また1年前(2022/01/17)の記事「平均も中央値もない幸運」というのが送られて来た。コロナウイルス禍に対処する政府・公助のありようがわからないことと自助しかないことの覚悟とが、さらに1年前、つまり2年前の様子を交えて綴られている。ちっとも変わらない。一つ、2年前に私は「ゼロコロナ」をイメージして政府の対処と都知事の反応とを比べて記している。そして1年前にはもうすっかり「ゼロコロナ」は姿を消し、自助しか頼るところがないと心定めた経緯が記されている。これはちょうど、今の中国政府の方針転換をみている人々のように、結局頼りになるのは自前の術だけと自覚するのに似ている。
中国のwith-コロナへの転換に伴って公開するに及んだ「情報」が嗤われている。死者の数が「38人」から一挙に「6万人」に増えた。それでも日本のメディアは、まずこの十倍はあるでしょうねと報じている。中国政府は、国内向けの「情報」と国際向けの「情報」を使い分けているつもりだ。
中国国内の人たちは死者数を,ご近所で目にする死者の数とか身近な火葬場の混雑具合で推しはかるしかない。マス・メディアを通じて知るのではないから、直ちに一般化しない。身近な様子で見極めるしかない。知り合いとの伝聞を通じて,つまり流言蜚語として、現状を摑む。どのつまり政府の数字はウソだというふうに行き渡る。
それが厳然と露呈するのが、海外へ渡航しようとするヒトへの、外国の処遇である。ことに日本政府が中国からの渡航者に課した感染確認期間の対応が厳しい。中国政府は(国内向けと考えるしかないが)「差別的な扱いをしている」と抗議することで、ウソを塗り重ねようとする。でもこれがさらに、中国政府のウソでウソを塗り重ねる為体を露呈させる。
世界はどうするだろうと思っていたら、WHOは「数が少ない」と批判した。アメリカも、感染しているウイルスのDNA情報を公開せよと要求して誤魔化しを認めない。なるほどそういうふうに詰めていくのだと、王手を掛ける将棋をみているような気配に興味が湧く。
「でも中国だけじゃないじゃん」
と,わがカミサンは、日本だってアメリカだって似たようなものという口調だ。中国びいきというわけじゃないが、いじめっ子のジャイアンのようにアメリカが口を挟むと、判官贔屓というか、ついついいじめられているのび太の肩を持つ。
おいおい、そういうモンダイではないよ。日本やアメリカは,それでも情報公開のシステムを取っている。中国は、端から蓋をして,知らしむべからず依るしむべしという国是だ。日本の情報公開が笊のようで、ホントのことが何かわからないというのは、その通りかもしれないが、それでも、笊のようだということは、隠さない。何が事実かは推察するしかないが、推察する手がかりはオープンにしている。そこが違うと私は思う。
いやしかし、よくよく考えると、どちらが優れているかわからないところもある。なまじっか隠さないシステムと思っていると、隠しているのに気づかない。だが恒に隠していると、何を言っても、ホントのことは隠しているというリテラシーが鍛えられるってワケだ。だからどちらが優れているというよりも、政府は基本的に情報公開を旨として運営せよという程度の基本姿勢を、為政者はもつ必要がある。これが、民主主義って政体の基本である。
そして3年目の感懐。たとえその民主主義の政体であっても、基本は自助なんだということ。何がホントで何がウソかも、自分で見極めるほかない。ワタシは何をホントと思い、何をウソと感じているかを,一つひとつの事象についてわが胸に問い、その自問自答を繰り返し、積み重ねる。そうやって世界を見る目を養い、自分を見る眼を鍛えていく。これ以外に、中国政府のウソをウソで塗り固めて自己破綻する場合はともかく、ヒトの世界の(ワタシの)真実はみえてこない。
でもそこまで開き直ると、案外セカイはスッキリしてみえる。そんな感じがする。
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