2023年1月9日月曜日

政治家はもう要らない?

 2年前に《空言疎語の「緊急事態宣言」》(2021-01-08)を記し、コロナウィルス禍に対する政府の無策ぶりと庶民の自助に触れた。いい加減にしろよといいたいほど、政治家はわが身を専守防衛する言葉をもてあそび、あたふたする姿を庶民に見せて、行政が(立法も司法も,そして官僚組織も)頼りにならないことを,よくよく国民に教育している。

 そしてその1年後、つまり今日から1年前《我が家の火消し》(2022-01-09)で、中国の情勢が不安定になることに触れた。去年の11月から、不安定が暴発寸前に向かい、とうとう中国もゼロコロナ政策を転換した。それによる急激な(中国政府の対応と中国国民の百花斉放な世界への旅のはじまりにともなう)世界的な感染拡大が,再びコロナウィルス禍の再来を思わせるほど懸念されている。日本は、それでも、中国からの旅行客に対する規制を(以前に比べて緩めながらも)しているが、まったくそれをしない欧米各国の状況をみていると、さあ、これからが正念場だとの思いが募る。

 去年は、そうなったときの中国国内の憤懣の暴発が台湾など、外へ向かうことを懸念していた。だが、一足先にロシアがウクライナに仕掛けてしまったために、中国は目下様子見で手も足も出せない事態になっている。ゼロコロナを転換させてwith-コロナに向かっても、すでに中国の発信する情報が信用できないと思ってしまっている私たちからすると、どうか短気を起こさず、経済的な停滞を招かず、穏やかに事態を収拾して、with-コロナに移行していって下さいねと「習おじさん」にお願いするばかりなのですね。

 と同時に、欧米の力が世界の「平和」を左右している事実を、日々のニュースで見せつけられている。いやヨーロッパはすでに降りているのかもしれない。アメリカの後ろに回って、応援団ってところか。その守護神バイデンも、守護神らしさを欠片もみせず、状況対応的に手探りしているようだ。

 庶民にとってナショナリティは,身を護るよりも身を縛る公権力として作用する。その点日本の国家権力は強制力の発揮を渋るほど、腰が引けている。じゃあ国家権力は,ふらついているかというと、そうではない。きちんと権力を揮うところでは経験則的法秩序を無視して、好き勝手にやっている。もはや国会で決めれば何をやってもいいというのを通り越して、閣議決定すれば、財政も施策も自在に力を揮えると思っているかのようだ。為政者のやることに国民が文句を言わないから、為政者は庶民とは棲み分けているかのようにやりたい放題をして、戦争ごっこへ向かっている。つまり「習おじさん」と同じ器ってワケだ。

 いずれ日本は、財政的に息詰まる結果になろうが、世界経済も重心を失って右へ左へふらついている。日本の破綻を先へ先へと引き延ばして、世界の破綻と一緒にでもなれば、結果オーライってことでも考えているのだろうか。先に銃撃されて鬼籍に入った元宰相aノミクスは,そういう意味では、ものの見事に自己完結させてしまった。

  取り残された為政者たちは、何をどう始末していいかわからないかのように、ありようを散乱させている。もはや政治家としての集中も集約点も失ってしまっているようだ。こんなことだから、朝日新聞の新年特集で「政治家はもう要らない?」といっているような記事が掲載されるようになる。去年私は《統治者にはゆめゆめ、それを忘れぬように願いたいものだ》と法治国家内的な秩序を踏まえて表現した。1年経ってワタシは、政治家はもう要らないかもと思っている。時が経つのは早いねえ。ヒトの心が移ろうのも、すぐだねえ。

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