国家が成立する以前の人々の暮らしは、国境による線引きは為政者のものであって、生活者のものではなかった。ちょうど尖閣諸島が台湾の人も、中国大陸の人も、もちろん琉球列島に棲まう人たちも出入りしていた、いわば入会地であった。それが、近代西欧の国民国家の考え方に基づいて形を成すようになった「国境」に関する国際法に基づいて、早くそれに遵って帰属を宣言した日本領ということになっていますが、周辺の民からすると、そんなことは俺たちの知ったこっちゃないと思うのは、当たり前のことだ。生活者次元のことが、政治世界の次元のことで席巻されちゃってるというのが、目下の争いの元になってるってことですね。

 ウクライナも同じようなものと私は観ていますが、目下のウクライナは、ロシアの侵略的攻撃が始まって以来、急速に「民族意識」が想起され、それが「反ロシア」でまとまってきているように見えます。これって、戦争が国民を「民族」としてまとめているってことじゃないか。つまり、「尖閣は日本のもの」という近代国際法を前提にする国境線の線引きをするってことだ。だが生活者の視線より国民国家の視線の方が,生活者にとって優れているのだろうか。もちろん、どちらを向いても国民国家の枠組みで物事が運ばれている世界だから、どちらがいいかなんて選びようがあるわけではない。だが、根源的に考えるというには、そこまで視線を行き渡らせることもしなくてはなるまい。

 視点を変えてみると、こうも言える。生活者の視線では、暮らしを立てる土台部分は平和を前提にしている。自由であることもそれに加えていいであろう。つまり、親露派と親西欧派とが政治次元で争うのを上部の抗争とみなして棚上げしてしまえば、生活者次元にとっては自由に暮らしを立てていくことができれば、親露派だろうと親西欧派だろうとそんなことはどっちでもいい。ただ、国民国家の枠組みに組み込まれてそれに掣肘を加えられるのであれば、どちらがより自由に暮らしを立てていけるかによって選ばねばならない。

 暮らしを立てるということも、ただ単に経済的なことばかりではない。ヒトが暮らすというには、文化的な種々の要素も含まれる。だから「暮らしを立てる」と一口で言って,その中味を規定できるほど簡単ではない。だから余計に「自由であること」が重要になる。それが生活者の視線だ。

 ところが国民国家のベースになる「民族」というアイデンティティは、反措定的にしか規定されない。ウクライナという民族のアイデンティティは「反ロシア」とか「反ヨーロッパ」という形でしか浮き彫りにならない。「にほん」というのも、他の民族性に照らして「それとは違う」という形で言葉になる。胸の中でなんとなく抱いている感触も、それだけではぼんやりとしてカタチを成さない。だが対照的な何かが眼前に現れる途端に、何となくがやおらカタチをなして感じ取れるものである。これは、人の本源的な認知のプロセスである。それと共に「民族」とか「ナショナリティ」とか「くに」というが鮮明になるのは、反措定的に何かに出くわしたときだ。その最も明確なカタチが戦争であることを、今回のロシアのウクライナ侵攻は示している。

 今回の報道がなされるごとに、私はウクライナに肩入れしていると自覚している。だがそれは、ゼレンスキーに肩入れしているのではない。ウクライナの生活者に肩入れしている。今のところゼレンスキーの振る舞いはウクライナの生活者に寄り添っているから、いちいち分けて考えてはいないが、ロシアの攻撃のかたちを見ると,ますますウクライナの人々がウクライナ人としての誇りに満たされつつあるように感じ、戦争が国民を起ち上げるという私の考えが証しを得ているように思って、やりきれない。

 これは私の直感だが、国民国家思考の延長上に生活者の平和はない。国民国家というのは、他の国家と対立することに於いて安定的に成り立っているからだ。生活者の平安は国境も国家もない、だがグローバリズムとは違う自治的な関係がかたちづくるセカイにおいて確保されると思っている。

2023年1月3日火曜日

穏やかに新年を迎えた

 たった今、奥日光から帰ってきました。いいお正月でした。

 元旦は、朝8時半に家を出て奥日光へ向かいました。まったく混んでいません。先行する息子の車は私の車の運転を気遣ってか、ほぼ時速百キロを守り、概ね第二車線を走り続けます。東北道の制限時速は120km/h。だから後ろから来る車にどんどん追い抜かれますが、気持ちがいいほど前後にも左右にも気を遣わず,坦々と進みました。男体山は少し山頂部に雲がかかっていますが、女峰山とか筑波山とか雪を被った袈裟丸山や赤城山なども見えて、いかにも関東平野のそれらしい年明けでした。

 わずか2時間余で菖蒲ヶ浜に着き、来ているオオワシを探そうとおりてみました。すでに何組もの探鳥家がスコープにカメラをつけて待ち構えています。聞くと、今朝はまだ出ないという。たくさんのオオバンが水際から湖面の上に泳いでいます。10センチくらい積もった雪を踏んで菖蒲ヶ浜の湖へ迫り出しているところまで歩いてみる。ヒドリガモ、マガモ、コガモやウ、ダイサギを見掛けたが、その程度か。クリスマスの頃に大雪が降り、その後晴れ続き、毎日夜には少しばかり降って積もるという程度だったから、道路脇の雪の量はずいぶんあるが、車道の路面は雪もなく乾いていた。

 宿のロビーを借りて昼食を摂り、息子が子どもらを連れてスキーやスノボの用具を借り、リフト券を手に入れ、スノボの教室へ申し込んだ。高2と大1の孫は初めてのスノボに挑戦すると、不安と期待でハラハラしている。付近を一巡りして,教室のはじまる頃にゲレンデへ行ってみると、スノボの生徒は僅か二人。教師は、転び方、受け身の取り方から入り、用具の取り扱い方などを伝えてから、本格的な滑り方へと入るようであった。彼らのことは放っておいて、私らは付近の散策に出かけた。

 子どもらは4時頃まで滑り通し、何とかスノボには乗って滑ることができるらしい。「オレ(スキーより)スノボが向いてる」と、うれしそうだ。もう一人高2の孫は四苦八苦しながらもボードの上に身を乗せて動こうとするが、同じところをくるくると回ってしまう野に、ほとほと疲れたようであった。それでも翌日もへこたれず朝一番のリフトに乗って滑りはじめ、やはり午後3時半まで帰ってこなかった。帰ってきたとき二人は、すっかりスノボに馴染んだようで、板を買おうかと話している。後でわかったのだが、大1孫は小さな動画を撮るカメラをもっていて、お互いにカメラで滑るところを撮影し合っていた。ゲレンデを調子よく滑り降ってきたり降っていったり、ときには手に持って撮影しながら滑っていると思える姿は、とても習い始めて2日目とは思えなかった。

 中2の娘孫は2日間とも母親と一緒にスキーをして、一度も転ばなかったとうれしそうにばあちゃんに報告していた。年上の兄孫たちに比べると,まだまだ子どもだなと思った。

 宿は老舗だが、スタッフも年老いて、世話を焼いて貰うのが一寸心苦しいような気持ちになった。スノー・ハイキング・ガイドをしているアラフォーのスタッフが,本当に若く見えてしまう。近くの別の宿はスタッフも若く、建物も新しい。そちらは,早々と満室となっていた。「半年前から申し込む方がいて」と申し訳なさそうに話していたが、そんなに早くから翌年の新年の予約をしなくちゃならないねと息子たちと話している。

 でもまあ、恒例の正月行事を済ませることができた。今日は早めに帰宅して、年賀状の返事が必要なのに返信をし、カミさんは孫たちの夕食をつくるのにいそしい。穏やかに新年を迎えたって気分だ。

2023年1月1日日曜日

今年もよろしく

 今朝からいえば、昨年(2021年)の暮れ、それまでの,このブログへの筆の運び枚数を,400字詰め原稿用紙にしてどれほどであったかをまとめ記していた。

《2008年から2011年までは年間500枚ほどから800枚ほど。2012年に1100枚を超えた。2013年には1400枚近くに増えた。2014年には1700枚になっている。2015年1500枚と少し減った。2016年には1800枚、2017年1700枚、2018年1500枚と月間120枚から150枚のペースで記録していっている。2019年1700枚。2020年1800枚も後半にさしかかるほどになった。2021年1600枚と遭難事故があったのに結構な枚数に上った。まさしく徒然草。》

 それで去年はどうであったかをチェックしてみた。空白も含めた大雑把な計算枚数は、2002枚。324回の投稿となっている。もうすっかり徒然草が板に付いたって感じ。

 投稿回数は、ブログの月別、年別の回数を観た。因みに記しておくと、2021年316,2020年306,2019年263,2018年238・・・と年を追って増えている。これは、年を追って出歩く回数が減っていることかもしれない。

 おっと、もう出かける時間になった。

 おめでとうございます。今年もよろしくお付きあい下さい。