2023年1月21日土曜日

不安の煙、死の予感?

 寝ているとき妙な体感をもった。ふと気づいたのだが、ぷくりとどこからか湧いてきた煙のような「不安」が胸中に感じられ、あっこれが、死の予感かなと思ったのだ。「不安」と名付けたが、寄る辺のない不安、地図のない道を独り行くような心もとなさ。

 消化器系の不調ではない。といって循環器系のどこかに不安の素を当てはめることが出来るほど、明確な「煙」ではない。まさしく色即是空、空即是色といった風情の「煙」だ。何だろうこの煙の醸す不安はと考えて目を覚まし、時計を見る。夜中の1時半。4時間ほど寝ている。トイレに行き、寝床で再び考え込む。そう言えば、山のホテルで床を並べている隣にいた長兄が熱があると起きだし、咳き込んでいたので、救急車を呼んだ。その救急車が来るまでの15分ほどの間に急逝したときも、ひょっとしたらこんな気分だったのだろうかと8年半ほど前を思い起こす。急性心臓死だった。

 あるいはまた55年ほど前、前夜大宮で会って話し込み、夜10時頃に分かれた友人が,その夜の就寝中に急逝し,奥様から電話をもらったのは明け方の6時前であった。突然死とかポックリ病と当時は言っていたが、彼はまだ20代の後半ではなかったろうか。その彼も、このような「不安」を感じたろうか。

 昨日の私の行動を振り返る。午前中、カミサンが見沼田圃のトラスト地のボランティアに行くのを車で送り、そこへ車を置いて見沼自然公園へ散歩に出た。高台の植栽地を巡ってホオジロやシジュウカラ、ツグミなどをみて歩き、加田屋川沿いに戻ってくる1時間半余のルート。人も少なく、ヒドリガモやオナガガモ、カイツブリ、オオバンなどが群れ、ダイサギやアオサギが悠々と川の流れに沿って飛ぶ姿は、さすがに見沼田圃の名に恥じない。

 家へ帰って日曜日のseminarの準備をして、昼食。午後3時から公民館のストレッチに出かけ、2時間ほど遊んで帰ってきた。水分は午前中350ml、午後350ml。しっかり摂取している。大相撲を見て夕食。おでんも美味しかったし、おチョコに2杯の日本酒も,これで十分という感触が良かった。つまり体調的に可笑しなところはどこにもなかった。健康そのものだと思っている。

 そして深夜突然の「不安の煙」。そう言えば先日読んだ中井久夫の自伝的本の中で、曾祖父だったか高祖父が「間もなく死ぬ」と告げて4日間絶食して身罷ったという話を書いていた。寿命を悟ったのであったか。そういうことがあって、そのようにできるなら、それもまた見事だと思いつつ読んだことが影響しているのか。死の予感を得たように思ったのだった。

 心当たりがないわけではない。何しろ80歳だ。それに来週には市立病院へ行って、24時間測定ホルターをつけて検査して貰う。私の右だか左だか心房肥大があり、不整脈の原因となっている。1年に一回程度検査を受けてチェックして下さいと言う。医師は取り立てて騒ぐほどのことではないが、注意しておいた方が良いという口調であった。

 この「不安の煙」の話は、しかし、カミサンには話さないことにした。言うと、それが彼女の心配のタネになり、彼女の高齢者鬱を引き起こす引き鉄になりかねない。それにしても、「不安の煙」はしっかりとワタシの胸中に踏み跡をつけていった。こういう「煙」が繰り返し現れるようなら、間違いなくワタシの寿命の期限が迫っている証し。いつ身罷ってもいいように、カミサンや子どもが困らないように,伝えるべきことを書き置いて準備をしなければならない。そんなことを夢うつつで考えていたら、6時前になっていた。

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