石浦章一『日本人はなぜ科学より感情で動くのか』(朝日新聞出版、2022年)を読んでいる。どうしてこのような表題にしたのか,疑問が湧く。石浦は「日本人は」ということに特定した記述をしていないからだ。彼の記述内容が大学での講義をまとめたものである。私にも覚えがあるが、ワタシの体験から発することは、ついつい「日本人の」ことと思ってしまう。石浦は分子認知科学とサイエンスコミュニケーションを専門としている方だから、海外の研究者との付き合いも深く、そこで感じた「日本人」を取り出したのかもしれない。だが、そのような記述がなされているわけではない。
私は日本人は・・・というより、ヒトは・・・と考えている。
石浦と逆で、科学者はなぜ感情をないがしろにして「科学」の論理だけで動くのかと問いたいくらいだ。いや、石浦の展開しているのが、科学を無視し体感だけでモノゴトを判断する庶民に対して、もっと科学リテラシーをもてと一方的に。啓蒙的に言っているわけではない。科学者にもまた庶民が科学者に何を期待しているかを知る必要があると説いている。だからか、科学リテラシーと言わないで、サイエンスコミュニケーションと称している。双方向の遣り取りを考えている。通常科学リテラシーというと、ずぶの素人が専門的な科学をどうやって理解していったらいいかを説くものと相場が決まっている。つまり、科学に関してこれくらいは理解する素養を身につけてよと謂うのが、「リテラシー」ってヤツだ。科学とはまた一寸違うが、建築の専門家が団地の大規模修繕に関して住民に説明する際に遣う言葉が、専門用語そのまんまだったりする。もっとわかりやすく言ってよというと、「もっと勉強して下さい」と返事が来て、そんな言い方はないだろうと遣り取りしたことがあった。団地の理事長をしていたときだ。修繕専門委員会に、理事会にわかるように説明して下さい、理事会がわからないことは住民に説明できないですからと突っぱねて、押し切ったことがあった。もちろん喧嘩したわけではない。聞いた説明を理事会で文章にして,住民に伝える。理事会が納得できないことはとことん聞き質す。そして言葉をほぐし、修繕経過のどこが一番気になっているかを居住者から聞き取る。
専門家は住民が勉強不足だと思っている。居住者は(専門的なことはわからないと)バカの壁を設けて、端から耳を貸さないってこともある。ほぐしすぎて理事の一人から「もっと簡略にできないか」と注文がついたこともあった。メンドクサイが、一つひとつそうやって解きほぐしていって、半年ほど経ってからやっと、専門委員会と理事会の意思疎通が図れるようになった。簡潔に言えば、理事会は修繕専門委員会のご苦労に厚く感謝するようになった。専門委員会は、理事会に解きほぐして工程の説明をするようになった。
だが、科学する人と市井の人々との間に,どのような違いがあるのか。科学する人たちは、誰がどこから見ても同じように言えることを客観的といっている。だが、庶民は、誰がどこに立ってどのように見えているかでモノゴトは違って見えることを,経験的に知っている。専門家だって、何処に足場を置いて「科学的知見」を説いているか見極めないと、不都合なことは口にしないからわからない。後でただされると、「質問されなかったので・・・」とまるで政治家のようなことをいう。
では庶民の立場って,何処に身を置いて何に関心を持ってみているかと問うと、一筋縄で説明することはできない。つまり「科学的知見」がそのまんまで庶民の暮らしに適用されて万事つつがなきやって風にコトは運ばない。「科学的知見」は、庶民の暮らしの合理性に適合しなくてはならないのだ。この庶民の暮らしの合理性に、感情が混ざるというか、介在するのがケシカランと石浦さんが考えているのだとしたら、やっぱり構えはよくても実質は一方通行のコミュニケーションだと言わねばならない。
暮らしというのは、ヒトが感知するまるごとがかかわる。利害だけではない。コトの成り立ちや手続きやがモンダイになる。そればかりではない。理解するが、納得はできないってこともある。納得しても,承知できないとごねたくなることもある。何しろ私を含めて庶民は、自分でもなぜかわからないが、直感的に,まさしく感情で不条理だと感じることがある。ときどきなんてもんではない。しばしば、腑に落ちないことがある。もっと時間をくれよと言いたいが、提案したり説明する側は、タイムスケジュールってものがあるから、そういう言い分は聞かない。
そうして、どうしてオレは、あいつの言うことが納得できないのかと自問自答する。そうしているうちに、ふと気づく。日頃の振る舞いが信用できない。つねに関連情報を公開しているわけではない。そもそもモンダイ点を検討するというが、提案者側に都合のいい、回答が目に見えていることだけをモンダイ点としてるんじゃないか。不都合なことは、問われたら応えようという姿勢が常であるから、ここへきて「誠実の対応して」などと美辞麗句を並べても、ハイそうですかってわけにはいかないのよね。
日本人はというよりも、ヒトは感情で動くものなんですよ。感情よりも科学の論理(理性)で動くってヒトは、科学者という限られたセカイで専門的な知見と技術を駆使し、極め付けの好奇心ととびきりの忍耐強さで、自制心を存分に用いて一つコトに身を献げている奇特な人たちなのです。暮れとして言えば、未だにギルド的ともいうべき閉鎖的な序列と権威を奉じている人たちと見受けます。むろん言うまでもなく、庶民は門前の小僧です。でも、境内の中の苦行の修行僧をみるように、畏れ多くも近づきがたい経緯をもって「科学者」という人たちをみているのです。
この感触の違いから説き起こさないと、いきなり「日本人は・・・」と括られても、オヤおいらのことかいなとばかり、他人事のように思ってしまいますね。石浦さんの文体は、そういう揶揄うような内容ではなく、十分咀嚼して余りあるほどの指摘に満ちてはいます。でも、本のタイトルに書くほどの「日本人」に関する記述は,ほとんど見当たりません。ちょっとこれって、出版社の編集担当者がだいぶ「感情的に」直感してつけたんじゃないかと推察しています。著者の石浦さんには気の毒ってところかな。
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