2023年1月17日火曜日

我田引水流の思い込み

 1年前(2022-01-16)の記事「ヒトの暮らしの現場を見よ」が送られて来て読み返し、いやはやお恥ずかしいと思ったこと。前段で書いたコトのオマケとして、こんな風に書いている。

《いつであったか、カミサンがTVのチャンネルを切り替えていたとき、国会中継が流れていた。その瞬間、「人がやることですから・・・」という大臣の声が聞こえ、「ちょっと止めて」とチャンネルを回すのを止めてもらったことがあった。質問者が何を聞いたのかはわからなかったが、コロナウィルスとマイナンバーカードとデジタル化のことではなかったか。発言者は山際経産相。こういう政府答弁を耳にしたのは久しぶりだという思いが湧いた。こういう人を大臣に据えているだけで岸田内閣に対する信頼感は、グンと増すと思った。「人がやること」には、推進する作業現場の人の姿が組み込まれている。その不確実性を参入すると、そう機械的に、形式的に、予定通りにコトが進むとはいえないという言葉の含みが、好ましい。》

  この山際大臣の辞任に触れて、1年も経たない2022年12月26日の記事「年寄りの小言」で、恥知らずのお人のように書いている。何とこの落差、何とこの人を見る目のないこと。そう自分のことを思った。 なぜこんな違いが生まれたのだろう。

 まず私は、1年前の山際大臣の発言がどのような場面でどういう趣で口をついてこぼれた言葉かを知らないままに、好感を抱いたと記している。これって、思えば、彼の言葉を文字通り切り取って、自分に好都合に解釈して好感をもっただけじゃないか。つまりそもそも、ヒトを見ていない。まして政治家の,国会発言中の言葉だ。そんなことを素に受けて、自分の思いを重ねるなんて、それ自体が恥ずかしい振る舞いではないか。ましてそれを「こういう人を大臣に据えているだけで岸田内閣に対する信頼感は、グンと増す」などと内閣への評価に結びつけるなんて、政治へのリテラシーがまるでないことを露呈している。我田引水の流言蜚語である。まずそう反省した。

 ついでほんの半月前の「辞任」にかこつけた記事。これも山際という人物に触れているわけではなく、ホンネとタテマエという列島に長く定着してきたヒトを見る自然観が、もはや身を覆う衣装ですらなく、ホメオスタシスと言われる自己保存本能は、剥き出しで人前にさらしてなに恥じることがない時代になったとみてとっている。もう一つ、一月前(2022/12/11)の「羞恥心の起源」で、「自己愛」という「愛(ハ)し」を知るホンネだけが表通りに引っ張り出され、タテマエ同然にまかり通るご時世になったと慨嘆した。そういう時代的表象としてこの元大臣を引き合いに出しただけ。やはり人物を俎上にあげたわけではない。むろん、それで十分と思ってはいるが、そのワタシの心持ちが,今回のヒトを見る目の無さをよく表している。

 つまりワタシも、普遍的にヒトや時代を語るクセが身に染みていて、結局、今ここにいるワタシが、特定すべきコレについて語るという語り口をもっていないことが表面化していると思える。何だ、どうこう言っても、結局、欧米風普遍主義的客観主義の枠囲いの中で云々している輩に過ぎないじゃないか。つまんねえヤツだなあとわが身を振り返っている。いや、申し訳ない。

 でもまあ、1年の猶予を得たにせよ、わが身を振り返って反省する機会をいた。これも、わが感懐を書き記して,外部化しておいたが故に出逢うことの出来たこと。徒然草も、まさに自己対象化の方法として、自問自答の梃子になっている。結構、結構。

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