2023年1月12日木曜日

「ウィ」と「ウイ」の当事者性

 石浦章一が『日本人はなぜ科学より感情で動くのか』(朝日新聞出版、2022年)で「ウィルスと書くのは素人、プロはウイルスと表記する」と記していて、驚いた。知らなかったというより、わざわざ「ウィ」と表記するためにキーボードを「wi」で叩いていた。何という粗忽、何という迂闊と、まず思った。ついで、でも、なぜこうした誤りにワタシは気づかなかったろうと思った。石浦は「素人」と「プロ」の違いがなぜ生じるのかに言及していない。

 言語学の専門家に聞くしかないが、「ウイ」と「ウィ」の表記について,たぶん日本語はいい加減だとワタシは思ってきた。もちろん経験的なわが身の感触である。

 たとえば、江戸初期の三浦按針はウイリアム・アダムス(William Adams)といった。「ウィリアム」と表記してもいた。アメリカの大統領・ウッドロウ・ウィルソン(Thomas Woodrow Wilson)は「ウイルソン」と書いても間違いだとは考えなかった。

 社会的慣習としてはどうだろう。冬を意味する英語winterは「ウィンター」と表記するするのが「普通」だと思うが。「朝日新聞デジタルのウインタースポーツについて・・・」とあって、「ウインター」と表記するのもあった。

 じゃあどうして、「プロはウイルス」なのか。ネットで検索してみて,これもちょっと驚いた。wikipediaでは英語の「virusヴァイラス」とあるが、語源はラテン語の「virusウィールス」とある。ウィルスでもいいってことじゃないか。そうワタシは思う。

 いやね、私は、自分の知らなかったことを正当化しようとして,こだわっているのではない。サイエンスコミュニケーションの専門家である石浦章一さんが、何の説明もなく、「素人はウィルス、プロはウイルス」と言い切っているのに、違和感を覚えたのだ。市井の庶民が素人であることは紛れもない事実。ラテン語の語源を知っていて、そう表記しているなんてことはないのだから、言うまでもなく石浦の言っていることが「正しい」に違いない。そう気づいてからみていると、おおよそ世の中の権威とされるメディアの表記は「ウイルス」となっている。パソコンの検索ソフトでさえ、「ウィルス」と打ち込むと「ウイルス」と訂正して検索するから、世の常識である。だが、もしそれを石浦さんが気づいたなら、どうして素人はウィルスと書くのか、プロはなぜウイルスと記すのかに触れて記述しないと、ただ単に素人の無知を嗤う響きしかもたない。おっと、だから「日本人は感情で動くのか」と強調したいのだというかも知れないが・・・。

 プロが素人より優位性をもっているのは、より根源的に、モノゴトの淵源を突き止めて考えていくことにある。だからこそ、「感情より科学で動く」と科学者は胸を張れるのではなかったか。その肝心なところで石浦さんはミスを犯しているとワタシは感じている。ミスというより、石浦さん自身の身に染みた「科学者/庶民感覚」が露呈したのであろう。

 いやこれ自体は、たいしたことではない。だが、この「感情で動く」ところが、まるごとの庶民の受け継いできた生得の技である。庶民は常に「当事者」なのだ。科学者は,自らを当事者性から外すことによってモノゴトを客観的に見ることができる。科学者の得意技を手に入れるには、誰がみても確認できる事実を積み重ね(そういう当事者性を解脱して)、論理的に突き詰めることができなくてはならない。だが。庶民はそうではない。自分のことしか目に見えていないと誹られるかもしれないが、「当事者性」を一歩も譲ることができないのだ。

 サイエンスコミュニケーションが必要とされるのは、科学的知見がそのまんまで当事者の跋扈する現場で通用するはずもないからだ。そこでは、現場の合理性に合わせて科学的知見を「補正」していかねばならない。その両者の言葉を仲介し、翻訳し、融通無碍に使いこなしていくことをサイエンスコミュニケーションの専門家は期待されている。政治家や官僚という為政者も,その才覚を必要とされる。

 その点で政治家が信頼を失っているのは、いうまでもない。政権政治家は科学者に対しても,その胸のうちを明かさないまま、対決姿勢を採ることにした。逆に庶民に対しても、見掛けのリップサービスばかりで、やっているのはお仲間のお接待だけというお粗末さであったから、おおよそ信頼とはほど遠い。庶民もまた、もうそれでいいやと思っているのか、我関せず焉なのかわからないが、知らぬ顔の半兵衛を決めこんでいる。ワタシもそうだ。

 ま、そういうわけで、せめて科学者への信頼は保ちつづけたいと思っている。だからヒトが感情で動くのは、コトの当事者だからだと理解し、それを組み込んで科学的知見を工学的技術に変換する手立てを考え出して頂きたい。もちろん、科学者も現代社会という現場の一人であることを忘れずに、と願っている。 

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