手掌の手術をして半年の診察、地はビリが思ったようにすすんでいないことに業をにやしのか、医師が訊く。
「手術前に何か運動していました?」
「山歩き、登山です」
「手の平で力を入れて使うってことは?」
「ストックをもつとか、岩場を通過するとか、ときにザイルを使って安全確保するようなことですかね」
「この季節も行ってたの?」
「ええ、奥日光とかですね。事故があってからは,ザイルやピッケルを使う山へは行かないことにしています」
「雪山でしょ?」
「はいそうです。スノーシューで、勝手知ったるところを散歩するようなものですね」
という遣り取りをして医師は、
「これからはリハビリだけでなく、山歩きなど、左手の平に力を入れるような運動できるだけして下さい」
という。えっ、どういうこと?
手術後半年を過ぎたのに、まだ左手指が元のように折り曲げられないというのをリハビリでどうにかしようというのは難しい。むしろ,ザイルを摑むでも岩場にとりつくでもして、無理にも手掌に力を入れるようにしていると、気が付くと昔のように動いているってことがあるかもしれないという。
この時、この医師は年齢を重ねた体が、若いときのようには動かないってことをほとんど考慮していないと思った。たとえばバランス力は、20歳に比べて70歳は1割に落ちている。80歳ともなると取るに足らないほどになる。だがそう思っていない医師は、意志力さえ伴えば、同じように力を使い、同じように運動できると思っているかのように気軽に「運動しなさい」といっている。気軽に出来ないからリハビリに通っているんじゃないか。
でも医師の言は、私の自己規制を解除するお墨付きになった。急に気持ちが晴れ晴れとする。そうだね、来週からでも山歩きを再開しよう。むろん、体はなまっている。長時間歩くと、疲れが溜まりやすい。バランスも悪い。平地を4時間歩くのと山を歩くのでは、倍くらいの体力を使う。よほど用心しなくては事故につながる。だがそれでも、医者の診立ては、私がこわごわとわが躰と自問自答してきた境目を取り払い、何でこんなことを自己規制してきたんだろうと思うほど簡単に、超えてしまった。
1年前(2022-1-25)の記事「市井の老人の感懐」で、遭難事故後リハビリで復調を感じて「最初に思いついたのは四国のお遍路さん」と書き記している。そうだった。去年の感懐をもう忘れて、すっかり病人気分になっている。去年は、そこから歩くことを再開して,4月のお遍路の旅に出かけたのであった。同じような、そしていえば、躰全体の復調の土台は去年よりも遙かに良い。であってみれば、デスクワークばかりしていないで、外へ出ろ。山へ行け。歩きに歩く生活習慣を取り戻せ。そうすることによって、左手掌の難儀などは忘れてしまえと、号砲が鳴った。そう思った。
自己規制の解除って、案外、そういう外からのほんの一寸した言葉の介添えがあると、ひょいと乗り越えられるものなんだ。たぶん私の整形外科医は、自分の言葉がそういう働きをしているとは、思いもしないだろう。でも医者って、患者にとってそういう役回りをしているのだ。そのために診察を受けているんだと思った。
もっとも、医師がそういったことをリハビリ士に告げると、リハビリ士は「鉄棒なんかにぶら下がるってのが良いってことですよね」と、的確に日常に引き戻してコメントした。これも、しかし、ユメがない言いようだね。左手掌の握力を測ってくれた。3ヶ月前に「13kg」だったのが、「18kg」になっていた。来月からリハビリが2週に一回になる。省略した部分を山へ行けというわけである。良い節分になりそうだ。
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