今月の「ささらほうさら・無冠」の編集を済ませた。発行するために、コピーを取りにご近所のスーパーへ行く。雨。道には水溜まりができている。どこをたどるか思案しながら歩いていて、ワタシのヘキに気づいた。ほぼ恒に最短距離を取ろうとしている。道はくねくねと曲がっている。真っ直ぐな道とか四角な建築物は、高度経済成長期のセンスだ。無駄を削ぎ落とし、コスパを良くし、機能一片やりの土建国家で突っ走ってきた。その結果手に入れた高度消費社会は、文化としての余裕をもてよというかのように、建物には曲線が取り入れられ、道路や橋脚は曲線が取り入れられて、美しさを誇るようになってきた。もっとも、百年以上主前のバルセロナのガウディの建築やグエル公園は、高度消費社会ではなかったろうに、すでに、真っ直ぐな直線的建築を笑うかのように建っているから、日本の高度成長期建築群の特徴なのかもしれない。
だがワタシの世代は、産業社会の高度成長が身に染みたせいか、ついついモノゴトに真っ直ぐに取り組み、出来るだけ効率的に,最短距離で最高度の利得を手に入れるように身体が動いてしまう。道を歩いていて、つくづくわが身がそうなっていることを実感する。これは、潔癖症とも関係しているのだろうか。
癖(くせ)というと意図せざる身の習いのようにみえるから、ヘキ(癖)と呼ぶ。でも無意識に染みこんで身についている習いは、もはやクセ(癖)というよりヘキ(性癖)。しかもヘキ(壁)としてわが身に立ちはだかり、意識していないとついつい最短距離を取り、それ以外の道を排除してしまうカベになる。そう思った。話は逸れるが、この性分は、案外デジタル的なアルゴリズムには相性がいいかもしれない。
山を歩いているときも、地図を見て行けそうなら最短距離を選ぶ。ま、ふつうは、踏み跡をたどるものだが、木に摑まり急斜面を降れば、十㍍下の林道に降り立てるとなると、何百㍍の回り道を迂回してそこへ出るルートを振り払って、そのショートカットのルートを取ろうとしてしまう。加えて、そのときの緊張感がまた、たまらなく達成感を生む。アドレナリンが放出され、何でもないハイキングがいきなり中級や上級のルートファインディングに変わる。ますます意気軒昂になって、危ういところへ踏み込んでしまうってワケだ。いや、ワケであった。これが私の「至福の滑落」につながっていたようにも思う。懲りないのだねえ。
その、身に染み付いたヘキを改めないと、なかなか現代文化に馴染めない。いまさらとは思うが、この先,永訣まで十年もないとは言え、後期高齢者が愈々末期高齢者となってなお、散歩にもコスパを考えてしまうというのは、可笑しい。滑稽だ。お笑いである。その対局には、ボーッと生きるしか道がないように見える。後のない高齢者が,も少しスマートに、のんびりと散策をたのしむって風情に身を浸しておかないと、人生そのものもショートカットして,パッと彼岸に渡ってしまいそうになる。
ま、こんなわが身のヘキを発見して、日本社会としては史上初めて通過した高度消費社会の真ん真ん中を、敗戦直後の貧窮生活からたどっり歩いたのだと思うと、ひときわ感慨深くなる。そうだねえ、その中軸とも言うべき世代だったわけだから、悪いことも良いことも、みんなワタシが悪いのよって責任を被せられたって,申し開きは出来ないかもしれない。でもね、この潔癖症とも言うべき,最短距離ヘキは、日本産業社会の成長期になって発生したものなのかなあ。もっと昔から、連綿と受け継いできた社会的とか集団的無意識とかいうものが、作用しているんじゃないかなあ。そういう疑問を残したまんまで、わが身のヘキに思いを致したのであります。
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