3日は憲法記念日であった。相変わらずなのか、中身が少しは変わっているのか、9条を守るというのに、「議論なき9条」と朝日新聞は見出しをつける。どうして議論がないのか。とっくに現実政治は「敵基地攻撃能力」に行っているのに、「歯止め形骸化の危機」ととぼけた心配をしている。とっくに「形骸化」しているじゃないか。それどころか、行政が立法を領導し、もはや立法を片隅に押しやって与党がすっかり行政府になってしまった格好だ。こんな状態に於いて「歯止め」なんていうのは、お飾りとしての憲法という現役政治家の常識に気づかないフリをしているのかな。この日本国憲法で育った私たち戦中生まれ戦後育ち世代は、「憲法」って国の基本法じゃなかったんだ、単なる近代国家のお印なんだと、今更ながら学校教育で刷り込まれた憲法概念の根拠を問い直したりしている。
日本国憲法を「変えるか否か」世論調査をした結果らしいが、変えない方が良い55%、変える方が良い37%とグラフを交えて記事にしている。だが、「世論」の気分の推移を知って、何がどうだと言いたいのだろうか。そんなことより、何を根拠に「世論」がそう変わっているのか、それは近代民主国家の理念や概念をどう揺るがしているのかを考えた方がいいんじゃないか。そう思ってしまう。
コロナウイルスのパンデミックが、まずグローバリズムを痛撃した。ヒトって可笑しいんじゃないか? と天の声に聞こえた。つまり国民国家の仕組みだけはそのままにして生産と交換の市場経済をグローバル化しようってのは、とどのつまり資本市場の優勢な人たちのご都合に合わせて世界を席巻しようってコトではないのかと、疑問が突きつけられた。それに対する答えは出されていないよね。往来の途絶もワクチンの開発自体も国民国家市場経済単位だったし、そもそもCOVID-19に対する対応対策を国際協力をすることさえできなかった。これは、当時のアメリカの大統領トランプの所為って言うより、トランプに代表される資本家市場経済システムの我利我利究極形態の然らしむるところだった。つまり喧伝されてきたグローバリズムの装いが剥ぎ取られ、国民国家単位の我利我利が力関係を併せて剥き出しになった姿だ。グローバリズムの装いって言うのは、資本家市場経済の交換システムは武力の行使によらず、交換市場に於いては皆対等平等で公平っていう理念だ。だが公平じゃない。平等でもない。交換市場に於いてはカネの力がついて回る。カネさえあれば平等で公平という条件付きだったってコトをついつい忘れている。
理念てそういう条件つけて打ちたてるもんじゃないよね。
とすると何かい? 最初に「国富論」を示したアダム・スミスってヒトが提唱した自由主義市場経済ってのが、条件つけるのを忘れてたってコトかい?
いやいやそうじゃないよ。アダム・スミスは、抑もは倫理学者。彼の頭の中には、当時の社会常識であったキリスト教的倫理感に満ちあふれていた。ほとんど空気のように無意識に潜在していたから、態々条件をつける必要もなかったというか、思い及ばなかったわけさ。でもすぐにその資本家市場経済の化けの皮は剥がされた。弱肉強食、優勝劣敗の現実がイギリス中を覆った。富というかおカネの有無が力関係の源泉、それを文明の差異を超えて調達してきて市場に放り込むには、文明の衝突を辞さない力業が欠かせない。それをバックアップしたのが後の国民国家となる近代国家の原初形態、帝国だったわけだ。
マルクスが下部構造・上部構造と動態的な作用序列をつけたが、資本家市場経済がそのシステム単独で動いたことなんかなくて、恒につねに、帝国や国家権力とともに、究極のところでは武力と共に歩調を合わせて歩んできたってワケさ。だから世界大戦とその後の冷戦に至るまで、基底部分には経済的競争が横たわっていた。社会主義は上部構造で補填できると考えていたようだったが、結局、独裁制による強権支配しか道が残らなかったね。神が死んだ後の近代的理性優先の頭でっかちが先行して、おおよそヒトの世界の自由闊達な姿とはまるで違った世界を創り出してしまった。
では自由社会はそうじゃなかったか。理屈で見ていると、あたかも資本家社会システムが独立して公平平等なカンケイを築いてきたかのようにみえる。それを理念化して、経済的競争なら平和で公平で対等と、力の強い者の統治的立場に身を置いて専門家たちが喋喋してきただけ。力の無い私たち庶民は、1990年代初頭までの、一億総中流高度消費社会までは浮かれていたが、その後はすっかり社会が優勝劣敗になってしまって、コロナウイルス・パンデミックで気づかされたってことだね。
そのコロナウイルスで目が覚めたのか、気が触れたのか、プーチンの戦争が始まった。これでついに、WWⅡの戦後世界政治体制は完璧に崩壊した。思い返すと、日本国憲法は、WWⅡに対する人類史的反省が「憲法」という形に盛り込まれたものであった。GHQ民政局の若手研究者が、命令を受けて僅か1週間で仕上げた草案であったが、そこにはアメリカ本国ですら実現していない人類史的叡智を結集した民主的条項を含め、何よりも「戦争放棄」という人類の悲願を盛り込んだ。その教育を、後の口さがないナショナリストは「押しつけ憲法」と狭隘な概念で誹ったが、その教育を受けた私たちにとっては、人類史の築いた理念として身の裡に染みこんできた。それがあったから、現実社会の不条理も、非合理も、未来に向けて克服すべき課題を浮き彫りにしているようにみえ、たぶん男女平等も、最低限の文化的生活の保障も、現実生活においてきっちりと実現させてきた(と思っている)。
その戦後体制が、プーチンの戦争ですっかり損なわれ、見る影もなくなってしまった。どうやったらウクライナの戦争が収まるか、まるでワカラナイ。ロシアが和平に応じる地平は、どう考えてもウクライナが認められる地平ではない。いやそればかりか、それを認めたら国民国家の独立性さえ、強権国家の意の儘にして良いという結果にしかならないから、核を持たない追随国家はその領域さえ保障されなくなる。ウクライナばかりを応援して他の紛争地域を無視していると非難されても、ウクライナの戦争の落ち着きどころは、直に追随国家の存廃にかかわる。
ここでの本題に接続してまとめると、もはやWWⅡの人類史的反省などは蒸発してしまっている。いや、だからそれを忘れて現在の問題に向き合えといっているのではない。WWⅡの人類史的反省が、1990年頃まで生き残ったのは、冷戦が、何が人類にとって正義かを世界に問う形で命脈を保ってきたからである。だが、トランプの登場に見られるように、いまや正義は我利我利の#ミーファーストになりつつある。バイデンの装うタテマエもいつまで持つか頼りない。つまり人類は、WWⅡで(日本やドイツが負けたことによって)垣間見えた「反省」という共通理念を、失ってしまった。
どうやってこれを立て直したらいいか、見回す限り政治家の顔が浮かばない。学者たちもどういう理念を打ちたてて世界をイメージしているのか、私は知らない。ただ、庶民のワタシたちが、どうこの世をイメージするかが問われていると自問自答するのであれば、カクカクシカジカと描き出せるかもしれない。もう専門家にも頼らず、ワタシらで暮らしの欠片を拾い集めて、土台から立て直しをするかと思案した憲法発布76年でした。
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