「あれはきっと、あなたに合っている」とカミサンが友人から紹介された小説を映画化したイタリア映画『帰れない山』(監督・脚本:フェリックス・ヴァン・ヒュルーニンゲン、2022年)を観た。久々に面白かった。同名の原作小説はパオロ・コニェッティの著作。
このところ私が縷々書き綴っているワタシを主題化したような物語。というより私が、そう読み取ったのかもしれない。いろんな切り取り方があると思うが、二人の主人公のうち一人が「山に小屋を建て牛を飼って暮らしたいだけ」と呟いて山に引き籠もりになる。もう一人が「人生の中心に須弥山という高い山があり、周りに八つの山がある。そのどちらに上るのが(人の生き方として)いいか」と問う。前者が須弥山に登り、後者が八つの山に登っているという設定。須弥山に籠もるのを許さないのが近代の社会システムとそれに適応して生きるしかない人々の関係。私は後者を生きており、ワタシは前者を心深くに抱いて(思えば遠くへ来たもんだ)と呟いている。
こうも言える。後者はヒトが人間として生きる姿、前者はヒトとして生きる「自然(じねん)」の姿。今私たちは、人がつくりあげた人工的関係の中でヒトとしての原基を忘れている、と。映画は、しかし、気づいていないだけで、原基を失っては生きていけないとも語ってみせる。崩落した山小屋を土台から建て直す。石を組み上げ、素材をロバに積んで運び上げる。その営みのことごとくがヒトの手によることが如実に描かれる。それが逞しくも楽しいと感じている二人の関係を浮かび上がらせる。ヒトが生きることの基底を為している営みは忘れるようなことではなく、身の深くに沈潜し無意識となり気づかれないだけだというようである。さらにそれは父子の相剋、母子の包摂、夫婦の関係をも重ね合わせ、イタリア・アルプスの山の景観とトリノの街の喧騒を対比的に舞台にして、時代相を表現する。須弥山をとるか八つの山をとるかという択一の話ではなく、ヒトは人に包摂され、親から子へと受け継がれていく。人類史そのものが描かれている。それを忘れているのは近代の暮らしそのものに浸っているワタシである。
ワタシは、私自身がなぜ山に惹かれ登り続けてきたのかという問いを反芻しながら、壮大な景観を身の裡に感じている。つまり近代の暮らしの恩恵に浴してほくほくしている私を、ヒトとしてのワタシの身が、それってどこか間違ってるんじゃないのと訴えているような感じがしているのだ。
それと同時に、『〈戯作〉郁之亮御江戸遊學始末録』の作者の記した《自称「小説」謹呈の御挨拶》の「無近代」を重ねてイメージしている。この作家・鈴木正興こそ「山に小屋を建て牛を飼って暮らしたいだけと呟いて山に引き籠もりになる一人の主人公であり、それを時代や人生にマッピングして喋喋しているワタシは八つの山を経巡る私なのだと腑に落としている。
どんな切り口を以てしても、面白く見えることができる面白さを湛えていた。見終わって駐車場の入場チケットを見たカミサンが急いで車に向かった。3時間無料の時間が迫っていた。なんと上映時間はコマーシャルを含めて2時間40分にもなっていた。随分と尺を気にしないでつくられていたんだと、これにも無近代を思った次第である。
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