2023年1月30日月曜日

生まれ変わる

 昨日の表題「死ぬということは死なれるということである」というのは、どうもヘンだ。「死」というのを一人称で見るのか二人称とか三人称で見るのかという違いを指しているだけで、自動詞/他動詞という変転も発生していない。むしろ、「死ぬということは生まれ変わることである」と、人称を固定して表現する方が適切妥当であった。だが、「生まれ変わる」というのもじつは、カタチ(色)を変えてソンザイする(空)というほどの意味であれば、まだ「エイエン」に執着している。「死ねばゴミになる」という一切放下の境地にも行き着かない。

 一切放下は、思えば、空なること。なるようにしてなる必然として、意味も形跡もすべて跡形もないことを是とする観念である。そこまでいって初めて、人類史とか生命体史という普遍と一体化する。普遍とは宇宙の全体。ゴミのような黴菌のような取るに足らない存在のgermが宇宙の全体とひとつになる。「観念」であるから ヒトはそう覚悟せよという思いの到達点である。死への心の準備としていえば「悟り」となり、迷いからの「解脱」となる。

 悼むとか弔うという振る舞いは、普遍に至る過程の儀式と言えようか。亡くなった人に託して表現するが、それが残された者たちにとって必要な儀式であることははっきりしている。墓もそうだ。お盆もそうだ。いずれも生きている者が、先祖という死者と一続きになって受け継いできた末裔として,今ここに存在していることを忘れずに生きて行けという「自戒」として「色」を擱いた。それが、祈りであり、追悼であり、弔いであり、墓や法要となった。生きている者にとってそれは、あくまでも「空」とはならない。呼び戻し、再会し、受け継がれてあることを繰り返し意識することによって、身の裡の無意識に生活の習いとして沈み馴染んでいるものを、意識の表層に思い起こして、歩んできた生命史の全体と一体となっていることを確認する。

 その到達点を一切放下というとき、それが普遍と一体化することであるというのは、同じことを指しているだろうか。ちょっとニャンスは違うなあと感じる。一切放下は普遍すらも空なることとみなしている。つまり観ている視点が、消えている。大宇宙を観るのは、何処に視点を置くと可能か。どこにも視点を置く場はない。観ることも空なることによって初めて視点を獲得する。そういう絶対矛盾的自己同一と呼んでもいいようなアクロバティックな「思い」を惹き寄せることによって、論理的に完結する。

 モノゴトを見て取る、自己省察をする、関係を普遍化して捉えようとするヒトのクセというのは、そのような矛盾を抱え込み、ときには時間を循環することとして空間に変換し、あるいは次元が十一次元に亘ることとして、目に見えない次元を想定して、イメージ世界を完結させないではいられない特性を持つ。その極みが「空」である。何もないところに目を擱くことによって究極の「真理」をみつめる。「空」はワタシにいわせれば、「混沌」と同義である。何もないということは、すべてがあるということでもある。オモシロイ。

 こうしてワタシは大宇宙とひとつになり、空なる混沌に一切放下して一体化する。いってしまうと何てことのない平凡な死生観ですが、いやなかなか良い線行ってるとご満悦です。

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