2023年5月4日木曜日

ハレの葬儀

 叔父が亡くなった。厳密には叔母の連れ合いなのだが、叔父と呼ぶ以外の呼び方を知らない。昭和2年生まれの96歳。大往生と言ってよいと思う。ふくよかな顔つきと躰でカラオケが得意。人の話に耳を傾ける静かで開放的な気性もあって、人当たりは柔らかい。比翼連理とはよく言ったもので、同い年の叔母も静かな気遣いの人。おおよそ大阪のおばちゃんとは思えない品のいい穏やかな人柄、子どもがいなかった所為もあって、甥姪にもよく声をかけて往き来が多かった。似たもの夫婦と言うが、何十年も夫婦でいると佇まいが似てくるのだ。

 亡くなって振り返ってみると、触れ合った回数はそんなに多くない。たぶん記録を取っていなくても、子どもの頃を別とすれば、お爺さんお婆さんの葬儀や法事、私の父母や父方叔弟妹である叔父叔母の逝去や法事で出合って言葉を交わす、あるいは私が実家に帰るときの往還についでに立ち寄ることがここ30年くらいの間に何度あったか。そのたびに文字通り旧知の間柄をぽいと飛び越えて、昨日別れて今日またあったような気分で言葉を交わす。それが血のつながりという身に刻まれすっかり無意識に落ち着いている関係感覚の御蔭だ。磊落な叔父が私の父が亡くなった三十七年前に瀬戸大橋の建設工事に土木屋としてかかわり、海の底にケーソンを掘り橋脚を支える土台を築く話などをしていたのは思えば、彼が定年で引退したばかりではなかったか。私は技術的な面白さに惹かれた感触を覚えている。

 たぶん従兄弟姉妹たちともそういう機会に顔を合わせ言葉を交わす程度の往き来であったが、叔父の葬儀を機会に顔を合わせ、私と同じように年を取っているのに、昔の呼び方で○○ちゃんと言ってしまうのを少しも可笑しく思わないで口にしてしまう。年を取ったことを含めて近況を交わす。個が人もいたことを初めて知ったり、孫が生まれたばかりという一回り年の離れた従兄弟のスマホの写真を見せて頬を崩すのを見て、そうか、まだそういう年かと改めてこちらの高齢を思う。それも、叔父叔母と甥姪の関わりの御蔭である。

 態々遠方から来てくれたと礼を言う叔母の、耳や目がまだじゅうぶんしっかりしているのに驚き、そう言えば父方の祖母は101歳まで長生きであったと思い出す。棺を花で埋め尽くし(これでお訣かれです)と言おうとする葬儀司会の声を堰き止めるように、叔父の顔に手を添えて叔母はおいおいと声を出して泣く。しばらく泣きたいだけ泣かせてやってよというふうに、取り囲んだ皆は静かに見守る。

 いやじっさい私は、この歳でこのように別れを惜しむ夫婦の姿を見たことはない。先に比翼連理と言ったが、子どものいなかったこの二人は、じつに仲良く過ごした。叔父が退職後は海外へ何度も脚を伸ばした。5年ほど前に千里の居宅を引き払って二人してサ高住に引っ越す世話をした姪は、海外旅行の写真がタイトルつきで百冊は超えていたと言うから、百回は行ったということか。「今度な、モン・サン・ミシェルへ行くんよ。一番行きたいおもうてたとこ」と声を弾ませていたのは80歳を超えてたんじゃなかったか。そういう姿を見ていたから、叔母の泣く姿を、そうか、こういう夫婦の歳の取り方もあるんだと感嘆してみていたのであった。

 こうして、通夜と告別式と骨揚げと初七日を済ませて帰ってきた。突然の2日間の、しかも連休中に伊丹空港近くのホテルに泊まり、慌ただしく過ごした。身の奥底から関わりが噴き出して、原点と現在とを軽々と結びつけるハレの時間を過ごしてきた。

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