世間話って何だろう。井戸端会議、茶飲み話、世間話と知り合いと挨拶のように交わす言葉の遣り取り。お天気のこと、健康・体調のこと、身近な人の様子や動静、噂話など、知り合いとの関係を保つのに意味のある振る舞い。グルーミングと動物学なら呼ぶであろう。交わされる言葉よりも、そのときの立ち居振る舞い、声のトーン、タイミング、リズム感、遣り取りの響きのもたらす体感が、コミュニケーションを司っている。
ということは、寄り集う人々の無意識が交わす「関係」が、その遣り取りに現れるってことか。ヒトとチンパンジーのDNAの相違は約2%といわれる。ヒトのコミュニケーションの大部分、98%が外の動物たちと似たようなものであっても不思議ではない。というよりも、人が交わす言葉は、残りの2%なのだから生物学的に総体としてみれば動物と大差ないといえるが、もっとも遅く動物と分岐した2%こそがヒトとしての身体感の全体を統括して立ち居振る舞いを差配しているわけだ。
言葉もそうだが、その展開である社会的文化の諸形態・諸様相、序列・規範・秩序・制度やそれらが醸し出す誇りや妄想も、2%とは言え積年の死に代わり生き代わりして身の習いにしてきた。それらの無意識に定着させている立ち居振る舞いも、言うならば無意識の交わす「関係」に顔を出す。
だからなぜそのような世間話をするのかは、当人はもちろん、それを見て解析する人にもワカラナイ。それを分析してコレコレコウだと説明することも、2%のもたらした観念や思念、あるいは身体感の然らしむるところである。つまり分からないことを手探りでああでもないこうでもないと、堆積した人類史の航跡に思いを致して愉しんでいるのだ。学者の専門知も、全人類史や全動物史、全生物史に位置づけてみると、単なるヒトのクセに過ぎない。2%の世間話と大差ない。
その世間話が、私は苦手である。それは、自らの身体感の深くに沈んで無意識となっている身の習いが、一体どのような由来を持っているのかと自問自答しようとしてきたワタシのクセ。その仕業である。躰の無意識に無頓着な振る舞いに、身の裡がざわざわと騒いで落ち着かない。ジブンの振る舞いにだけかというと、そうではない。ヒトの振る舞いのコトゴトにジブンが映し出される。ヒトの無意識の振る舞いに感じる違和感は、ワタシの無意識が私の意識世界に浮き上がってくる瞬間である。
その時に感じる違和感をその人にぶつけるのは、明らかに筋違い。でも世の中を見ていると、この筋違いを口にして差別したり怒りにしてぶつける人たちの何と多いこと。その振る舞いもヒトの無意識のなせる業だと思うと、嗚呼この人はエライんだと受けとる。
ちょうど何年か前に池袋で車を暴走させて歩行者母子を殺した「上級国民」と呼ばれた高齢運転者のことを思い出す。頑として自分は間違っていない。車がワタシの操作を聞き入れなかったと言い張った。彼は、ジブンを鏡に映してみたことがなかったのではないか。自分に対する自信が、母子を殺してしまったことをも別次元のこと考えさせてしまうお粗末。車に問題はなかったと判明してからも、「だとすると申し訳ない」と他人事のように謝罪するのをみると、世間話に露呈する無意識の「自信」「確信」「安心」「安定」は、ただ単にワタシのセカイだけを全世界と言って憚らない「慢心」「傲慢」と同じじゃないか。ワタシだけが良ければ他のヒトがどうであろうと関係ないという我利我利亡者の世界観ではないかと、トランプ元米大統領の#ミーファーストを重ねている。
こうしてワタシにとっては、世間話が世界を捉えることとひとつになる。ただ単なるグルーミングとみるのは、考える次元をヒト相互の関係の調整的視点から眺めているだけ。それは、語りかける一方のワタシとアナタの関係の身の裡を満たそうとする振る舞い。それに応答するグルーミングの言葉も、世間話を受けとる他方がワタシとアナタとの関係を調整する言葉。それを心地悪いと受けとっている私のワタシをいつも感じる。それがワタシの世間話が苦手な理由だ。
そうだから、それを一つひとつ俎上にあげて、わが身のこととして無意識を掘り起こし、とりあえず意識の俎上に浮き上がらせる。そうしていて、もう一つ次元の違うところの私固有のワケがあると気づいた。それはまた後に記しましょう。(つづく)
0 件のコメント:
コメントを投稿