2023年5月23日火曜日

「まつりごと」が日常になるには?

 ゼレンスキー・ウクライナ大統領が突然訪日したことで、一挙にG7に衆目が集まり、評判が上がりました。御膳立てをした岸田首相は助演男優賞という格好です。評判のお裾分けなのに支持率が上がって、早速解散の話に政界雀たちは囂しくおしゃべりをはじめました。でもなぜゼレンスキーの来たことが、私たちの関心を惹きつけているのでしょうか。

 日々攻防が伝えられる戦場の最高責任者がやってきたという野次馬の目が大方を占めていると私は感じます。どうやって来たのだろう。飛行経路を秘匿してやってこられるものなのだろうか。フランス政府の専用機を借りていたいうが、飛行途中で(ロシアやそれに味方するどこかが)それを撃墜するというのは、明らかに第三次世界大戦の引き金を引くことになる。この来日のさまが劇的ではないかと興味関心を惹き寄せる。

 何をしに来たのか。当然支援をより鞏固に取り付けるため、兵器・弾薬をより多く援助願いたいため、できればこれまで中立的立場に立ってきたグローバルサウスの国々もウクライナを支援するように願いたいため。リモートでG7に参加するといっていたけど、実際現場に足を運んで顔を合わせる方が間違いなく「効果」的だ。いかにも元俳優だっただけのことはある。

 でも、野次馬の日本人が・・・と考えていたところへ、TVの画面から「広島の人たちにとっては・・・」とゼレンスキーの原爆資料館などの訪問を報道するアナウンスが続き、おやおやヒロシマもついに「広島の人たち」のことになっちゃったのかと、当事者性の狭くなったことに気づかされた。ヒロシマの人たちとしては、78年前の広島と現在のウクライナを重ねてみていたでしょうし、ゼレンスキーは現在の広島を復興ウクライナの将来に重ねて言葉にしていました。そのズレが懲りない人類史を著しているようでした。

 それで気づいたのですが、G7の首脳たちを案内した広島・平和公園の戦没死没者慰霊碑が、あなた方を待っていたのよと語りかけているように思えました。「安らかに眠って下さい 過ちは繰り返しません」という碑文は「主語が曖昧」とか「原爆を落とされた日本人が口にする言葉じゃないだろう」などと非難を受けていました。でも、G7の首脳が口にする言葉としてなら相応しい。主語が曖昧なことを特性とする日本語が実は、人類史的な「反省」を表現していたということが浮き彫りになりました。だがね、G7の首脳たちが裏表なくこの碑文のいうように振る舞ってくれればですがね。

 広島という平和を願う地で兵器調達の話をするのは似つかわしくないという意見もTV報道は伝えていました。どうして? と思いますね。G7に要望するゼレンスキーの兵器支援要請は、文字通り直面するウクライナの戦争を戦前前の状態に戻す。ま、クリミアをどうするかで子細の差異は生じるでしょうけど、大雑把には昨年の2月22日以前の状態に戻れば、ロシアとの和平交渉にウクライナも同席することになるでしょう。先ずロシアが撤退すること。逸れなくしてウクライナに譲歩を迫るとすると、中国の台湾侵略は止めようがありません。ここで俄然私は、当事者になったように思います。ウクライナの趨勢が、台中関係の帰趨を制することに直結していると私は考えています。もちろん私のウクライナ贔屓を隠すつもりはありません。ウクライナの人々は、日本の私たちと似たような暮らしのレベルを持ち、似たような社会習慣の上に日々を送っていたと感じているからです。例えば日本の沖縄や南西諸島に、かつて宗主国であったからといって中国が軍を派遣するようなことがあれば、如何に何でもそれは許せないと戦うしかないと思っています。ウクライナに於けるロシアの立場を少なくとも侵略開始前に撤退させることができないでは、台湾どころか沖縄さえ日本は、護ることができない。そう思います。切実な当事者です。そういう意味で、ゼレンスキーの訪日は的を射ていたし、それが広島でヒロシマとイメージを重ねてG7首脳に要請したこと、インドの首相と会談したことは効果を持つと感じました。

 こうやって、当事者性をきっちりと位置づけていさえすればいいのですが、巷の評判がもっぱらドラマをみている観客としての視線で形づくられるのはどうなんだろうと、判断を保留したくなります。いやそれでも、ウクライナへの心情的な共感は身の裡に培われているよといえば、そういうものかと思わないでもありませんが、野次馬では矢っ張り力になれないのではないかと心配です。

 そういう意味では、ブラジルの大統領が「待っていたけどゼレンスキーが来なかった」と会見しなかったことを「残念がって」いましたが、第一報は、ルラ大統領がゼレンスキーとの会見場に現れなかったというものでした。どちらが真実か分かりませんが、ロシアの言い分にも耳を傾けろと常々主張してきたブラジルの大統領ですから、ゼレンスキーもぎっしりつまった日程を無理して開けてでも会談しようとしなかったのかもしれません。

 ただルラ大統領が、「G7の場ではなく国連で話し合うことでしょう」と言っているのは、「正論」でしょう。だが国連総会でロシアの撤兵を決議しても、どこ吹く風のロシアです。そもそもウクライナに兵を進めたのが、国連憲章違反ということもブラジルの大統領が知らないはずはありません。国連がもはや調停や調整で力を持たないことは、誰もが知る事実です。つまりルラ大統領にすれば、言ってみただけだったんでしょうよ。これは、偏狭になるかどうかではなく、どういう位置でこのモンダイの当事者なのかを明確にさせないと遣り取りできないことだと言えます。

 さてG7は終わり、それぞれの日常へと首脳たちは戻っていきました。ゼレンスキーは無事に戦場へ戻ったんでしょうね。お祭り騒ぎをして、後はまた日常が戻ってきたというのでは、G7は(私たち庶民にとって)文字通り「政/まつりごと」。庶民にとってはハレの場、選挙と同じでちょっとした気晴らしの時を過ごしたに過ぎない。そうそう、消費したってわけさ。「政/まつりごと」が庶民にとって日常にならない限り、庶民が政治の当事者になることはない。そう見切ったワタシが、今も私の身の裡に潜んでいます。

2023年5月22日月曜日

気分が左右している政治動乱

 安田峰俊『八九六四――「天安門事件」から香港デモへ[完全版]』(角川新書、2021年)を読んだ。天安門事件といえば中国民主化の兆しと受けとっていましたから、その弾圧やその後の権威主義的統治の推移を見ていると、民主主義香港の圧倒的制圧とか台湾侵攻の危うい動向も一連の情勢として視野に入る。それはまた、天安門事件のことを概念化することになります。大きな潮流の中においてみると、あの時中国は現在の統治体制へと舵を切ったとみえ、翻って中国の民主化は、あの事件の時にアメリカが経済的関係の利害から中国を見ていて(民主化を)見誤ったと受けとってしまいます。そうやって私も、天安門事件のことを胸中に収めてきました。

 ところが本書は、ルポライターの安田峰俊が天安門事件に「かかわった」人たちを、その二十数年後とか三十年後に訪ね、8964のとき、何処で何をし、何を考えていたか、その後それはどう変わったかに着目しながらインタビューをして全体像を描き出そうという試みです。それは、八九六四を軸にして人生と世界を浮かび上がらせます。言葉にするとつまらないことをいっていると見て取りながら、天安門のヒーローとして名を馳せた自分の後世に伝えるお役目として己に課している人もいます。あるいは安田自身が、言葉だけが軽々と繰り出してつまらない人だと見切ってインタビューを打ち切った人の姿も現れます。

 そうしてその一文一文が、概念的な把握を簡単に覆して、ワタシのセカイ認識をあらためさせるようです。このリポライターの視線と記述の手順と、その背景に横たわる人間観や社会観、世界観の奥行きが深いからか。やはり鏡としてワタシを映してページを繰る手を誘うのです。

 安田峰俊は、北京のその現場にいた人たち、遠く離れた東北部やチベットや南部にいた人たち、日本に留学していて民主化を支援していた人たち、アメリカにいて後に国籍を取得した人たち、あるいはいろんな経緯を経て台湾に落ち着き、今も大陸の若い人たちと遣り取りする機会を持っている大学教授と辿ってゆき、最後を香港の雨傘運動とその後の国家安全法の施行と人々の沈黙などを、運動の細部に目を配りながら関わった人々の心裡の欠片を組み合わせていき、中国は今どうなっているかを描き出しています。

 そうやって振り返ってみると、世界の動乱は何を内発的な契機として起こっているかワカラナイ。みている人にワカラナイだけでなく、その場にいる人にもわからないということが浮き彫りになります。渦の中にいては自らのしていることを見て取れることができないと言えるのかもしれません。ルポライターというのは、その現場にいながら、なおかつ、ステップアウトして全体像をとらえるために、細部にインタビューを重ねて、歳月を隔ててイメージを総合していく作業をしているのだなあと敬意をいだいています。その手際に感嘆の溜息をつきながら、ワタシのセカイの欠片を一つ塗り替えている。それが読後感です。

2023年5月21日日曜日

専門家ってなあに?(3)ローカルこそが普遍というパラドクス

 ひとは大雑把に「専門家」という言葉を用いる。その意味する所が何であるかは、時と場合とひとによって異なってくる。その内実は「知的権威」と私は考えているが、大抵は「肩書き」で以て判断している。大学の教授であるとか、建築設計に携わってきたとか、政府の防疫機関の研究者として従事しているという「肩書き」である。

 コロナ禍がはじまった頃、TVのコメンテータとして随分たくさんの感染症の研究者や防疫機関の専門官や医師が出演し、いろんなトーンで喋っていた。その中の女性の専門家は、初め登場した頃には素顔の地蔵通りのおばちゃんという風情であった。何度も登場するうちにだんだんおしゃれになり、髪かたちも変え、顔つきまで洗練されてきた。彼女の話よりも、その様子の変化の方が話題になっていた頃、私と同年の老爺の一人がいかにもインチキ臭いものを目にしたように、彼女のことを「何が専門家だ。バカなことをしゃべってやがる」と口汚く誹った。「えっどうして?」と訊いた。彼は「あんないい加減なこと」と何を指していたのか分からないが、みるのもイヤだという風情であった。

 自分の聞きたくないことをいかにも専門家面して喋るコメンテータも結構いるから、彼女もその一人に祀りあげられたのかもしれない。だが、出演して喋っていることとは別に先述の私のように様子が変わってくることに注目していると、「専門家」というよりは「タレント」の成長記録のように感じている。ありきたりのことを喋ったりするとか、いかにもワタシは知っている(アナタは知らないでしょうけど)という気配が漂ったりすると、何言ってやがんでえと反発を感じることもあろう。

 TVプロデューサの方は「肩書き」で「知的権威」を感じて出演願っているつもりでも、視聴者は、タレントの一人として受け止めるから、その言葉と振る舞いに何の「知的権威」も感じないこともあろう。すると、何でこんなヤツがと反発を食らう。もっとも私と同年の老爺は、功成り名遂げた風の学歴と職歴といった経歴を持つから、エライ人ではある。すぐにひとを馬鹿にして反発するキライもある。だからなぜこの人が当の「専門家」に反発したのかはワカラナイ。知りたいとも思わないからそれっきりにしたが、ひとが何に「知的権威」を感じるかは、人それぞれによって大きく異なることだけは確かである。

 じゃあ、一般的に「専門家」といっても、話が通らないではないかと反撃を食らうかもしれない。そこが、大雑把にとらえる「ことば」「概念」のお蔭で、いちいち騒ぎ立てないで私たちの世間話は通じているのである。

 だから「実践人生80年」の専門家としての私は、それだけで胸を張っていいのであるが、それだけでは胸が張れないと思っている。どうしてか。ただただ生きてきただけだからだ。やはり専門家というのは、知的な何かが加わらなければならない。実践人生80年に知的に加味することとは「批判」である。カントは「実践理性批判」と記した。

 批判というのは「文句をつけること」と近年の学生さんはとらえるようである。だから人の提出したレポートを批判するというのは、喧嘩を売ることと考えている。「そんな失礼なこと」と大真面目で教室で質問したり批判したりするのを排撃するのに立ち会ったことがある。そりゃあないよと、当の教室の秩序を取り仕切っていた私は、質問や批判をした学生をかばった。すると、教師がそういうことを奨励するのはもっとケシカランと口撃を受けた。

 カントがそういう意味で使ったかどうかは知らないが「批判」というのは、対象を見つめ言葉にしてその輪郭を切り分けることと私は考えている。つまり「実践人生批判」というのは、わが人生の過程で身に堆積してきた感性や感覚、好みや思索、判断などの、ほぼ無意識に沈潜している一つひとつを言葉にして取り出し、その由緒由来を探ることである。意識に浮上させ、その由緒由来というからには、対象の出自来歴の淵源を辿ることになる。

 カントさんは「人間の理性から直接導かれる道徳があるはずだという確信から出発」(1)したという。それを彼は「定言命令」と呼んでいるから、理性が直接命令すると考えている。そして「実践理性批判」では快や欲望からくり出されてくる「命令」は、「快のために・・・」「欲望を満たすために・・・」何かを行うというのは「仮言命令」だとして、理性の命令ではないと言葉にしたのであった。そしてさらに、「習俗や宗教といった特定のローカルなルールが道徳の源泉であると当たり前に考えられていた時代において、道徳を普遍的な視点から規定しようと試みました」(2)と「普遍性」を所与のこととして論展開をしている(上記の(1)(2)はマイクロソフトの生成AIcopilotの回答したもの)。

 だがなぜ「普遍」が所与のことになるのか、なぜ「人間の理性から直接導かれる道徳があるはず」と決めつけることができるのか。そこが私には、ワカラナイ。「ローカルなルールが道徳の源泉」というのを(専門家は)「倫理」と呼んで「道徳」特別するらしい。とすると却って、ワタシ自身の身の形成過程から考えると、倫理こそが身の無意識に刻まれたワタシの規範の源泉である。それがローカルのものではなく普遍的なことへと繋がるべきであるというのは、いろいろなローカルが交通し、ぶつかり合って調整が加えられ、その堆積から生み出されるものではないだろうか。

 80億人もいる人類からすると、80億通りの倫理が身に刻まれ、大雑把に国民国家的に地域分けしても200余のローカルがあり、それらが互いにぶつかり合って共有する「なにか」があるとか、「なにかがあるのがのぞましい」という観念が共有される。それが「普遍」だとすると、普遍というのは、永続革命の果てに夢見るあらまほしき姿である。悲願であり、それがある地は彼岸である。

 カントはその哲学を通して「神を殺した」といわれている。だが、キリスト教的な唯一神の幻影に呪縛されているように見える。そのカントさんからみると、ローカルなセカイで身に刻んだものを「仮言命令」と呼ぶかも知れない。だが、ヒトの生成と径庭を自然存在として考えると、世界宗教的な普遍性を彼岸において、でも間違いなくローカルそのものの人類史を歩む航跡こそが、身の心も一つにして生きている「人生批判」の視座なのではないか。

 ローカルこそが普遍というパラドクス。人の頭脳というのは、理知的に言葉にするから、パラドクスを生きることを必然としたのであった。 

2023年5月20日土曜日

専門家ってなあに?(2)わが実践人生批判

《市井で遣う「専門家」とは、「その道での知的権威」というほどの意味である》と書いた。これでは、随分補足条件が付く。「市井で遣う」場合って何か。「その道」って謂うのは、どのレベルか。

 こんなふうにいうと、どうだろう。空間に於ける自分の位置を表現するのに、住所表示で表す。路地や車道もあれば、大通りや幹線道路で道筋を説明することもできる。一丁目、二丁目という行政区画で示す方が判る場合もある。だが市町村単位とか都道府県という大きさが必要な場合もあれば、国民国家単位やもっと大雑把な広域地域を用いる方が歩いている道筋の研究対象によって有効なケースもある。つまりいつ、何処で、誰が、何のために、誰に対して居所を尋ねているのかによって、応じ方は異なる。「専門家」と呼ぶにしても、その人やその研究に、誰が何処に身を置いて「知的権威」を認めるかによって、流動的である。

 市井の民が「その道での知的権威」を認めるのは、その人の関心の在処と傾け具合に応じて、定めがたい。そう考えると、いかにも判った風に「専門家」ということばを遣うことが可笑しい。だが、時と場合と人とによって流動的である「概念」を、いかにも共有しているかのように用いることによって、ワタシたちの内心の多様性とか差異の些末にこだわらずに言葉を交わし、思いを交わしている。それが人なのだ。それが、言葉なのだ。

 ところが言葉を交わす毎に、その微細な違いを意識の次元で捉えることによって、みている世界の違いや拠って立つ感性や感覚の差異が浮き彫りになり、「違い」の次元が明らかになる。それは、人それぞれの感性や感覚、身に刻んできた無意識の壁がつくっているイメージや思索の次元の違いを鮮明にすることになる。それによって逆に、相互の意思疎通を深めることにもなる。神は微細に宿るというのは、こういう動態的事象をさしていると私は思っている。

 つまり市井の人の「知的権威」とそうでない人の端境は、制度化されている「肩書き」と違って曖昧模糊としており、「権威」という言葉に含まれる「上位-下位」の優劣すら分からないものである。市井の民は、知意識的な次元で「知的権威」に敬意を感じているとしても、実は市井の民の身からほとばしり出る言葉が知意識的な次元とは異なり血意識的な鮮烈さをもっていて、「知的権威」を揺さぶるということも案外多いものだ。

 人は、なぜジブンがそれに「権威」を感じるのか判らないままに、知的なものに畏敬の念を抱き、血的な反応に嫌悪を抱いたりする。そこには、社会的な制度とか時代的な気風の作用がある。それが言葉を覚え振る舞い方を身につける過程で、周りの大人たちから、あるいは同世代の取り巻く環境からいつ知らず伝えられ、わが身に刻まれてきている。

 だから、わが身そのものが、自分でもワカラナイ不可思議のセカイとなっている。それを解き明かす必然性は、人の暮らしにはないのかもしれない。その根拠が判らなくても暮らしていけるからだ。だが、わが身の裡の不可思議セカイを感じると、そこに人類史が堆積していると感じられる。わが身のそれは、仮令一端であっても、紛う方なく全人類史のひとつである。しかもそれは、人類だけでなく全生命体の歩んできた35億年の過程の集積的現在である。

 わが身の裡の不可思議を見つめる目が、ヒトがどこから来て何処へ向かっているのかを問う専門領域の「関心」と同じ知的興味につき動かされ、ひょっとすると同じ地平をみているかも知れない。そう思うと、ただ不都合なく暮らすだけではなく、ヒトが抱くようになった好奇心につき動かされてヒトのクセを精一杯発揮していってやろうじゃないか。それは面白そうだと、ワクワクする。これはワタシの現在。

 市井の民が「その道の知的権威」と地平を同じうするには、「その道」を「わが道」に位置づけることだ。先に、市井の老爺であるワタシは「人生80年の実践人生批判」を生きてきたといった。つまり当事者である。「わが人生」の専門家である。「人生批判」というと、人生に異議申し立てをするように聞こえるかもしれないが、そうではない。わが身の感性や感覚、好みや選好、思考・思索・判断が何を根拠にそうしているのかを考えること。つまりわが身の生きてきた形跡を振り返って、わが身の現在のそれらを対象として見つめ言葉にすること。それを「批判」と呼んでいる。そうして意識化することは、間違いなく当事者の、身に堆積した全人類史の探求である。

 こうして、当事者として位置づけたとき、門前の小僧は、ありとあらゆる専門家の知的好奇心の成果をわが身のこととして「研究」対象とすることができる。もちろん「専門領域」の境内からみると、ワタシのそれは門前の小僧の振る舞いであるが、でもそれによって怯むことはない。「わが道」としてはまさしくワタシが生きてきた「実践人生批判」として屹立するところだと感じているのである。 

2023年5月19日金曜日

専門家ってなあに?

 昨日の本欄、「専門学者たちは人の言説を一つひとつ住所登録しながら、歩一歩とコトを進めるから、つねに根拠に遡ることができる」と勢いに任せて書いた。だが、専門学者というのも、もっと子細に分けることができるし、誰が誰に「専門家」というのかと口にするのかも、組み込まなければならないと、友人の指摘で考えた。

 友人は「あなたは生徒の前で専門家でないと言えたのか?」と私に問うた。「もちろんそう問われれば、私も門前の小僧だと応えたであろうけど・・・」と応じて、そう言えば教室の生徒は私を知的権威とみていたなと振り返った。

 現役教師であったときの私は、「教師-生徒」関係が「指導-被指導」として成り立つためには「教壇の高さがなくてはならない」と象徴的に口にしていた。生徒が教師の権威を認めていなくては、生徒は授業の間机に付いていることができないからだ。でも子細に考えてみると、生徒が教師の何に「権威」を感じるかは、小中高という学齢によっても違うし、子ども関心の置き方によっててんでんばらばらである。

 だが概ね高校生ともなると、知的権威に関心を傾けてくる。教師が身に堆積してきた「知識」がそれ相応の言葉に乗せて繰り出される。日々積み重ねられ繰り返される知的資質を受けとりながら、生徒は教師のそれに権威を認めたり、逆らったりする。高校生と言っても、学校毎に通う生徒の知的関心の層は異なるから一概には言えないが、概ね私が身を置いた高校では私の「知性」に敬意を表してくれたから、先に述べたように「門前の小僧」であることを公言することはなかった。

 だがもし生徒が「先生は今教えている歴史の専門家ですか」と問えば、「いい質問だ」と応じて、門前の小僧だと思うに至ったワケを話したであろう。そう振り返ってみると、「専門家」というのも誰が誰にそう問うのかによって応え方は違ってくる。高校の生徒が問うのは「教科の専門家」であろうか。世界の歴史の専門家はすっかり地域毎、時代毎、あるいは政治や経済、文化などの主題に分節化されている。高校の教師は「世界史」という教科にするとジェネラリストである。世界の通史を総覧して紹介する。謂わば各地域の関係の変遷を大雑把に摑み、そこで展開された事実の由来と根拠を加味しながら観てきたように話す講釈師である。その段階では「知ること」、すなわち「知識」の多さが「知性」と受け止めている。

 だがそうした関連本を読んでいると、事実に関するデータの多さよりもその由来や変遷の推移をとらえる「論脈」や「歴史哲学」が底流していることに気づく。統治権力争奪の正統性をもっぱら記すのが「正史」の伝統であったが、視点を庶民に置いて記すとか、統治と反統治の争いという次元ではなく、人の暮らしの中で紡いできた習俗や風説、民話ということに焦点をあててその推移を目に留めるというのは、専門家ならずとも関心を傾けることができる。そういう人生観というか世界観というか、物の見方にかかわる視線の鋭利さを「知性」というのではないかと、「知識」からの離陸のときに感じていた。つまりそういう関心を持って人の辿ってきた航跡を眺めると、判らないことを知ることより、ワカラナイことを判ること、般若心経に謂う「無無明亦無明尽」こそが、知性の神髄であり、にもかかわらず生きている限り、知り尽くそうと関心を傾けることが知性の動態的在り様の正しさだと考えるようになった。

 言うまでもないが私は歴史を専門にしてはいない。入口としては経済学であったが、やはりそれも門前の小僧。哲学や倫理学、心理学や精神分析学などのどれもこれも入口ばかりを覗いて、境内に入ることなく市井の老爺になってしまった。人間論だけは身を以て踏襲してきたが、「人間学」と言えるような、古今東西の関連する知的蓄積を住所登録して歩き、その先の一歩を刻むというレベルにまで高めてはいない。まあ言うなれば「実践人生批判」を終生行ってきたと「イワレタイ」と、雨ニモマケズを気取って思っている。

2023年5月18日木曜日

生成AIは庶民

 生成AIの「進化」が著しい。わずか半年で一挙に広がった。検索から文章作成、画像や音楽に至るまで、プロの仕事を取って代わるかもしれないと弁護士や新聞記者、大学の教師らも、本気で位置づけを考えはじめている。新聞もTVの番組も、この生成AIをどう使ったら、人間の下僕にしておけるかを検討しているように見える。

 レイ・カーツワイルが、AIが人間を超えると2045年のシンギュラリティを提起したのは(調べてみると)2005年、それを10年ほど遅れて私たち庶民が耳にし、コンピュータが人を越えると言ったって所詮人工物の範囲じゃないかと、人の知恵を最高位に置くことにためらいはなかった。ところが、2045年より20年以上も早く、生成AIが人並みの言葉で当意即妙に応答する。レスポンス(応答する)というのがレスポンサビリティ(責任)の語源と思っていたが、この生成AIはもちろん責任はとらない。今日(5/18)の新聞でもこう書いている。

《回答する過程がブラックボックスで、なぜ間違えたのかわからないという問題も残る》

 なんだ、これって、私たち庶民と同じじゃないか。私らも、なぜ自分がそう感じ、そう思い、そう考えるかを、いちいち根拠を明らかにしているわけじゃない。

 専門学者たちは人の言説を一つひとつ住所登録しながら、歩一歩とコトを進めるから、つねに根拠に遡ることができる。実際、引用の出典を明記して先へ進む。だが私たち庶民はことごとくについて門前の小僧。井戸端会議であり、世間話。耳学問、流言蜚語の吹き溜まり。何時、誰が記した何からの引用なんぞはどうでもいいじゃないのと、気に入ったことを身の裡で繋いで、自分の思いや考えを繰り出している。

 言葉で言えば、ワタシはブラックボックス。生まれおちて後の人類史的に遭遇する環境のことごとくを身の裡に堆積させ、その感性や感覚、好みや危険察知感覚をベースに、世界を感知する「こころ」に集約し、言葉にして日々おしゃべりに興じている。大宇宙の向こうの方と同じように、身の裡のブラックボックスは、ワカラナイ不思議世界だ。

 とすると、生成AIがブラックボックスだと誹ることはない。ふつうの庶民と同じ、ただ、当意即妙であることが、いかにも「物知り顔」をしているから、ついつい騙されてしまう。これも、TVに登場するコメンテータと同じようにみていれば、いいじゃないのと思う。たしかに入力されたことは忘れないという才能は、動物的である。それらを総合して繰り出してくるというのは、いかにも優秀な人間のようである。だが、全くの刷り込みによると考えると、情報統制された北朝鮮の人たちとか、厳しく制約されたロシアの人たちと同じ「可能性」もありうる。オレオレ詐欺の番頭が仕込んだ生成AIだと、案外上手く行くとほくそ笑んでいるかもしれない。驚くことじゃないよね。

 ヨーロッパ各国が生成AIを禁じたり、制約を国際的に取り決めようというのも、大雑把にみていると随分せこいことを考えてるんじゃないかと思えてくる。そもそも知的所有権というのを勝手に決めて、おカネがなければ使えなくなったというのも、可笑しい話だ。別に中国の肩を持つわけじゃないが、もし知的所有権というのなら、先ずヨーロッパは、羅針盤や印刷術や火薬の使用権をきっちり払ってから、云々しなさいよと思う。

 日本だってそうだ、って話をどこかで聞いたことがある。日本が中国に知的所有権の話を持ち出したら中国側から、漢字の使用権はどうするの? と問われて、沈黙したって、落語のような遣り取りだった。

 ヨーロッパが知識人を上位においている。これも権威主義じゃないか。中国の権威主義的資本主義をリベラル資本主義が批判しても、私たち庶民からすると目くそ鼻くそを笑うような話だ。似たり寄ったり、科学技術という人類史的成果に特許権という制約を掛けて、カネを支払う特定人類しか使えないようにしてしまった。それでいて、環境破壊だ、気候変動だと、あたかも人類全体が罪深いことをしているように言うのは、ちょっと違うんじゃいかと、ワタシのヒト感覚は訴えている。

 そうやって考えてみると、生成AIは、やたら記憶力がよく、情報総合力のある庶民の一人ってことじゃないか。なんでそう考えるの? って重ねて根拠を問うと、どう応えるだろうか。ブラックボックスです、って言うのだろうか。

 マイクロソフトのAI、copilotに問いかけたことは先日記した。「あなたは経済の専門家です。失われた三十年を回避するために行うべきであった構造改革とは何でしたか」と問いを投げかけると、「私は専門家ではありませんが・・・」と始まる回答が打ち出されて感心した。謙虚だからというのではなく、いかにも耳学問で情報を収集総合した庶民ですって感触が、よく出ていると思ったわけ。それにこの生成AIには、読み込んでいる情報の出典(?)が、「日経デジタル、プレジデントonline、yahoo」などと表示されていた。たいしたものだ。

 面白いのは、問いかけるとすぐに応える。さらに問いを重ねると、それにも応じる。この遣り取りは、まるで人と言葉を交わしているように思える。ワタシの狭い世界にどんどん嵌まっていくような危うい感触と狭い世界を開いていくように見える生成AIの情報収集範囲が、アンビバレンツなワタシのセカイを表しているようで、面白いと感じているのかもしれない。まず自問自答する自己対象化の作業が唯一生成AIに勝るワタシの取り柄ってことかもしれない。

 生成AIと付き合うには、思考スタイルの違う市井の若い庶民と話しているという距離がいいのかもしれない。

2023年5月17日水曜日

日本の『失われた三十年』から何を学ぶか(2)日本経済の構造転換って、なあに?

 2023/05/11のブログ記事に続けます。バブル崩壊に際して行うべきであった日本経済の構造転換とはなんでしょうか。マイクロソフトの「AI を利用した Web向け copilot」に再度こう訊ねると、日経電子版やプレジデントonlineなどを参照して、こんな応えが返ってきました。


Q:あなたは経済学の専門家です。失われた三十年を回避するために1990年代以降に日本が行うべきであった構造改革とはなんですか。

A:経済学の専門家というわけではありませんが、失われた三十年を回避するために日本が行うべきであった構造改革について、私なりに説明してみます。

  失われた三十年とは、1990年代以降、日本経済が低成長に陥り、国際競争力や生活水準が低下した期間のことです。この原因は、バブル崩壊後の金融危機や不良債権問題、少子高齢化や人口減少、グローバル化やデジタル化に対応できなかったことなどが挙げられます。

  日本が行うべきであった構造改革とは、経済の活力を取り戻すために、市場の自由化や規制緩和、イノベーションや新産業の創出、社会保障や税制の改革、教育や人材育成の強化などを行うことです。これらの改革は、企業や個人の競争力を高めるとともに、経済成長を持続可能にすることを目指します。


 見事簡略にまとめています。これについては、4/11に私が皆さんに送った「2023年5月28日(日)第傘期 36会seminar のご案内」に対するオオガさんからの返信が、さらに広く現情勢を捉えて的確に検証するようです。まずそれをご紹介します。

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 フジタさん/4月13日

 返事が大変遅くなって申し訳ありません。桜もすっかり萌葱色の葉桜となって、小庭の草木も冬を完全に征服したようです。夜は8時を目処に布団に入り、自然の夜明けに目を覚まされています。今朝5時の空は黄砂の影響が明らかでした。北京の空は日本の比でなく、孫の学校は昨日は休みだったそうです。

 フジタさんが出状したメールにトキさんやkeiさん等の返信が早速あったようで、当然、皆さんはフジタさんの至誠を判ってないはずはありません。トキさんの少しはにかんだ、申し訳なさそうな福顔が思い浮かびます。ミヤケさんから連絡がないのは気になりますが、暫くは、会合のあり方は変わろうともフジタさんに頑張ってもらわねば、会の品格?を損ないかねません。

 フジタさんから戴いたメールに対して、小生の異見はほぼありません。特にパンデミックは「天啓」と受け止めるべきとは全くその通りだと思います。このことを前提に、keiさんの素朴で至当なご下問のGDPについては、(たかがGDP、されどGDP)と考えることが大切だと思います。<うちらあの人生わいらあの時代>は戦争中の艱難辛苦を実感することもなく、戦後の高度成長期―バブル期とその崩壊に至るまで、分厚い中間層の真綿の中で、総じて心地の良い人生だったと言っていいのではないでしょうか。旧ソ連の脅威の無くなった世界に後進国であった中国をILOに引き入れ、正しくアメリカ一強の完成を図ったものの、裏目に出て鬼子を世に放ってしまうことになってしまいました。その中国が「中進国の罠」から抜け出ることができないままに、インドに人口で抜かれ、高齢化も進み、多分中国はアメリカをGDPで追い抜くことはなくなったでしょう。アメリカが世界の警察国家の旗を降ろし、中東を中心に世界が流動化して、いまや「サブサハラ」の国々も纏めて「グローバルサウス」なる是々非々の第三勢力の中心がインド。このインドはかっての宗主国である英国を22年にGDPで抜き去り、ドイツに次ぐ世界で五位となった。27年には日本、ドイツをも抜いて三位になることは確実。勿論人口が全てではないが、大きな要素であることには変わらない。くどくど記しましたが、GDPは日々の生活実感に直結はしないが、激動の時代にその中身を冷静に解剖しておくことは、次世代にバトンを渡す傘寿世代には欠かせないと思う。GDPは経済活動の結果の数値化であったとしても、弾け散るその中身は社会保障、安全保障、少子化対策、国土強靱化、エネルギー問題、文化、科学技術、等々日本人として生きてゆくあらゆるテーマに直結する。

 フジタさんの言われる資本家社会的市場経済は終焉しないでしょうが、特に日本においては経済社会構造のパラダイムシフトを指向する必要がある。サービス業も製造業も労働生産性を上げて、一定のインフレに耐えうる労働分配率を高めてゆくことは必要不可欠です。同時に今更ブータンではないが、日本の芳潤な伝統を活かし、日本に相応しいQOLを確立したいものです。

 フジタさんの言われるポストコロナ世界において、コロナを天啓として受け止め、この次世代に引き継ぐ<うちらあの人生、わいらあの時代>が今やるに相応しい36会を創り上げてください。名古屋の田舎から勝手放題を申しました。言い足らない点もありますが、関東の黄砂を気遣いながら、自愛されますように念じています。 オオガ記

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 オオガさんが(たかがGDP、されどGDP)と記したGDP。その一角を占める規制緩和やイノベーションについて、PRESIDENT Online(2023/05/15)の記事が目に止まりました。湯之上隆《技術者が「日本の半導体の凋落原因」として国会で陳述したこと》。筆者は1980年代に日立製作所において半導体の微細加工技術開発に従事していたが、日本の半導体凋落に伴って退職し、同志社大学の専任フェローとして研究生活を送ったのち微細加工研究所の所長を務めていて、一昨年国会に呼ばれて意見を聞かれた専門家。半導体については、中国との取引に関わる半導体のサプライチェーンの再編が政府で取り沙汰され、台湾企業の鴻海が熊本に工場を設置し、政府が何千億円かの支援をするとなっている。その前段の国会の聴聞でした

 子細はこの人の著書を参照して貰いたいが、彼が退職することになった日立製作所時代の半導体製造にみる「ガラパゴス化」が表現されています。世界の半導体生産に於いて当時、日本企業は世界トップ10社の6社くらいを占めていた。今は1社だけ。日本企業の半導体は大型の汎用コンピュータ用の半導体で耐用年数が25年と際だっている。ところが世界の趨勢は80年代半ば頃からPCの大量生産時代。耐用年数が5年ほどの、安く手軽に製造できる半導体に席巻された。なにしろ年々加速度的に技術が更新される世界。耐用年数が長くても、それを搭載する機器本体の更新速度が速いから、25年もの長期物は無用の長物となります。にもかかわらず、「世界に誇る技術」を切り換えることができず、日本の半導体生産は凋落していったというのです。この辺りは、半導体生産にかかわっていたと思われる、ツナシマさんやマサヒロさんに伺ってみたいものです、

 先のブログで紹介した岩崎博充の記事「日本人は「失われた30年」の本質をわかってない)」(2020/01/26東洋経済online)は、

《構造改革に対して消極的であり、積極的な研究開発に打って出ることができなかった。/日本はある分野では、極めて高度な技術を持っているのだが、マーケティング力が弱く、それを市場で活かしきれない。過去、日本企業はVHSやDVD、スマホの開発といった技術革新では世界のトップを走ってきた。しかし、実際のビジネスとなると負けてしまう》

 と経営面の弱さ、新しい趨勢を読み取る戦略的視野に欠けると指摘する。

 加えてそうした企業経営に補助金を出して、当面している問題を先送りする政府の業界支援策。株式市場には「PKO(Price Keeping Oparation)相場」という言葉があるそうな。政府が補助金で株価を保持することを揶揄する響きを(私は)感じるが、相場師たちがそれを揶揄っていたのかどうかは分からない。政界・財界・官僚が現状保守のスクラムを組んで、新しい芽を摘むことさえやってきた。それをガラパゴス化と呼んでいる。私には「島国根性」の代名詞のように聞こえます。

「日本の科学技術力も1989年前後には世界第3位だったのだが、2015年にはすでに第9位」と岩崎は指摘しています。別のonline記事では、「既得権益を守るために、IT乗り換えを潰した」とする事例が紹介されていました。ひとつは、堀江貴文のライブドアがフジTVやソニーの買収を企図したこと。それを政府、財界が寄ってたかって潰ししてしまったと。そう言えばホリエモンは、何かの会計不正で逮捕拘留されたんではなかったか。「もし(フジTVやソニーを任せていれば)ホリエモンなら、netflixやiphonの対抗機種をつくれていたかも」と期待を持ったことを記しています。あるいはまた、Winyという音楽や映画を無料でダウンロードできるソフトウェアの技術を開発していた金子さんという天才のことを述べている。「P2Pという技術、SkypeやBitcoinに使われている」技術だそうだ。その金子氏を微細な案件で逮捕して、これも潰してしまったと記しています。この真偽は検証していないが、なるほどそうまでして業界と現体制を護ろうとするのはよくある話とこれまでの長い政財官界史を振る返ると思っています。

 鋳物の鋳造に携わってきたイセキさんがseminsrで見せた「こだわり」に感じたことを記したことがああります(2021-8-21「36会第二期第12回seminarご報告(5)大自然への敬意が消えていた」)。そのとき私はもっぱら「自然」との関係で、彼の述べる「鋳物工業」を考えていたのだが、チラリと彼が零した言葉が頭の片隅をよぎりました。

「安けりゃいいっていうけど、どれほどの技術がその製品に籠められているか(発注元の大企業にも)みてもらいたいんだよね」

 そうなんだ。日本経済風土は、すっかり資本家市場経済脳になってしまっている。経世済民という語源の清新はどこかに吹っ飛んでしまった。そこそこ豊かな暮らしをしているバブル遺産の食い潰し世代は、それを忘れていますね。経済計算だけをして、技術もそれを担う技術者をも、海外へ駆逐するか、列島から消滅させてしまうっていうのは、「教育は百年の計」ということに相反している。だがそういうモンダイを誰も考えていないってことを慨嘆する言葉であったと、今思います。

 keiさんが「どう私たちの暮らしに関係してくるの?」という問いに応えるまでには、まだまだ距離がありますが、「失われた三十年」の日本人の体質には、だいぶ迫っているんじゃないか。やっぱり「日本人の不思議」と改めて思う次第です。

2023年5月16日火曜日

特別扱い

《外国人も「特別扱い」しない》と一面トップに大見出しをつけた記事が載った。朝日新聞(5/14)の1面と2面を使った「多民社会tamin shakai」という企画記事。群馬県大泉町にブラジル人を受け容れ、後にベトナムやネパール、アジア出身とその家族も加わり、今人口4万人の2割を占めるという。1万人ほどだ。「お隣の群馬太田市にも1万2千人の外国人が暮らす」とある。こちらの市は人口が22万人だから、比率でいえば5%というところだが、日本全国の2%に比べると各段に多い。大泉町はヨーロッパとほぼ似たような様相と言えようか。その大泉町の取り組みや抱える「共生模索の35年」を追っている。そのリードに「数年後には人口の1割になる」と、日本全国の問題として取り上げる記事。つまり読者であるあなたも当事者よって呼びかけている。

 これはseminarが2月来取り上げてきた問題と重なる。BBC東京特派員氏の「日本人の不思議」として提起したのも、なぜ日本人はガイジンを「特別視するのか」が発端。それに対して大泉町は「特別扱い」しないと臨んでいるという。だが、やっていることには、文化の違いを解消しようという細かい尽力がみられる。ゴミ出しのルールの外国語表記や日本語教育に力を入れ、「言葉が通じれば本人の努力で道が開ける」とみる。つまり「特別扱いしない」ということは、「特別に意識して気を配る」ことを介在させる。労働力としてガイジンを擁している企業も、一緒に交流するイベントを催して人々が言葉を交わし、文化の相違を身で感じる試みをしている。この経由点の、行政や企業や地域活動家の「特別に意識する」が実は、「外国人に適応を迫る」というだけでなく、在住している日本人も(外国人に)適応していく努力を必要とすることを意味している。

 従来、郷に入っては郷に従えと思ってきた。異質なガイジンを鬼神のように受け止めてきたから、何かワルイことが起こると異質なものの闖入によって引き起こされたと考えるのは、原始時代のセンスをそのままナイーブに押し出すだけ。畏れ敬うという次元を「振る舞い方の作法が違う」と受け止め、その違いを補正して行くには、これまでの伝統社会が保持してきた以心伝心の方法では上手く行かない。文化・振る舞いの違いを言葉にし、遣り取りを交わす場を設定して、ぶつけ合う必要がある。

 実は日本人どうしだって、そういう問題を抱えている。大雑把に言うと、伝統文化は気心知れた空間に住まう(立ち居振る舞いや作法を共有する)人たちが、(個々人の差異は当然にしてあるものだから)互いに頃合いを測りながら差異を察知して振る舞い方を調整する作法であった。大相撲の立ち合いのようなものだ。何度も仕切り直しをし、呼吸が合った所で立ち合いが始まる。

 苦言も直に言えば角が立つという伝統的対人作法は、それに相応しい場が設定されなければならないことを意味している。苦言を言い交わすということは、それに対する審級者を必要とする。身分社会の場合は、お上がそうであったし、街場に於いては長屋の大家がいなくてはならない。四民平等となった平場ではどうであったか。あるときまでは亀の甲より年の功が効き目があった。そう言って考えてみると、このあたりまでは権威主義社会であった。お上とか、大家とか、年の功と謂う権威が共有されていたから、そこにいる人達が審級者となって場をつくり、争い事を始末してきた。だが近代の民主主義社会は、その権威も取っ払ってしまった。

 近代というのは、そもそも異質な人たちが空間を共にして構成する社会である。狭い「くに/郷里」を出るだけでも文化作法の違いに驚いていた。近代社会になって列島中の人々の往き来が激しくなった。人々の気質も考え方も変わってきた。そこへさらにガイジンが参入する。呼吸を合わせて立ち合うという作法さえ知らないものがいても不思議ではない。

 さらにこんなモンダイもある。近代が進んだ都会地となると、法的規制が唯一の共通言語のようにみなされる。ゴミや騒音に問題を感じてお隣に注意をすると、逆恨みの逆襲を受けたという事件も起こっている。その発端は、どこにそういう法的規制があるのかということから始まっている。私有権では片づかない。「迷惑条例」を設える。でもそれに強制力が伴っていない。罰則が付いていても、お役所がそれを発動しない。発動しても、軽微な罰金だったらそれを支払っても、条例違反をして稼ぐ方が得だと居直る人もいる。政治家をみていたらよくわかるが、法に反しなければ何を非難されることがあるかと居直っている。あれが、他者モデルだ。

 争い事を街場で始末するには審級者がいるが、かつての長屋の大家は、いまや物件の所有だけ。お上は上意下達の機関としての町内会を利用するばかり。強制力はマイナンバーカードにしてから発動しない。ポイントでおカネをもらえるならマイナカードを登録しようかと欲得尽くで誘うだけ。国民の品性を落としている。国家がマイナンバーカードを使って一番有効に作動させたい収入の全量把握の、一番のターゲットである富裕層の人たちは、3万円程度の端金には目もくれない。やっと最後の切り札で「義務化」などと言いだしている。でも行政実務がお粗末で信頼性が全くない。使うにはつい腰が引けてしまう。事ほど左様に、日本の国家権力は富裕層に遠慮がちである。それに似通った地方政府が、強制力を発揮する力も持たされず、時と場合と人を見て居丈高になったり、知らぬ顔の半兵衛を決めこんだり、モンダイを先送りしてしまう。街場の異質さの争い事の場もつくらず、始末もできない。これって、法治国家なんだろうか。

 町内会も古くさいお祭りなどは仕切るけれども、新しく参入してくる市民に対しては、旧来の慣習に馴染んでくれと、空間占有の優先権を主張する。新規参入してくる方が「郷に従え」という。自分たちが変わろうとはしないから、揉め事の仲裁や調整には役に立たない。当然ギスギスする。町内会はお上の権威を背景に、「市町報」配布の下請けをしているだけだ。

 機能的な人と人との社会関係には、法規制以前に言葉を交わし差異を調整していく当事者としての関係がなくてはならない。それがコミュニティってものだ。どちらがイイかワルイか以前に、互いに言葉を交わして心地よく暮らして行くには、法的な規制に沿っているかどうかよりも、互いにどうしたらいいかを共に考えていくスタンスが必要なのだ。その場をつくるのがコミュニティである。

 以心伝心は、その気風がいわずとも共有される時代の言葉である。暮らし方が多様化し、人それぞれの好みが押し出されて当然という社会規範の社会では通用しない。バブル時代を経て豊かになった所為もある。共有していたはずの気風は雲散霧消した。そこへ労働力不足という産業社会(富裕層)からの要請もあって、ガイジンを入れざるを得ない。あとはでも、各自治体で頑張ってねというだけの国策では、奴隷労働じゃないかというガイジン労働者への非人間的な扱いが起こるのは当然と言えば当然。

 明治維新から155年にもなる。敗戦から77年にもなる。一億総中流も経験した。食糧ばかりか日用品まで海外製品に依存する暮らしをしている日本人が、相変わらず人見知りをして内気に閉じこもるのは、不思議である。それならブータンみたいに辺境の地にあってほとんど制限的にしか人の出入りがないような「国」にしてしまえばいい。ブータンは、経済的な発展と豊かに暮らすことのズレを意識して、対外的な交通を制限している。

 それなのに、インバウンド観光客の増加に期待を寄せ、大谷翔平の活躍をまるで日本人の誇りのように伝える。だったらいい加減日本人も、ガイジンという言葉を取っ払うほどに「文化大革命」をしてみなさいよと思ったりもする。それの第一歩は、自分たちの文化を一つひとつ対象化して、遣り取りする場を平場に設けるしかない。私が今手がけているseminarがその一つだと思ってきた。だが、先月から書き散らしているように、傘寿を超えた年寄りには、もう無理だとワタシは見切りをつけている。

 それともこれって、戦中生まれ戦後育ち世代特有の「国民性」なの?

2023年5月15日月曜日

選択的耳働き

 四国のお遍路をしていて国道や県道を歩くことが9割ほどだった。後の1割が遍路古道といわれる昔ながらの遍路道。大雨などで道が崩れて「通行禁止」になった古道もあった。あるいはトンネルが抜けるようになって古道はすっかり遠回りとなった所もある。標高差をクネクネと曲がって上り下りする車道をショートカットする古道もあった。それもしかし寂れ、うっかり入口の案内標識を見落とすと車の通る脇を歩かなければならなかった。案内標識があったからといって、そちらに入るとトンネルではなくその上の山を超える古道に入ってうんと遠回りになることもある。かと思うと、古道は尾根の向こう側にある次の札所に着くのに、車道を行くと山裾をぐるりと回り込んで3倍も遠回りになる。この見極めはネットで取得した地図では分からない。地理院地図をスマホに取得してルートをチェックしながら歩いているお遍路さんもいた。なるほどこうすると、「遍路道保存協会」の設置している標識が距離と静けさを示すガイドになる。

 できるだけ静かな道を歩こうとは思う。だが、毎日平均30kmで遍路プランを立ててあると、山道の古道に踏み込むには、それがどれくらい遠回りになるか摑んでおかないと、予約した宿に辿り着かない憂き目に遭う。中には徹頭徹尾遍路古道を歩く人もいる。こういう人は野宿をしている。古道には「遍路休憩所」と名付けた東屋が設けられていたりする。トイレもあり水も確保できる。風は吹き抜けるから、東屋の中でツエルトを被ったりテントを張ったりする。安上がりに遍路する若い人には有難い施設である。

 傘寿の私には、もうとてもそのような歩き方はできない。車道を歩く。それでもできるだけ静かな方がいいから、少々遠回りでも新しい道路よりは旧道を選ぶようにした。当てにしていないが、お遍路カフェもそんな道沿いにあったりして、面白い話が聞けたりする。とは言え、国道や県道の主要道を歩くことが多く、狭くとも歩道があれば有難く、ない所は道路脇に必ずつくられている排水路の蓋の上を歩く。時々感じる身の危険には、すでに触れた。でもそれ以上に「音がうるさくなかったのか」と聞かれた。

 それを振り返ってみると面白いことに、騒音にはすぐに馴れて、気にならなくなった。車の走り寄り走り去る騒音を、耳が危険を含めて取捨選択しているかと思うほど、気持ちにとどまらない。車自体もトンネル内のトラックとすれ違う危険を感じるような場合を別とすると、ほぼ意識に上げることなく、身の判断に任せてやり過ごしていたと思う。これは、耳の働きではないか。環境のすべてに意識を向けることなく、重要度というか必要度に応じて意識外へ追いやって、肝腎なことに気持ちを集中できるように働いている。有難い耳働きである。

 これが、家へ帰ってきてからの日常に生きていると思うことがある。私はいつごろからか、もうずいぶんになるから忘れてしまったが、リビングの広い食卓の半分くらいを占めて毎日パソコンに向かっている。十年以上にはなる。それ以前は私の部屋に籠もっていた。そうだ、2011年の3・11のときはその小部屋でPCに向かっていや。ぐらぐらっときて、本棚が倒れたらこれは大変だと部屋の入口に立って様子を窺ったことを覚えている。

 以来リビングで過ごしている。週に2日くらいは向こう側でカミサンがTVを観ている。ときどき「うるさくない?」と聞く。五月蠅くない。ボーッとドラマの筋を追いながらPCを打っていることもある。でもPCで書く中身に気が向かうとほとんどTVの音は消える。もちろん遍路の騒音よりこちらが先だった。こうした日常が十年ほど続いていたから車道歩きの音も気にならなかったのかもしれない。耳働きを鍛えていたってわけか。

 あるいはこうも言える。山歩きを瞑想と同じだといつか言ったことがある。意識は鮮明。足元の凸凹や岩場の足の置き場、手指の摑む所などは一つひとつ、本当に一挙手一投足の動きに気持ちが集中している。だがそこに、外のことは入り込めない。雑念を抱きながらそういう所を歩くと、ホントに思わず知らず転落することになる。そうして歩いていると、あっという間に時間が経ってしまう。2時間も3時間も歩いて、えっ、もうそんなに時間が過ぎているのかと気づいたことは何度もある。これは俗にクライミング・ハイとかウォーキング・ハイと謂われる状態ではないかと思うが、私はそれを瞑想だと思ってきた。

 集中していると、時間はすっかり空間に吸収されてしまう。もちろん躰のつかれも、その間は感じていない。それがあるから、すぐまた山へ行きたくなるのかもしれないと思ってさえいる。

 こうしたウォーキング・ハイの身の習いが、若い頃から積み重ねられ、仕事を辞めてからことに、時間の制約抜きに放浪するような山歩きをしてきたことで、耳働きまで鍛えていたってことじゃなかろうか。いや、うれしい発見であった。危険の感知さえも身の習いにできれば、もっと過酷な環境に身を置いても、生きては行ける。いまさらそんな必要も覚悟も要らないけれども。野宿のお遍路も、あと十日ほどのフィナーレを飾るには面白いかもしれないと思ったりしている。

2023年5月14日日曜日

ショータイムということ

 東京ドームへ「巨人-広島戦」を観に行った。雨の中、三々五々というより駅出口から列をなして押し寄せる。まだ試合開始の1時間前。知り合いから観戦チケットをもらった。カミサンは生憎、軽井沢の探鳥会の予定と重なった。探鳥地が雨になれば東京ドーム、と様子を窺っていたようだが曇りと分かって、私が友人と行くことになった。

 西武ドームの西武―阪神戦を観にいったのは、いつであったか。交流戦だから6月になっていたと思うが、西武ドームの屋根と壁の広い隙間から吹き込む風が冷たく感じられた。三塁側阪神ベンチの上の辺りにあった席で、ファール玉が飛び込んできやしないかと気をもみながら観戦した覚えがある。その時は明らかに試合を見に行っていた。

 ところが東京ドームは、試合の勝敗は二の次、ここに身を置いていることが面白いという雰囲気。まさしくショータイムであった。これは、何が違っていたのだろうか。

 試合は延長12回にもつれ込み、試合開始の14時から19時頃まで5時間以上をすごして飽きもせず、面白かったねえと話ながら地下鉄に乗って帰宅したのであった。巨人の逆転サヨナラホームランで終わったから巨人ファンは大喜びであったが、私は面白い試合を観たと思っていた。相棒は広島の出身。チケットの席は巨人ファンサイド。

 チケットには「ロイヤルウィング・バルコニー席」とあった。相棒が事前に調べた所ではと話してくれたことだが、年間契約になっているロイヤルの中央部席は300万円、一塁ベース辺りまでと、内外野を分けるポール辺りまでと230万円、170万円とランクがあるらしい。巨人のホーム戦は年間65試合だから2席セットのその料金は46000円ほど。貰ったというが、外野寄りのバルコニー席だって1席13000円ほどだよと驚く。ワンドリンク付きのビールが一杯では終わらなかったのは、貰った席料が無料ってこともあったかもしれない。

 バルコニー席からは球場全体が見渡せる。55000人定員のドームの特定箇所の席を除いて概ね埋まっている。声援も鳴り物も制限解除になったから応援はラッパも含めて賑やかである。それ以上に、外野席の上を覆うディスプレイとその音量は、音というよりも響きである。ずんずんと躰に伝わって身の奥底から会館が引き出されてくる。何日か前に観た映画館に感じた快適さが甦る。そうか、映画館も、あの画面、あの音量、あの響きがともなって感じられているのだ。野球も、同じ。全体が見渡せる高見から観ているのはベースボールゲームに違いないが、それにまつわる声援、選手の一投一打、捕球と送球、走塁とアウトセーフの判定など、進行する一挙手一投足に5万近い観衆のあげる溜息や応援、ときに一瞬の静謐。これらの間を埋めるように、ディスプレイ画面が移り変わり、繰り返され、大声のジャイアンツ応援のメッセージが流される。

 西武ドームで何年か前に観戦したのは、間違いなく野球の試合であった。派手な解説もなかった。だが東京ドームは、野球ゲームを観ている人たちが参加するショータイムとして構成されたエンタテインメントである。そう思うようなつくりであった。

 観ていて、私自身の野球を見る目が変わってきたのかと思うような気もした。どちらが勝つか負けるかはどうでも良い。選手のプレイの動き、身のこなし。優れた体幹の俊敏な動きが球を捕り傾く躰のままに送球してアウトを取る。見事なファインプレイ。かと思うと、駆け込んだ一塁がセーフとなったのに対するビデオ判定の要請。その瞬間の内野手のベースタッチと打者の駆け込みのどちらの足が早くベースに着いたか。繰り返されるビデも画像。ほんの一瞬早く野手の足が着いている。塁審のセーフの判定が覆る主審の手が上がる。途端に湧くわーっという声援。ゲームの進行にかかわるきわどい動きばかりではない。イニングの変わり目毎に位置に着く野手が、キャッチボールを何度か繰り返す。それが攻撃イニングに動かなかった躰を緩やかに動きモードに変えていく、身体技法のようにみえてきた。

 これらも、ご贔屓チームかそうでないかと敵味方分類をしてみていた野球ゲームを、明らかに人の身のこなしとしてどれほどの水準に達しているかを観て愉しむというレベルになっていると、後で思った。これは、近頃の大リーグ中継TVの大谷効果とでもいおうか。解説の仕方が、ゲームの勝敗はそっちのけにして大谷の振る舞いや選手としての身のこなし・技法に関心を向けていることに影響されているのかもしれない。

 地下鉄で帰る途中、乗り継ぎのホームに広島ファンのシャツを着た5歳くらいの男の子と8歳くらいの姉を連れたお父さんがいた。「残念でしたね」と挨拶をすると「いい試合でした」と返ってくる。男の子が広島の一番バッター菊池の赤シャツを着ている。「菊池のファンなんだ」と声をかける。「打てなかった」とチャンスにヒットが出なかったことを口にする。「でも2安打もしたじゃないか。よく打ったよ」と慰めて別れた。この子たちの目も、変わってくるのだろうか。

2023年5月13日土曜日

相変わらず

 公安委員会から「お知らせ」のハガキが届いた。運転免許証更新に必要な「認知機能検査」のお知らせと表書きしたある。圧着したあるページを開けてみると、《集合日時、検査場所、検査手数料、持ち物など》が記されている。

 相変わらずだなと思う。毎日が日曜日のような私でも、このところ飛び飛びであるが「予定」が入っている。来週だけでも、野球観戦、歯医者、ワクチン接種、勉強会、ストレッチ、知り合いの来客と6つも入っている。もちろん一つひとつは短時間で済むこともあるが、勝手に変えられるものではない。それなのに、「○月○日○時○分、○○警察署に集合」と決めつけてくる。呼出状だ。「免許」を授けているという居丈高な姿勢が相変わらず「お上」だなあと思わせる。そう言えばドラマでも、「公安」というのは「刑事捜査」を問答無用で押さえつける役回りをしている。絵に描いたような「お上」である。

 国土交通省の退職上級役人が民間の事業に天下りすることを相変わらずやっていて、組織ぐるみだと新聞が報じている。報道は「公務員法違反」と言っているにもかかわらず国土交通大臣は「違法とは言えない。再発防止に努める」と平身低頭だ。与党の傍流政党の大臣だからなのか、イヤそうじゃあるまいとわたしら庶民は心裡で読み取っている。彼らは、相変わらずなのだ。彼らだけではない。私らも相変わらずなのかもしれない。この相変わらずが積み重なって(無意識の)身の習いとなり、変化が必要な状況に接しても身を固めて縮こまってしまう。

 そうだ、これだ、と思った。失われた三十年の「日本人の不思議」は、相変わらずを心地よしとしてきた日本人の無意識が、ガイジンに対する斥力を強く働かせ、見知らぬ都会人が移住してくるのを「都会風を吹かすな」ととらえ、抑も1980年代の経済隆盛の折にも科学技術の振興には力を入れたものの、その基底部分を大きく培う所へまでは思いが及ばず、1985年のプラザ合意で(アメリカからの要請に応えて)円高ドル安へ舵を切り替えるときにも、じつは産業構造を高度消費社会向けに切り換えていかねばならないのに、一つひとつの産業部門への補助金とか融資とかでジャブジャブと資金を投入できるようにして、構造転換を図るのではなく、延命措置を施す。結局遊ぶ資金を不動産に向け、バブルの崩壊を引き起こした。これも、「相変わらず」のなせる業であった。イヤそれ以上に、、そういうことは当時から指摘されていたのに、政界・官庁・産業界の鉄のトライアングルが「相変わらず」のまま出合ったが故に、ますます狭い状況適応的・場当たり的な弥縫策を講じて問題を先送りするだけになってきたのではなかったか。無責任の体系と丸山真男に言わしめた日本組織の特性が、本当に身に染みこんで抜けなくなっている。一人一人が、その構造の下で無意識に染みこませて人柄を形成するから、それが何世代も通じて国民性になってきた。「お上」のすることを「しょうがねえな、奴ら」と思いながらも、直にワタシに振る掛かる災厄になるまでは、「知らぬ顔の半兵衛」を決めこむ。それが庶民ってものよと気取っている。気が付いたら傘寿になってわが身を守るのに精一杯。後に続く世代に全部ツケを回してしまうことになった。「後は野となれ、山となれ」って、山歩きの好きな私ならそれでも構わないが、子や孫に山で暮らせ、海で生きよとは育ててこなかった。

 そう考えてみると、山で暮らし海で生きるとは、ワタシたちが子どもの頃に見た風景ではないか。宮沢賢治の「雨ニモマケズ」が「サウイフモノニ/ワタシハナリタイ」と言ったこと、そのものではないか。「帰れない山」のブルーノが「山で牛を飼って暮らしたかっただけなのに」といったのと、同じではないか。ワタシたちはそれを忘れて、別の夢を見て走っているんじゃないか。目を覚ませと、コロナウイルスが呼びかけ、異常気象が扉を叩き、失われた三十年が如実となって人類史に問いかけている。そう思えてならない。

2023年5月12日金曜日

日本の『失われた三十年』から何を学ぶか(1)先ず指標の確認

 3月seminarの「日本人の不思議」が不評でした。参加の皆さんの関心外であったようだ。それについてこの欄の2023-03-28の記事「seminar進行者の心得べきこと」で一つ、こう反省しています。

    《keiさんから「GDPが増えたら私たちの暮らしにどういう変化が生まれるの?」という疑問が提示され、特派員氏の取り上げた日本の経済的停滞をもっときっちり考えてみようという提案もあった。これも30年史を振り返るときに、いきなり社会的な当事者問題に飛び込む前に共通認識としておくべき客観的事態であるように思った。つまり、【返信4】と【返信6】にあったオオガくんの指摘する日本社会の当面している事態を、事実関係だけでいいから押さえてすすめる必要があった》

 世情「失われた三十年」と謂われている事実だけでも共有してから話に入るべきだったと考えたわけです。そこで先ず近頃流行のAIに訊いてみました。GAFAMの一角、マイクロソフトの「AI を利用した Web向け copilot」は、こう答えてきた(冒頭のナンバーは引用者がつけた)。

   *

     失われた三十年とは、日本経済がバブル崩壊後の1990年代初頭から低迷を続けた約30年間のことを指す言葉です。この期間には、以下のような経済指標の変化がありました。

    1、名目国内総生産(GDP):1990年に2.4億ドルだったのが、2019年に5.1億ドルになりました。米国は3.5倍、中国は37倍になったのに対し、日本は1.5倍にとどまりました。

    2、国民1人当たりのGDP:1990年に1.9万ドルだったのが、2019年に4万ドルになりました。G7中6番目の低水準でした。

    3、平均賃金:1990年に3万6748ドルだったのが、2020年に3万8514ドルになりました。この30年で日本は4.4%増とほぼ横ばいだが、米国47.7%増、英国44.2%増、ドイツ33.7%増などと差は大きいです。

    4、貧困率:1990年に11.6%だったのが、2018年に15.7%になりました。主要国では高い方でした。

    5、消費税率:1990年に3%だったのが、2019年に10%になりました。

     以上のように、失われた三十年は経済成長や所得水準、格差問題などで他国に大きく遅れをとる時代でした。

   *

 要領よくまとめています。でも、AIは事実をも間違えると言いますので、東洋経済onlineの「経済ジャーナリスト・岩崎博充の記事(2020/01/26東洋経済online、日本人は「失われた30年」の本質をわかってない)」が指摘する事実項目を参照しました。次のように9箇条をあげています。


    ●平均株価(日経平均株価)……3万8915円87銭(1989年12月29日終値)⇒2万3656円62銭(2019年12月30日終値)

    ●株式時価総額……590兆円(1989年年末、東証1部)⇒648兆円(2019年年末、同)

    ●ドル円相場……1ドル=143.4円(1989年12月末、東京インターバンク相場)⇒109.15円(2019年12月末)⇒134.83(2023年5月)

    ●名目GDP……421兆円(1989年)⇒557兆円(2019年)

    ●1人当たりの名目GDP……342万円(1989年)⇒441万円(2019年)

    ●人口……1億2325万人(1989年、10月現在)⇒1億2618万人(2019年、11月現在)

    ●政府債務……254兆円(1989年度、国と地方の長期債務)⇒1122兆円(2019年度末予算、同)

    ●政府債務の対GDP比……61.1%(1989年)⇒198%(2019年)

    ●企業の内部留保……163兆円(1989年、全企業現金・預金資産)→463兆円(2018年度)


 この両者の「名目GDP」には、1990年と1989年、ドル表示と円表示の違いがありますので、ドル/円相場も調べてみました。1989年は1$=138円、1990年は1$=144円ですから、AIも間違えてはいないようです。因みに2019年は1$=109円。2023年現在の1$=134円は、1989年に近いですね。

 もう一つ違いがあります。東洋経済の経済ジャーナリストは株価や政府債務、企業の内部留保金に目をつけていますが、AIは平均賃金、貧困率、消費税を拾って、経済格差に目を留めています。keiさんの「わたしたちの暮らし」を組み込むと、AIの示す指標も大切になります。

 AIは海外先進国との対比をしているのに対し、経済ジャーナリストは日本の国内指標だけです。でも本文中で海外との対比をして云々しています。そこを簡略に拾うと次のように書いています。

《アメリカの株価がこの30年で9倍…ドイツの株価指数もざっと7.4倍になっている》

《世界経済に占める日本経済のウェート●1989年……15.3% ●2018年……5.9%、その凋落ぶりがよく見て取れる/アメリカのウェートは1989年の28.3%(IMF調べ)から2018年の23.3%(同)へとやや低下/中国のウェートは2.3%(同)から16.1%(同)へと急上昇/新興国や途上国全体のウェートも18.3%から40.1%へと拡大》

 つまり、名目額でみると「国内総生産は順調に伸びてきたかのように見えるが」この30年間の世界経済の成長規模に照らすと、日本の停滞は際立っているというわけです。

 そう言われて考えてみると、今傘寿を迎えている私たち世代が還暦の定年を迎えたのは2002~2003年。まだ「失われた十年」でしたから、十分バブル時代の余韻に浸っていました。それが実は、日本経済の構造的転換を押しとどめる役を果たしていたのだと、21世紀になって指摘されるのでした。(つづく)

2023年5月11日木曜日

不思議に手が届かない

 今日も映画を見に行った。この五月に公開された『銀河鉄道の父』。宮沢賢治の父を主人公に賢治が創作に踏み出した航跡を辿って、生きた時代の気配を取り出している。宣伝チラシに書かれるような「家族愛」とみると平凡な作品。だがそこからどう飛躍するかと思ってみると、だがちょうど昨日のイタリア映画『帰れない山』の残像と重なって、ちょっと面白い発見があるかもと期待した。

 長男が家業を継ぐという時代風潮がある中で賢治に教育を受けさせる父の視線は、明治という時代の、新しいコトに挑戦する気配を身に混在させている。映画はその父の子である賢治とトシ兄妹の不思議世界への飛翔がトシの死によって中断されたことを契機に、父親が主体となって(賢治の世界を)読み取る世界となり、父の微細な変わりようが不思議世界への扉に手を掛ける時代の変化。父を主人公とみるとここでお話は終わる。

 だが16歳の賢治が青年になっていく大正時代の日本はWW1(第一次世界大戦)の勢いを得て(国としては)世界の一等国になっていく調子づいた時機であり、社会的には所謂デモクラシーという文化的な変化を迎える時代であった。適応せざるべからずという気風があったのか、父親が息子賢治の世界を追う(継承流転の物語としては逆転した)姿が描かれる。

 子どもの頃から宮沢賢治の作品を読んでいた私は、異世界へ入っていく彼の語り口に強烈な印象を抱いていた。誰が書いたものか彼の評伝を読んで、小学校の教師をしていた頃、野原に児童を連れ出ていて、何かのインスピレーションに取り憑かれてか子どものことを忘れて異世界へ入り込んだとイメージが広がってわが心裡に沈んでいた。この映画ではそういう異世界は描かれない。

 賢治がトシの死に際して狂気のようにホッケの太鼓を叩くシーンが差し込まれている。だが、これもなぜ、宮澤家の浄土真宗を捨てて、かくも深く日蓮宗に傾倒していったかは、読書遍歴と現世利益の、仄めかされるほんの欠片のような僅かのイメージでしか示されていない。

 賢治が、創作以上に力を注いでいた土地の改良や暮らしの改善のために働いていたと思われるが、彼が農民の暮らしを軸に据えてヒトの生きるということの意味を問い始めた過程も実は余り描かれていない。彼がチェロを何時どこで弾くようになったのかもわからないまま、集まった農民の大人や子どもたちが彼の作詞した歌を、彼の弾くチェロ似合わせて歌うプロットが描かれる。これは「帰れない山」の山に籠もる一人の主人公ブルーノの姿を彷彿とさせる。「帰れない山」はブルーノの幼い頃からの友人がその父親の思いを受けとるとともに見届ける運びを物語にしている。だがこの「銀河鉄道の父」は、その息子が腰を据えようとした原点を父親が感知し見届けるお話であった。

 その辿り着いた地点に置かれたのが、「雨ニモマケズ」。賢治の末期の枕元で父が訥々と詠いあげる「雨ニモマケズ」は、父・役所広司の声音に伴って観るものの心に響く。土地を改良し田を耕し畑を起こして食べものをつくって暮らしていくしかない農民を原基に据えてともに生きるようとする賢治の願いが、諄々と静かに伝わってくる。

   ……

  アラユルコトヲ

  ジブンヲカンジョウニ入レズニ

   ……

  東ニ病気ノコドモアレバ

  行ッテ看病シテヤリ

  西ニツカレタ母アレバ

  行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ

  南ニ死ニサウナ人アレバ

  行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ

  北ニケンクヮヤソショウガアレバ

  ツマラナイカラヤメロトイヒ

   ……

  サウイフモノニ

  ワタシハナリタイ

 ヒトが生きる基底はここにあるぞと賢治が発見し、明治の前半期に生まれ日本の近代化と共に市井の民として生きてきたその父が、子を亡くして永久に心裡に刻むしかない形で受け継いだ神髄。それが映画「帰れない山」のモチーフと重なるのであった。父親が「宮沢賢治全集」を手にして映画は終わるが、「ほれ、手にして読んでけれ」と世の中に受け渡しているように見えた。

2023年5月10日水曜日

無近代の「帰れない山」

「あれはきっと、あなたに合っている」とカミサンが友人から紹介された小説を映画化したイタリア映画『帰れない山』(監督・脚本:フェリックス・ヴァン・ヒュルーニンゲン、2022年)を観た。久々に面白かった。同名の原作小説はパオロ・コニェッティの著作。

 このところ私が縷々書き綴っているワタシを主題化したような物語。というより私が、そう読み取ったのかもしれない。いろんな切り取り方があると思うが、二人の主人公のうち一人が「山に小屋を建て牛を飼って暮らしたいだけ」と呟いて山に引き籠もりになる。もう一人が「人生の中心に須弥山という高い山があり、周りに八つの山がある。そのどちらに上るのが(人の生き方として)いいか」と問う。前者が須弥山に登り、後者が八つの山に登っているという設定。須弥山に籠もるのを許さないのが近代の社会システムとそれに適応して生きるしかない人々の関係。私は後者を生きており、ワタシは前者を心深くに抱いて(思えば遠くへ来たもんだ)と呟いている。

 こうも言える。後者はヒトが人間として生きる姿、前者はヒトとして生きる「自然(じねん)」の姿。今私たちは、人がつくりあげた人工的関係の中でヒトとしての原基を忘れている、と。映画は、しかし、気づいていないだけで、原基を失っては生きていけないとも語ってみせる。崩落した山小屋を土台から建て直す。石を組み上げ、素材をロバに積んで運び上げる。その営みのことごとくがヒトの手によることが如実に描かれる。それが逞しくも楽しいと感じている二人の関係を浮かび上がらせる。ヒトが生きることの基底を為している営みは忘れるようなことではなく、身の深くに沈潜し無意識となり気づかれないだけだというようである。さらにそれは父子の相剋、母子の包摂、夫婦の関係をも重ね合わせ、イタリア・アルプスの山の景観とトリノの街の喧騒を対比的に舞台にして、時代相を表現する。須弥山をとるか八つの山をとるかという択一の話ではなく、ヒトは人に包摂され、親から子へと受け継がれていく。人類史そのものが描かれている。それを忘れているのは近代の暮らしそのものに浸っているワタシである。

 ワタシは、私自身がなぜ山に惹かれ登り続けてきたのかという問いを反芻しながら、壮大な景観を身の裡に感じている。つまり近代の暮らしの恩恵に浴してほくほくしている私を、ヒトとしてのワタシの身が、それってどこか間違ってるんじゃないのと訴えているような感じがしているのだ。

 それと同時に、『〈戯作〉郁之亮御江戸遊學始末録』の作者の記した《自称「小説」謹呈の御挨拶》の「無近代」を重ねてイメージしている。この作家・鈴木正興こそ「山に小屋を建て牛を飼って暮らしたいだけと呟いて山に引き籠もりになる一人の主人公であり、それを時代や人生にマッピングして喋喋しているワタシは八つの山を経巡る私なのだと腑に落としている。

 どんな切り口を以てしても、面白く見えることができる面白さを湛えていた。見終わって駐車場の入場チケットを見たカミサンが急いで車に向かった。3時間無料の時間が迫っていた。なんと上映時間はコマーシャルを含めて2時間40分にもなっていた。随分と尺を気にしないでつくられていたんだと、これにも無近代を思った次第である。

2023年5月9日火曜日

他者と失われた三十年

 3月seminarの「お題」でBBC東京特派員・ヘイズ氏の「日本人の不思議」を取り上げた。彼が日本駐在中の30年間に日本は大きく様変わりした。1990年代初頭にはバブルに沸き「ジャパン・アズ・ナンバーワン」を自認していたのに、30年後のいまや先進国から滑り落ちようとしている。人口減少という事態も明らかに分かっていたのに、外からの人を受け容れようとしない。これを不思議として、なぜなのかと問うたわけだ。

 このseminar展開については3/27と3/28の当ブログ記事に記している。これは不評であった。ほぼ参加者の皆さんは、この「お題」に関心を示さなかった。「そんなこと、お前に言われたくないよ」とか「イギリス人よ覚えておけ!」という(ガイジンに対する)感情的反発の声だけが大きく、なぜそう反発するのかに踏み込まない。福井県池田町の広報誌に掲載された「池田暮らしの七ヶ条」についても、そこへ移住してくる人に「都会風を吹かすな」という池田町住民の警鐘にもまるで心当たりがないかのように、「何で殊更そんなことを取り上げるのか。公平じゃない」と、その話題自体が不愉快というあしらいを受けた。

 あっ、何か私が大きな勘違いをしていたんだ。これじゃあseminarじゃないよねと私は店じまいを考えた。

 このヘイズ氏の「日本人の不思議」にワタシなりの答えを出したいと思ったのが、一昨日から書き記している「2%の世間話」と「原風景と時代の変化と年を取ること」である。概ねこの二つのエッセイを書いて、不思議を解き明かしたつもりになっている。

 つまりヘイズ氏の問題意識に波長を合わせて応えるなら、こういう風に言えようか。

 日本人は長年、その地勢的な特徴から囲われた地で、見知った人々と以心伝心と言っても良いような気配の中で暮らしてきた。それはたぶん、異質な人たちやまるで文明文化が違う集団と日々接して緊張を保つ欧米人が暮らしてきた環境とは大きく異なっていた。

 先ず主語を頭に置いて自らの意思を表明することが優先される欧米の言葉遣いとも異なる。主語が曖昧、状況適応的、場の空気に合わせるという日本人の振る舞い。島国根性と悪口を言われることもあったが、海が防壁となって、方言を含めて似たような言葉を話す人たちとしかかかわらないで一生を過ごしてきた人たちにとっては、知らない言葉を話す人たちをガイジン、つまり他者として心許せない(かもしれない)人たちと警戒心を抱くのは、ごく自然である。

 その感覚は逆に、つねにグルーミングをして同調共感を共にする振る舞いを生み出しもする。自分が今身を置いている場の空気を読んで、それに適応すること。自分の意見を言葉にするよりも場の気配を察知することが優先される。そういう関係に於いては、同調性の感情や共感性の感覚が心裡では常態となって身に染み付く。それが無意識の身をつくる。身の習いとなり、それがまた心地よいという身の習いを再生する。空気を読むとか気遣うという他人との関係を感知するセンスが振る舞いの基底にいつも流れていて、それがまた日本の文化の固有性をつくっている。他人は他者と違って、ベースを共有している。

 だからこそ逆に、他者(=異質な人やガイジン)に接したとき好奇心も湧くと同時に警戒も生まれる。好奇心と警戒心は、見知らぬ相手に向き合う心持ちの裏表。好奇心は主として見知らぬ人がもつコトの異質性に目を向けている。警戒心は見知らぬ人の(推しはかることのできない)心裡を畏れている。知らないことを歓迎もしたいが掻き乱して貰いたくないというアンビバレンツな感情が生まれる。

 見知らぬ存在が親和的か敵対的かという次元で向き合う物語は、民話でも語られてきた。鬼であったり神であったりする。それは身の習いとなった「気配を察知する」ことの及ばない鬼神の領域、異界である。人はそれを自然と読んで畏れ敬ってきた。私たちの暮らしの源泉であると共に見知らぬ災厄をもたらす力を揮う。そうした両義的な自然に取り囲まれ、安逸に暮らすのを、広い世界の側からみて「島国根性」と名付けた。水と安全を只だと思っている安穏さを茹でガエルと誹る人もいた。

 だがお気楽に暮らすのを誹られては、人は何のために生きているのかさえ、疑いたくなる。日本に暮らす庶民大衆が茹でガエルになったことを誹るよりも、その暮らし方を護る為政者や政治機構の方を指弾するべきではないのか。のほほんと生きる庶民を非難するセンスこそが現代国際政治の混沌を示しているように思えてならないと、いま振り返って思う。

 しかし高度経済成長を遂げ、ジャパン・アズ・ナンバーワンと呼ばれる国際的位置に身を置いた日本の政治家や財界団体や企業経営者が、相変わらず「島国根性」の根っこを身に染みこませていて日本的経営の優秀性に得意然とし、1990年代以降の構造改革に乗り出そうとしなかったことは、不思議と言えば不思議。身の習いといえば無意識の躰の習慣が露呈したと言えるのかもしれない。ここに目を留めたエッセイが、BBC東京特派員氏の「日本人の不思議」であった。

 バブル崩壊後の、所謂「失われた三十年」の一つの要因が、この「日本人の不思議」にあるというヘイズ氏の直感は、私に言わせると当たらずとも遠からずに思える。それについては、この後折を見て一覧するが、問題はバブル時のような日本になった以上、島国根性に居直って「同調性の感情や共感性の感覚」でやっていくことは適わなくなった。それらがどれほど「他者」を意識させ、その後、異質性を組み込む関係作法として人々の身に染みこんだか。いや、それを怠ったからこそ、いまだに外国人を「ガイジン」扱いし、「池田町の七ヶ条」を発信するような所業を続けることになっているんじゃないか。取り敢えず、そう思っている。

 でも愚痴っているんじゃない。むしろ日本は今というかここ30年間、大きな転換に迫らる事態になっていると思う。それが実行できないのは、「日本人の不思議」に大いに関係がある。加えてコロナ禍で、それを切実に感じる。都会に人口が集中しすぎている。人口減少に直面している農村も、変わっていく必要がある。それには、うちらぁの人生、わいらぁの時代がつくりだした経済一本槍の思考様式を変えることも含めて、ちょ面している問題を直面する問題を、長期的な視野で以て一つひとつ取り上げて、考えていくときなのではないかと真に思う。(つづく)

2023年5月8日月曜日

原風景と時代の変化と年を取ること

 世間話のグルーミングを「心地悪いと受けとっている私のワタシをいつも感じる」のは、なぜか。そこに気づいた「もう一つ次元の違うところの私固有のワケがある」とは、何を指しているのか。

 ヒトは、置かれた関係に於いて変わる。ワタシのメンタルな安定点も移ろって構わないと思うようになった。若い頃は、どうしてこうも定まらないのだろうと、モノゴトに向き合ったときのジブンの判断の揺れ動きに不甲斐なさを感じていた。雑誌を彩る評論家たちの言説がきっぱりとした決断に満ちあふれているのを読んでは、この人たちは知識を積んでこう言えるようになってるんだと羨望の目で見ていた。それはしかし、ヒトや世界を実体的にみていたんだといつしか考えるようになった。関係的に見ることによって、身も心も移ろうということを受け容れるようになったのは、20代の半ばだったろうか。

 その頃わが身に起こった衝撃的な心の震えを忘れることができない。結婚して近所の家具屋でいくつかのものを買った。ソファが運び込まれてきたとき、動悸がひどくなりなぜか心がざわついて落ち着かなくなり、梱包が解かれる前に返却を申し出てそのまま持ち帰って貰ったことがあった。どうしてあんなに動揺したのか、その後ずうっとワカラナイままに棚上げしてきた。

 そうして半世紀以上を経て今、それに一つの解をみている。ソファを買った私の意識が、子どもの頃の身に刻まれたワタシを裏切っている。その落差を埋め合わせる覚悟も観念も持ってないよという躰の反応が、心の震えになったと思う。結婚という新しい暮らしに、それまでの生活様式を変えるってことは、よくある話。だがそれには、ただ単に外見的な形が変わるってことだけではなくて、それまでの暮らしの中で躰に染みこんでいる身の習いが、その外見的な形の変化を「自然(じねん)」として受け容れる移行過程が欠かせないのだろう。それに気づかないまま、アタマが切り替わっててもカラダがついていかない。その落差が心の震えとなって現れたと思う。「自然(じねん)」として受け容れるというのはアタマの意識、即ち観念である。

 それに気づいたのは、四国のお遍路。昨年は15日間で「飽きて」しまった。御朱印を貰って次の札所へ歩くお遍路が、なんだか馬鹿馬鹿しくなってイヤになったのだ。後で気づいたが、ひどく疲れてもいた。毎日平均26kmを歩くことに身が耐えられなかった。ところが今年、「嗚呼ワタシは信仰心がないのだ」と二つ目の札所で気づき、(私にとっては)札所のスタンプラリーでいいのだとカンネンしたせいか、19日間のお遍路を毎日30km平均で歩くことができた。歩くという躰の無意識に依存する行為が、ワタシのカンネンに大きく連動している、心身一如だと感慨深く私は受けとっている。

 これを少しく一般化すると、こんなことが言える。身の外部である時代の様相の変化にどう適応してゆくかというとき、ワタシの無意識である躰が何を身の習いとしてきているのかを等閑視できない。ジブンが何に固執し何を安定点と感じているかを意識の表層に浮かび上がらせることなくしては、ワタシのこだわりや傾きに気づくことなくすっかり人柄になってしまう。加えて、年を取るほど身も心も意思も融通が利かなくなる。

 ヒトは安定感や安心感、心を落ち着かせる気配を包む目に見えない領界を持っている。心地よく感じる気配の端境は、若い頃には薄く弾力がある。それが新しい体験に適応し、身の裡から噴き出してくる好奇心に応じて動態的に広がり深まっていく。けれども年を取るにつれて端境の薄膜は身の習いが積み重なって定着し弾力を失ってしまう。頑固になり、交流範囲も狭まり動態的関係に身を置くことが少なくなる。居心地が悪く新奇なことに適応できなくなる。新しい事態に付き合うのがメンドクサクなる。私自身がそうなっていっていると感じるし、私のほぼ同年齢の友人たちを見ていると、本当に感覚が凝り固まって頑固になっている。ことに現役時代を社会的に高い地位で自信に満ちて過ごしたヒトは、外の言葉が耳に入らない。池袋で車の運転をして死亡事故を起こした「上級国民」のように。

 そんなことを言ったのにはワケがあります。それについては、また次回にしましょう。(つづく)

2023年5月7日日曜日

2%の世間話

 世間話って何だろう。井戸端会議、茶飲み話、世間話と知り合いと挨拶のように交わす言葉の遣り取り。お天気のこと、健康・体調のこと、身近な人の様子や動静、噂話など、知り合いとの関係を保つのに意味のある振る舞い。グルーミングと動物学なら呼ぶであろう。交わされる言葉よりも、そのときの立ち居振る舞い、声のトーン、タイミング、リズム感、遣り取りの響きのもたらす体感が、コミュニケーションを司っている。

 ということは、寄り集う人々の無意識が交わす「関係」が、その遣り取りに現れるってことか。ヒトとチンパンジーのDNAの相違は約2%といわれる。ヒトのコミュニケーションの大部分、98%が外の動物たちと似たようなものであっても不思議ではない。というよりも、人が交わす言葉は、残りの2%なのだから生物学的に総体としてみれば動物と大差ないといえるが、もっとも遅く動物と分岐した2%こそがヒトとしての身体感の全体を統括して立ち居振る舞いを差配しているわけだ。

 言葉もそうだが、その展開である社会的文化の諸形態・諸様相、序列・規範・秩序・制度やそれらが醸し出す誇りや妄想も、2%とは言え積年の死に代わり生き代わりして身の習いにしてきた。それらの無意識に定着させている立ち居振る舞いも、言うならば無意識の交わす「関係」に顔を出す。

 だからなぜそのような世間話をするのかは、当人はもちろん、それを見て解析する人にもワカラナイ。それを分析してコレコレコウだと説明することも、2%のもたらした観念や思念、あるいは身体感の然らしむるところである。つまり分からないことを手探りでああでもないこうでもないと、堆積した人類史の航跡に思いを致して愉しんでいるのだ。学者の専門知も、全人類史や全動物史、全生物史に位置づけてみると、単なるヒトのクセに過ぎない。2%の世間話と大差ない。

 その世間話が、私は苦手である。それは、自らの身体感の深くに沈んで無意識となっている身の習いが、一体どのような由来を持っているのかと自問自答しようとしてきたワタシのクセ。その仕業である。躰の無意識に無頓着な振る舞いに、身の裡がざわざわと騒いで落ち着かない。ジブンの振る舞いにだけかというと、そうではない。ヒトの振る舞いのコトゴトにジブンが映し出される。ヒトの無意識の振る舞いに感じる違和感は、ワタシの無意識が私の意識世界に浮き上がってくる瞬間である。

 その時に感じる違和感をその人にぶつけるのは、明らかに筋違い。でも世の中を見ていると、この筋違いを口にして差別したり怒りにしてぶつける人たちの何と多いこと。その振る舞いもヒトの無意識のなせる業だと思うと、嗚呼この人はエライんだと受けとる。

 ちょうど何年か前に池袋で車を暴走させて歩行者母子を殺した「上級国民」と呼ばれた高齢運転者のことを思い出す。頑として自分は間違っていない。車がワタシの操作を聞き入れなかったと言い張った。彼は、ジブンを鏡に映してみたことがなかったのではないか。自分に対する自信が、母子を殺してしまったことをも別次元のこと考えさせてしまうお粗末。車に問題はなかったと判明してからも、「だとすると申し訳ない」と他人事のように謝罪するのをみると、世間話に露呈する無意識の「自信」「確信」「安心」「安定」は、ただ単にワタシのセカイだけを全世界と言って憚らない「慢心」「傲慢」と同じじゃないか。ワタシだけが良ければ他のヒトがどうであろうと関係ないという我利我利亡者の世界観ではないかと、トランプ元米大統領の#ミーファーストを重ねている。

 こうしてワタシにとっては、世間話が世界を捉えることとひとつになる。ただ単なるグルーミングとみるのは、考える次元をヒト相互の関係の調整的視点から眺めているだけ。それは、語りかける一方のワタシとアナタの関係の身の裡を満たそうとする振る舞い。それに応答するグルーミングの言葉も、世間話を受けとる他方がワタシとアナタとの関係を調整する言葉。それを心地悪いと受けとっている私のワタシをいつも感じる。それがワタシの世間話が苦手な理由だ。

 そうだから、それを一つひとつ俎上にあげて、わが身のこととして無意識を掘り起こし、とりあえず意識の俎上に浮き上がらせる。そうしていて、もう一つ次元の違うところの私固有のワケがあると気づいた。それはまた後に記しましょう。(つづく)

2023年5月5日金曜日

日本国憲法の精神て何だ?

 3日は憲法記念日であった。相変わらずなのか、中身が少しは変わっているのか、9条を守るというのに、「議論なき9条」と朝日新聞は見出しをつける。どうして議論がないのか。とっくに現実政治は「敵基地攻撃能力」に行っているのに、「歯止め形骸化の危機」ととぼけた心配をしている。とっくに「形骸化」しているじゃないか。それどころか、行政が立法を領導し、もはや立法を片隅に押しやって与党がすっかり行政府になってしまった格好だ。こんな状態に於いて「歯止め」なんていうのは、お飾りとしての憲法という現役政治家の常識に気づかないフリをしているのかな。この日本国憲法で育った私たち戦中生まれ戦後育ち世代は、「憲法」って国の基本法じゃなかったんだ、単なる近代国家のお印なんだと、今更ながら学校教育で刷り込まれた憲法概念の根拠を問い直したりしている。

 日本国憲法を「変えるか否か」世論調査をした結果らしいが、変えない方が良い55%、変える方が良い37%とグラフを交えて記事にしている。だが、「世論」の気分の推移を知って、何がどうだと言いたいのだろうか。そんなことより、何を根拠に「世論」がそう変わっているのか、それは近代民主国家の理念や概念をどう揺るがしているのかを考えた方がいいんじゃないか。そう思ってしまう。

 コロナウイルスのパンデミックが、まずグローバリズムを痛撃した。ヒトって可笑しいんじゃないか? と天の声に聞こえた。つまり国民国家の仕組みだけはそのままにして生産と交換の市場経済をグローバル化しようってのは、とどのつまり資本市場の優勢な人たちのご都合に合わせて世界を席巻しようってコトではないのかと、疑問が突きつけられた。それに対する答えは出されていないよね。往来の途絶もワクチンの開発自体も国民国家市場経済単位だったし、そもそもCOVID-19に対する対応対策を国際協力をすることさえできなかった。これは、当時のアメリカの大統領トランプの所為って言うより、トランプに代表される資本家市場経済システムの我利我利究極形態の然らしむるところだった。つまり喧伝されてきたグローバリズムの装いが剥ぎ取られ、国民国家単位の我利我利が力関係を併せて剥き出しになった姿だ。グローバリズムの装いって言うのは、資本家市場経済の交換システムは武力の行使によらず、交換市場に於いては皆対等平等で公平っていう理念だ。だが公平じゃない。平等でもない。交換市場に於いてはカネの力がついて回る。カネさえあれば平等で公平という条件付きだったってコトをついつい忘れている。

 理念てそういう条件つけて打ちたてるもんじゃないよね。

 とすると何かい? 最初に「国富論」を示したアダム・スミスってヒトが提唱した自由主義市場経済ってのが、条件つけるのを忘れてたってコトかい?

 いやいやそうじゃないよ。アダム・スミスは、抑もは倫理学者。彼の頭の中には、当時の社会常識であったキリスト教的倫理感に満ちあふれていた。ほとんど空気のように無意識に潜在していたから、態々条件をつける必要もなかったというか、思い及ばなかったわけさ。でもすぐにその資本家市場経済の化けの皮は剥がされた。弱肉強食、優勝劣敗の現実がイギリス中を覆った。富というかおカネの有無が力関係の源泉、それを文明の差異を超えて調達してきて市場に放り込むには、文明の衝突を辞さない力業が欠かせない。それをバックアップしたのが後の国民国家となる近代国家の原初形態、帝国だったわけだ。

 マルクスが下部構造・上部構造と動態的な作用序列をつけたが、資本家市場経済がそのシステム単独で動いたことなんかなくて、恒につねに、帝国や国家権力とともに、究極のところでは武力と共に歩調を合わせて歩んできたってワケさ。だから世界大戦とその後の冷戦に至るまで、基底部分には経済的競争が横たわっていた。社会主義は上部構造で補填できると考えていたようだったが、結局、独裁制による強権支配しか道が残らなかったね。神が死んだ後の近代的理性優先の頭でっかちが先行して、おおよそヒトの世界の自由闊達な姿とはまるで違った世界を創り出してしまった。

 では自由社会はそうじゃなかったか。理屈で見ていると、あたかも資本家社会システムが独立して公平平等なカンケイを築いてきたかのようにみえる。それを理念化して、経済的競争なら平和で公平で対等と、力の強い者の統治的立場に身を置いて専門家たちが喋喋してきただけ。力の無い私たち庶民は、1990年代初頭までの、一億総中流高度消費社会までは浮かれていたが、その後はすっかり社会が優勝劣敗になってしまって、コロナウイルス・パンデミックで気づかされたってことだね。

 そのコロナウイルスで目が覚めたのか、気が触れたのか、プーチンの戦争が始まった。これでついに、WWⅡの戦後世界政治体制は完璧に崩壊した。思い返すと、日本国憲法は、WWⅡに対する人類史的反省が「憲法」という形に盛り込まれたものであった。GHQ民政局の若手研究者が、命令を受けて僅か1週間で仕上げた草案であったが、そこにはアメリカ本国ですら実現していない人類史的叡智を結集した民主的条項を含め、何よりも「戦争放棄」という人類の悲願を盛り込んだ。その教育を、後の口さがないナショナリストは「押しつけ憲法」と狭隘な概念で誹ったが、その教育を受けた私たちにとっては、人類史の築いた理念として身の裡に染みこんできた。それがあったから、現実社会の不条理も、非合理も、未来に向けて克服すべき課題を浮き彫りにしているようにみえ、たぶん男女平等も、最低限の文化的生活の保障も、現実生活においてきっちりと実現させてきた(と思っている)。

 その戦後体制が、プーチンの戦争ですっかり損なわれ、見る影もなくなってしまった。どうやったらウクライナの戦争が収まるか、まるでワカラナイ。ロシアが和平に応じる地平は、どう考えてもウクライナが認められる地平ではない。いやそればかりか、それを認めたら国民国家の独立性さえ、強権国家の意の儘にして良いという結果にしかならないから、核を持たない追随国家はその領域さえ保障されなくなる。ウクライナばかりを応援して他の紛争地域を無視していると非難されても、ウクライナの戦争の落ち着きどころは、直に追随国家の存廃にかかわる。

 ここでの本題に接続してまとめると、もはやWWⅡの人類史的反省などは蒸発してしまっている。いや、だからそれを忘れて現在の問題に向き合えといっているのではない。WWⅡの人類史的反省が、1990年頃まで生き残ったのは、冷戦が、何が人類にとって正義かを世界に問う形で命脈を保ってきたからである。だが、トランプの登場に見られるように、いまや正義は我利我利の#ミーファーストになりつつある。バイデンの装うタテマエもいつまで持つか頼りない。つまり人類は、WWⅡで(日本やドイツが負けたことによって)垣間見えた「反省」という共通理念を、失ってしまった。

 どうやってこれを立て直したらいいか、見回す限り政治家の顔が浮かばない。学者たちもどういう理念を打ちたてて世界をイメージしているのか、私は知らない。ただ、庶民のワタシたちが、どうこの世をイメージするかが問われていると自問自答するのであれば、カクカクシカジカと描き出せるかもしれない。もう専門家にも頼らず、ワタシらで暮らしの欠片を拾い集めて、土台から立て直しをするかと思案した憲法発布76年でした。

2023年5月4日木曜日

ハレの葬儀

 叔父が亡くなった。厳密には叔母の連れ合いなのだが、叔父と呼ぶ以外の呼び方を知らない。昭和2年生まれの96歳。大往生と言ってよいと思う。ふくよかな顔つきと躰でカラオケが得意。人の話に耳を傾ける静かで開放的な気性もあって、人当たりは柔らかい。比翼連理とはよく言ったもので、同い年の叔母も静かな気遣いの人。おおよそ大阪のおばちゃんとは思えない品のいい穏やかな人柄、子どもがいなかった所為もあって、甥姪にもよく声をかけて往き来が多かった。似たもの夫婦と言うが、何十年も夫婦でいると佇まいが似てくるのだ。

 亡くなって振り返ってみると、触れ合った回数はそんなに多くない。たぶん記録を取っていなくても、子どもの頃を別とすれば、お爺さんお婆さんの葬儀や法事、私の父母や父方叔弟妹である叔父叔母の逝去や法事で出合って言葉を交わす、あるいは私が実家に帰るときの往還についでに立ち寄ることがここ30年くらいの間に何度あったか。そのたびに文字通り旧知の間柄をぽいと飛び越えて、昨日別れて今日またあったような気分で言葉を交わす。それが血のつながりという身に刻まれすっかり無意識に落ち着いている関係感覚の御蔭だ。磊落な叔父が私の父が亡くなった三十七年前に瀬戸大橋の建設工事に土木屋としてかかわり、海の底にケーソンを掘り橋脚を支える土台を築く話などをしていたのは思えば、彼が定年で引退したばかりではなかったか。私は技術的な面白さに惹かれた感触を覚えている。

 たぶん従兄弟姉妹たちともそういう機会に顔を合わせ言葉を交わす程度の往き来であったが、叔父の葬儀を機会に顔を合わせ、私と同じように年を取っているのに、昔の呼び方で○○ちゃんと言ってしまうのを少しも可笑しく思わないで口にしてしまう。年を取ったことを含めて近況を交わす。個が人もいたことを初めて知ったり、孫が生まれたばかりという一回り年の離れた従兄弟のスマホの写真を見せて頬を崩すのを見て、そうか、まだそういう年かと改めてこちらの高齢を思う。それも、叔父叔母と甥姪の関わりの御蔭である。

 態々遠方から来てくれたと礼を言う叔母の、耳や目がまだじゅうぶんしっかりしているのに驚き、そう言えば父方の祖母は101歳まで長生きであったと思い出す。棺を花で埋め尽くし(これでお訣かれです)と言おうとする葬儀司会の声を堰き止めるように、叔父の顔に手を添えて叔母はおいおいと声を出して泣く。しばらく泣きたいだけ泣かせてやってよというふうに、取り囲んだ皆は静かに見守る。

 いやじっさい私は、この歳でこのように別れを惜しむ夫婦の姿を見たことはない。先に比翼連理と言ったが、子どものいなかったこの二人は、じつに仲良く過ごした。叔父が退職後は海外へ何度も脚を伸ばした。5年ほど前に千里の居宅を引き払って二人してサ高住に引っ越す世話をした姪は、海外旅行の写真がタイトルつきで百冊は超えていたと言うから、百回は行ったということか。「今度な、モン・サン・ミシェルへ行くんよ。一番行きたいおもうてたとこ」と声を弾ませていたのは80歳を超えてたんじゃなかったか。そういう姿を見ていたから、叔母の泣く姿を、そうか、こういう夫婦の歳の取り方もあるんだと感嘆してみていたのであった。

 こうして、通夜と告別式と骨揚げと初七日を済ませて帰ってきた。突然の2日間の、しかも連休中に伊丹空港近くのホテルに泊まり、慌ただしく過ごした。身の奥底から関わりが噴き出して、原点と現在とを軽々と結びつけるハレの時間を過ごしてきた。

2023年5月2日火曜日

デキゴト・ハイク

 朝新聞を読んでいたカミサンが「大高取山って行ったことある?」と聞く。「いや知らないなあ、どこ? それ」「越生だって」。というので地図を取り出して調べてみたら越生駅から歩き始めて越生駅へ戻ってくるルートがある。新聞は「越生アルプス」と名付けて市の観光協会が売り出し中というもの。連休にどうぞというワケか。約4時間。じゃあ行ってこようと電車に乗った。

 9時には歩き始めていた。いくつもルートがあって、どれを辿っているかスマホでチェックしながら登山口へ入り、かなりの急登をずいずいと上る。やはりまだ脚の筋肉が戻っていない。疲れる。途中で三人追い越した。ストックを出したのは急登が終わる頃。バランスの悪くなった高齢者には四輪駆動が矢っ張り心強いと思いながら、1時間半。大高取山に到着。英語でおしゃべりしている女性ハイカーが二人。静かにしてくれよと思うが、もちろん言わない。

 ここから桂木観音まで尾根を縦走する。ここまでは車道が通っていて展望台が設えられている。この車道を辿り途中で山道に入って尾根上を辿って越生駅へ向かう予定だった。ところが、小学生の集団が、クラス毎であろう、3,4組に分かれて上ってくる。先頭の教師らしいのが「こんにちは」っていうもんだから、後に続く子どもたちが、こんにちは、こんちは、ちわ、と五月蠅い。それに気を取られていて、山道へ入り損ねた。地図には、その下にも越生へ抜ける山道があるように記されている。車道をショートカットする道に入り込み抜ける。ところが、出た車道が地図の車道とは違うようだ。

 ちょうどそこへ軽トラがやってきた。運転していたお年寄りに尋ねると、「山の帰りかい? 何処へ帰る?」と聞く。「ん?」とは思ったが東上線の駅名をいうと、「越生駅じゃなくてその二つ坂戸寄りの東毛呂駅の方がわかりやすい」と教えてくれた。ま、いいか。こうして東毛呂駅に着いた。行程3時間余。

 軽いハイキングだったなあと思いつつ電車に乗ろうとしたら、スマホと一緒にポシェットに入れていたパスケースがない。なんてことだ! 落としたのだ。これまでにも二度、そういうことがあった。一度は北海道の山を歩いたとき。紛失届を出して、クレジットカードなどを再発行して貰った。もう一度は、サクラソウ自生地を歩いたていとき。この時は、ないことにすぐ気づき、歩いた行程を戻って落ちているのを見つけた。これで、三度目だ。

 東毛呂駅には駅員がいない。外のタクシーの運転手に交番の場所を尋ねる。隣の駅にあるという。電車でそちらへ行き、駅前交番で「遺失物届」を出す。受付番号を記したカードを出し、見つかったら入間警察署へ取りに来ることになりますがいいですかと聞かれ、よろしくとお願いして駅のホームに上がり帰宅の電車待ちをしていた。と、スマホの電話が鳴る。越生の交番からだ。落とし物が届いているという。もちろんすぐに取りに行くと返事をして、下り電車に乗った。

 届けを受けた東毛呂交番はすぐに近場の交番などに「遺失物届けが出た」ことを、私の連絡先電話と共に流したのだろう。すでに落とし物を受け付けていた越生交番が私に電話をしてきたってことか。いや、良かった。

 越生交番は駅から1㌔ほどの距離にあった。受付カードと引き換えにパスケースを手にすることになった。何と落ちていたのは、まだ登山口に入る前の街中。拾ってくれた人は「お礼など要らない」と名乗らずに立ち去ったとお巡りさんは話してくれた。いや、本当に良かった。二度あることは三度あるというより三度目の正直と言うべきか。

 拾った人の正直? いやいやそうじゃないよ。私がすっかり末期高齢者になったってことの正直な表出ってことよ。

2023年5月1日月曜日

「ささらほうさら」の源流(7)常識派

 さて、ここからが「顕現する世界」の本題。昨日の作家・鈴木正興の《『〈戯作〉郁之亮江戸遊学始末録』に添付した《自称「小説」謹呈の御挨拶》で本作品以上に興味深い台詞》の《……結局その抗弁の勢いに気圧された常識派の方の自分が寄り切られ、「勝手にさらせ」と匙を投げてくれた御蔭で内訌は収まり……》が示している「(1)この作家の全生涯」が、私のワタシに鋭く突き刺さってくるのです。

 この小説の第一段で郁之亮が御江戸遊學に向かう出自と条件が描かれている。武家の「冷飯食いの三男坊」、「自らの性向自体も何ぞの組織や枠組みに組み入れられるのを良しとせぬ傾き……父や兄の如く藩の禄を食む処世の道は真平御免」、「この土地、この家系にあってが少しく破天荒」と勝手に生きよという条件を由来を含めて縷々述べる。そしてさらに自然環境に言い及ぶ。「空の紺(あお)、地の緑(あお)、そして地平の縁辺で両者を画する山々の青(あお)、まさにあおに彩られた広闊さ」を披瀝する。

 この既述は、実は江戸時代の風景叙述というばかりでない。私たち世代、戦中生まれ戦後育ちの幼い頃に見て育った風景である。身に染みこんでいる。遠くに離れて「ふるさと」を感じる。言葉を換えれば「原風景」なのだ。しかもこれをこの作家は「あおによし」と総括表現し、おっ、と読者のするすると読み進めた歩調を立ち止まらせる。

 そうか、そうだったのか。それでこの郁之亮の家名が「奈良」氏なのか。しかも棲まう所を「下奈良」と称する。何ともにくい仕掛けではないか。大和の文化的伝統を背負う血筋、それも遙かに遠く時代を経て「下」に位置していると設定する。もうこれだけで、この作家の全人生がすっかり身に染みこみ堆積する無意識と共に投げ出され、さらにそこから遙か遠くへ来たもんだという予感を組み込んでいる。

 この予感を感知すると、この後の展開がことごとく現代批判と読み取れる。というか読むものの視線にいつもワタシを映す鏡が現れて自問自答を余儀なくさせる。むろんワタシがこの作家と原風景を共に見ているという感触がそうさせるのだが、それはなつかしさと共に、身を裏切って普遍世界へ離陸しようとしてきたわがタマシイの原点を身よと迫る厳しさをもっている。「戯作」と銘打つ。「面白ければ良い」と、中華文明の古典を繰り出しながら駄洒落にまじえ、西欧文化を引き合いに出して揶揄う。普遍に離陸なんて言ってないで身柄ともども列島を捨て去って放擲してしまいなと呼びかけているような物語りの先行き。これは手厳しく私の小市民性に突き刺さってくる。

 郁之亮の遊學始末録は、この作家の原風景にはじまって妄想の世界に遊び、その行く末を仄めかして終わるのであるが、このユメのような話の行間にこそ、批判の神髄は籠められる。しかもそれを意図していないと強調するスタンス自体が、ストーリーに意味を認める近代思考の人性の貧しさを剔抉して、目に晒すのである。

 いやこれでこそ「ささらほうさら」の源流空間文化の二重焦点の一つに慥かに位置すると確信させる深さを湛えているとあらためて思う。それは鏡となってわが人生をも照らし出し、小市民の日々の暮らしの拘りや傾きがひょっとすると身の裡に潜むわが原風景から遙かに離陸していることを衝いているのではないか。その時の感性や感覚、痛みや傷み、それによって培った世界をみる視点の基本、原点を裏切っているんじゃないか。

 何を思うことがあろうか。何を考える必要があろうか。それらは、まさしく遊び、御江戸遊學が郁之亮なら、現代世界のコトゴトを遊びとして堪能する。それだけで十分生きてきたと振り返る。それが人生ってもんよ。あとはここまでの加護を天に感謝するってことだねと、この作家は提示してくれている。