2023年1月4日水曜日

国民国家は、もう結構だ

 ウクライナの戦争をウクライナ側に立ってみている自分を感じながら、しかしそれも、もうイヤだなと考えている。大雑把な印象だけで話すが、2014年前後のウクライナの様子は今とはまったく違っていたと言える。

 親露派と親西欧派とが対立し綱引きが行われていたらしい。2004年頃に政権中枢部は西欧派が優勢であったが,その後親露派が優勢になるなど、おおよそ国民国家としての「民族性」は落ち着かなかったという。それ以前に「ソビエト連邦」として一つであったこととか、さらにソビエト以前のロシア帝国の大本はウクライナとベラルーシとサンクトペテルブルクなどが一体となった大ロシアであったと思っているロシアとしては、ウクライナが西欧に傾くのは許しがたい「(民族的)裏切り」に思えたのかもしれない。

 しかしおおよそウクライナの人々は,そういった政治上層部の右往左往とは別の筋道で暮らしを立て、文化を受け継ぎ、おおよそ一つの民族とか宗教的正統性とかはわが身に堆積している身のこなし、振る舞いとして継続性を感じているばかりであったと言えようか。国民国家が成立する以前の人々の暮らしは、国境による線引きは為政者のものであって、生活者のものではなかった。ちょうど尖閣諸島が台湾の人も、中国大陸の人も、もちろん琉球列島に棲まう人たちも出入りしていた、いわば入会地であった。それが、近代西欧の国民国家の考え方に基づいて形を成すようになった「国境」に関する国際法に基づいて、早くそれに遵って帰属を宣言した日本領ということになっていますが、周辺の民からすると、そんなことは俺たちの知ったこっちゃないと思うのは、当たり前のことだ。生活者次元のことが、政治世界の次元のことで席巻されちゃってるというのが、目下の争いの元になってるってことですね。

 ウクライナも同じようなものと私は観ていますが、目下のウクライナは、ロシアの侵略的攻撃が始まって以来、急速に「民族意識」が想起され、それが「反ロシア」でまとまってきているように見えます。これって、戦争が国民を「民族」としてまとめているってことじゃないか。つまり、「尖閣は日本のもの」という近代国際法を前提にする国境線の線引きをするってことだ。だが生活者の視線より国民国家の視線の方が,生活者にとって優れているのだろうか。もちろん、どちらを向いても国民国家の枠組みで物事が運ばれている世界だから、どちらがいいかなんて選びようがあるわけではない。だが、根源的に考えるというには、そこまで視線を行き渡らせることもしなくてはなるまい。

 視点を変えてみると、こうも言える。生活者の視線では、暮らしを立てる土台部分は平和を前提にしている。自由であることもそれに加えていいであろう。つまり、親露派と親西欧派とが政治次元で争うのを上部の抗争とみなして棚上げしてしまえば、生活者次元にとっては自由に暮らしを立てていくことができれば、親露派だろうと親西欧派だろうとそんなことはどっちでもいい。ただ、国民国家の枠組みに組み込まれてそれに掣肘を加えられるのであれば、どちらがより自由に暮らしを立てていけるかによって選ばねばならない。

 暮らしを立てるということも、ただ単に経済的なことばかりではない。ヒトが暮らすというには、文化的な種々の要素も含まれる。だから「暮らしを立てる」と一口で言って,その中味を規定できるほど簡単ではない。だから余計に「自由であること」が重要になる。それが生活者の視線だ。

 ところが国民国家のベースになる「民族」というアイデンティティは、反措定的にしか規定されない。ウクライナという民族のアイデンティティは「反ロシア」とか「反ヨーロッパ」という形でしか浮き彫りにならない。「にほん」というのも、他の民族性に照らして「それとは違う」という形で言葉になる。胸の中でなんとなく抱いている感触も、それだけではぼんやりとしてカタチを成さない。だが対照的な何かが眼前に現れる途端に、何となくがやおらカタチをなして感じ取れるものである。これは、人の本源的な認知のプロセスである。それと共に「民族」とか「ナショナリティ」とか「くに」というが鮮明になるのは、反措定的に何かに出くわしたときだ。その最も明確なカタチが戦争であることを、今回のロシアのウクライナ侵攻は示している。

 今回の報道がなされるごとに、私はウクライナに肩入れしていると自覚している。だがそれは、ゼレンスキーに肩入れしているのではない。ウクライナの生活者に肩入れしている。今のところゼレンスキーの振る舞いはウクライナの生活者に寄り添っているから、いちいち分けて考えてはいないが、ロシアの攻撃のかたちを見ると,ますますウクライナの人々がウクライナ人としての誇りに満たされつつあるように感じ、戦争が国民を起ち上げるという私の考えが証しを得ているように思って、やりきれない。

 これは私の直感だが、国民国家思考の延長上に生活者の平和はない。国民国家というのは、他の国家と対立することに於いて安定的に成り立っているからだ。生活者の平安は国境も国家もない、だがグローバリズムとは違う自治的な関係がかたちづくるセカイにおいて確保されると思っている。

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