1年前(2022-01-23)の記事「慟哭の絶対的関係と生存への欲望」を目にして読みながら、僅かこの一年で世界が露わにした相貌を振り返ってみている。呉叡人『台湾、あるいは孤立無援の島の思想――民主主義とナショナリズムのディレンマを超えて』(駒込武訳、みすず書房、2021年)に触発された感懐であるが、公刊された2016年と「日本語版への序文」が書かれた2020年5月との(台湾の置かれた)落差が大きく、さらに去年と今年の1年間の,本書を読むワタシたちの身を置く世界の変わりようが、露骨である。
ロシアのウクライナ侵攻は、WWⅢを思わせた。未だそこへ突入せずに踏みとどまっているのは、「核の脅威/プーチンの錯乱」に欧米世界が脅えているからである。ウクライナに戦車を提供することへのドイツのもどかしい逡巡も、その動機がどこにあるにせよ、ウクライナ/ロシアの現事態に力を対置していくのがもたらす「核の脅威/WWⅢ」の発現では、世界の先行きがまったくみえなくなるからである。
このとき「世界の先行き」として私の視野に入っているのは、欧米先進国や東アジアの近隣諸国。アフリカ諸国の人々や東南アジアの人々の暮らす姿は,ほぼ存在していない。みえていない人たちは(この事態に)「関係しない」と(私の胸中で)みなされている。ではみているワタシは「関係する」のかというと、国民国家という枠組みを通してかかわる回路しかもたない。国民国家を通す回路って、では、お前の知見を活かす通路になっているかと自問すると、じつは、まったくなっていない。だったら、アフリカや東南アジアの人たちと同じじゃないか。だったらなぜ、あなたは「世界の先行き」を懸念するのかと、自問が続く。そのときほとんど意識していなかった「関係の絶対性」が浮かび上がる。つまりワタシは日本という国民国家と同一化している。あるいは欧米先進国の、理知的な(私が思っている)思念と共有する観念をもっている(と思っている)。
つまり、自分の置かれている地点はわが身のセカイで位置づけられ、そこから世界をみて「先行き」を考えている。だがそれは、国民国家の為政者やウクライナ/ロシアの戦争にかかわる国々の為政者たちの視界には入っていない。じゃあ何だよ、俺たちはっ、て文句が出ても可笑しくないし、何でもねえよ、ゴミだよと応えが返ってきても、それなりに説得力がある。じゃあ、知らねえよ、世界のことはと居直っても居直らなくても、為政者たちには関係ないことなのだ。
呉叡人だってそうじゃないかと、台湾の今置かれている立場を知っていても言いたいくらい、一人のヒトは世界にとってみなゴミなのだ。にもかかわらず呉叡人は、ニヒリズムに陥らず、それどころか、自らを「賎民/パーリア」と自己規定しながら、「台湾の悲劇」を道徳的意義において意味づけようとする。
《…台湾人であるわれわれは…一切の高尚な価値を評価し直さないわけにはいかない》
と言い置いて、こう崇高さを湛えた言葉で締めくくっている。
《…賎民は…無意味で残酷な現世に対してその意義を求めているのであり、この生存への欲望に対する承認を要求している。それが賎民による「自由」の追求の形である》
去年私は、《このギリギリの場に身を置いて、ニヒリズムに陥らず、善へ向かう道徳的意義を堅持する気高さに、胸を衝かれる》と感想を記した。今年それを、国民国家という既成観念に収斂させるのではなく、国民国家という「関係の絶対性に」にとらわれた「賎民」が求める「生存への欲望に対する承認」を突き出して行く。誰に突き出すのか? プーチンではない。「関係の絶対性」に於いてキシダに向けて。そう考えると、a元首相が旧統一教会への憎しみにみちた銃弾に倒れたのも、aとyとの「関係の絶対性」に於いて,ある意味必然のことであったと腑に落ちる。
私たちはそうした「目に見えない絶対性」に規定されて生存し、争い、絶対性を蹴破っていこうとする「自由への希求」において倫理的に振る舞う根拠を手に入れることが出来る。1年経って改めて、世界をみる視点を意識した次第です。
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