2023年1月31日火曜日

不思議に取り囲まれて生きる

 さてどこから切り込もうかと思案している。イギリス映画『イニシェリン島の精霊』(マーティン・マクドナー監督、2020年)を観て、肌の感覚がヒトが生きている不思議の数々を感じ取ってざわついている。

 カミサンに誘われて観に行った。映画館に着くまでタイトルさえ知らなかった。見終わってどこの国の誰が監督した映画かを確認しようとスタッフに声をかけた。チラシを貰おうと思ったのだが「映画がはじまるまでは置いてあるが、はじまってからはパンフレットしかない」という。そのパンフもなかった。うちに帰ってネットで検索すると、「いまなお演劇界・映画界の最前線に立つ鬼才マーティン・マクドナーの全世界待望の最新作」と銘打っている。何だ、知らなかったのは私ばかりなのだ。

 ネットが紹介するコトの始まりを引用する。

《本土が内戦に揺れる1923年、アイルランドの孤島、イニシェリン島。島民全員が顔見知りのこの平和な小さい島で、気のいい男パードリックは長年友情を育んできたはずだった友人コルムに突然の絶縁を告げられる》

 なぜだ? なにがあった? パードリックが疑問に思うだけでない。村の他の人たちも最初は疑念を抱く。だがそのうち、バイオリンを弾き、作曲をするコルムの創作活動は村の人たちに受け容れられ、絶縁宣言をされたパードリックは孤立感を深めていく。

 読書家の妹、頑迷固陋な警察官とその息子である風変わりな隣人、郵便局の女性オーナーの旧弊な詮索好き、島の外からやってきて、コルムと音楽に興じる音楽大学生たち。島の外、青空の、文字通り対岸から響いてくる大砲や銃の音が、イギリスのアイルランド紛争を別世界のデキゴトのように描いて、まさしく庶民の生活感覚が視線の中軸に据えられる。

 ワタシの肌をざわつかせるヒトが生きる不思議というのは、どこを切り口にどう取り出せば良いだろう。ちょっとした台詞、言葉にならない素振りがインスピレーションを誘う。

 平々凡々とした暮らしの日々は、死を待つだけの暇つぶしではないか、と感じるのはなぜか。

 モノゴトを創作するというのには、強い意志的な何か、痛みを伴う苛烈な何かがなくては適わないことか。

 そもそも、生きた証しを名を遺すことと思うのは、なぜか。名を遺せなくとも、「優しい人」として生きるのは、生きた証しではないのか。

 ヒトは何のために生きているのだろうという素朴な疑問が、意思と関係と、その動態的な移ろいの間に、揺れ動き、変わってゆく。

 そこへ、この映画は、ロバや犬といった身近な「パートナー」の存在を置いて、自然と共にあることの原点へと飛ぼうとしている感触を組み込んでいる。イニシェリン島の精霊が「今日は二人死ぬ」という予言をし、その一人がロバであったというのも、一神教的な自然観を突破して、アジア的な自然観に身を投じようとする兆しを思わせる。

 和解を探るパードリックの言葉に揺れ動くやにみえた芸術に向かうタマシイは、さらに苛烈に向き合わねばならないという振る舞いに及ぶ。暮らしとか生活から離陸することによってしか,芸術は成立しないことを意味しているのか、あるいは、ロバの死を悼み、犬の世話をするという生きとし生けるものを媒介にしてやっと、ヒトの暮らしと創造活動は折り合う地点を見いだせるかもしれないという発見なのか。とすると、この映画の落ち着く先は、人の心の赴く究極の地点を探っているのか。

 そして最後に、ああ日本もイニシェリン島ではないのか。ワタシはパードリックではないのか。いや、ワタシのなかにパードリックとコルムが同居してきたと感じる。そういう思いへ誘い込むざわつきを覚えた。

 映画って、こういう思いを呼び起こして、ここが結論という風な結末をつけることなく、観ているの者へと「思い」を投げ渡す。イメージを描き出すカタチで、観る者へと開かれたナニカを伝え受け渡す。一巻完結するよりも遙かに多くのナニカを胸中に遺している。

 原題はThe Banshees of Inisherin。Bansheeというのは「家族に死人が出ることを泣いて予告する女の幽霊」を意味するアイルランドの言葉。「精霊」という日本語のイメージよりも「巫女」に近い。「鬼才マーティン・マクドナー」が死者の視点、彼岸から今の日常を見てとったカタチなのか。そしてそれが、アニミズムと一体化する自然観によって,辛うじて人の営みの過剰さと和解できると示唆しているのか。

 オモシロイ疑問符はつづく。

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