2023年1月7日土曜日

わが身に忘れ物

 昨日は、何となく過ごしてしまったような気がする。何でだったろう。

 年明け初めてのリハビリへ行った。往復約10㌔。朝の冷え込みもあって、汗も掻かず早足だったようで、片道45分。片道約5㌔と思っていたのに、これでは時速6㌔を上回っている。そんなはずはないと思って歩数計を確認すると、片道4.8㌔。あっ、やっぱり時速6㌔ほどだ。これくらいで歩けるってことは、大分体調が戻ってきたってことか。

 リハビリ士が施術をしながらどう年を越したかと話しかける。ああ、この方の過ごしたことを話したいのだと思い、そう言えば豊岡はどうでしたと返す。新幹線が混んでいたこと雪が思ったほどなかったこと、コウノトリは観なかったなど話しながら、左手掌の伸び具合、曲がり具合がどう変わっているかをチェックし、ほぐしていく。痛みは少なくなった。ずいぶん伸びる。曲がるのがまだ覚束ないが、それでも中指も手の平につくようになった。向こうの方でやっているリハビリ士が、患者に「では、これからは週1にしましょう」と言っているのが聞こえ、そうだな、こちらもそろそろそれくらいのペースにしようかと思った。

 リハビリの帰りに図書館へ寄り、期限の来た本を返す。まだ読みかけの一冊があった。オモシロイが、一節ずつに触発されることを考えて読むうちに、他の興味深い本も割り込んできて、並行していて期限が来てしまった。こういうとき、返却する前に、カミサンの図書館カードを借りて「ネット予約」しておく。そうすると、私の返却とほぼ同時に、「予約本が到着しました」って知らせが来る。本を返して、暫く館内で時間を過ごして受付カウンターへ行くと、「あっ、来てます」とすぐに手元に入る。その裏技を使ったつもりであったが、正月明けとあって、返却本のチェックに手間取っていて、こちらの考えるようにはうまく運ばなかった。家へ帰って午後、パソコンをみていると「予約本が到着しています」とメールが来た。ま、明日取りに行けばいいや。

 帰宅するともう、お昼だ。食事を済ませ、炬燵に座っているとうとうとしてしまう。カミサンが「ちゃんと横になれば」と声をかけたので、やらなきゃならなかったことを思い出した。午後3時からの「男のストレッチ」教室の会計報告をプリントアウトしなければならない。プリンタが「ハガキ仕様」 になっていて、午前中に「用紙がありません」とプリンタに文句を言われ頓挫していたのだった。プリントアウトを済ませ、今月の会費徴収の準備をする。後でストレッチに行って気づいたのだが、この会の忘年会の費用を幹事が立て替えてくれていたのだった。その支払いをみなさんがしていて気が付いた。皆さんから集めたものから一寸借用して幹事に支払い、家へ帰って整理するときに返しておいた。ボーッと過ごしているんだね。

 会計報告をプリントアウトしていて、もう一つやることを思い出した。山の本につけるかもしれない写真を、これまで撮った1万枚歩度から選別する仕事がまだほんの1割くらいしか終わっていない。これを今月半ばまでに仕上げなくては、本のデザイナーに迷惑を掛ける。一回の山行に撮った50枚ほどの写真から、10枚くらいをピックアップしておく。後にそれをさらに半分にし、デザイナーに送る。最終的には一山2枚くらいになるだろうが、それは任せる。

 時間になったのでストレッチに足を運ぶ。皆さん新年の挨拶を交わし、アラ知命の講師も何だか清々しい雰囲気でにこやかだ。なぜだろうかワタシは、年があらたまった気分がしない。新年の変わり目に身体が反応しなくなっているように感じる。これって案外大変な変化じゃないかと思うが、なぜかはわからない。ワタシが世間から逼塞していっているんだろうか。ボンヤリそんなことを考えながら、1時間半を過ごした。

 帰宅して又パソコンにとりついていて、図書館からのお知らせも受けとっていたとき、電話が鳴った。大学同窓のTさんからだ。同期のYの奥さんから年賀の返事だろうと思う手紙が来た。Yが病の床に伏して返事が掛けないというのかと思ったら、そうじゃなくて、11月に逝去した、喪中葉書を出す気力もなく年を越して、失礼したと前置きをして、Yが好きであった自宅で死ぬまでを過ごすことができた、3日ほど寝るように意識が遠のいたので救急車を呼んで病院へ行った3時間ほど後、そのまま亡くなったと記してあったという。聞いていて、奥さんの切々とした心持ちが伝わってきて「名文だね」とTに感想を伝えた。

 同期12人のうち、5人が鬼籍に入った。平均寿命が81歳とおもうと、私たちも平均的世間を生きてきたことになる。でもYは私にとってそれだけではなかった。シティボーイだったニコタマ育ちのY。ニコタマもシティボーイも、もっとずうっと後になってつくられた言葉だが、そういう雰囲気の似合う都会育ちの自分を少し恥じるような気配をもっていた。オサムという自分の名前に当時流行っていた漫画家に倣って虫をつけて署名していた。野球の上手な器用な運動能力の持主。田舎出の私にいろいろと気遣いをしてくれたことが思い浮かぶ。アメリカンポップスを教えてくれたり、東京の「バー」というところへ初めて連れて行ってくれたのもYであった。自宅に招いてお母さん手作りの餃子をごちそうしてくれたのを思い出す。餃子は、私にとって初体験のごちそうであった。

 彼が金融関係の仕事に就いてからも数年に一回という程度に会っていたが、静かな振る舞いと軽妙な語り口は相変わらずと思っていた。古稀を少し過ぎたころだったか、「人に会うのが嫌だ」とTに断って、同期会に顔を出さなくなった。その気分が少しはわかると私は思うと同時に、老人性鬱症状かと推察していた。YはTとは住まいが近くゴルフ仲間であったが、それにも同行しなくなったと聞いたことがある。70代の半ばだったか、メールでYに久々に今度の新年会に顔を出さないかと私が呼びかけたら、そうだね、一度顔出ししようかと返信が来て、会うのを楽しみにした。だが、当日になって「やはりダメだそうだ」とTが話してくれた。そうかYが亡くなったか。わが家に忘れ物をして静かに立ち去ったような気がする。

 そうだ昨日は、息子の誕生日であった。これは一組の親の誕生日でもあった。息子に誕生祝いのメールを打ち、仕事に脂がのっている時期だなということと定年まであと十年ほどだろうかと、同じ年齢だった頃のわが身を思い出していた。

 そんなこんながあって、昨日は記事を書く気にもならなかった。

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