2018年9月15日土曜日

わが身とリズムの全体主義


 朝、ラジオ体操をする。軽いピアノに合わせてゆっくり体を動かしていると、緩やかにほぐれ、身体が伸びてくる。うん、心地よいと言ってよい。その時、ふと思ったのは、この、リズムに合わせて体を動かすというのは、全体主義ではないかということ。なんというか、周囲の人たちと共感し、身に降りかかるリズムに共振する。これが快感であるのは、人類がもつ「共感性」「共振性」の身体反応ではないのか。


 身体に刻まれたリズムというのは、社会的な伝承物、文化である。それを愉快と受け取るか、そうでないかは、意識するようになってのちに分かる。「愉快―不愉快」という以前に、もぞもぞとして身体が動いてしまうリズム感のことを、いま言おうとしている。大きく成長してからのそれは、何か懐かしさをともなう。原初の私というか、故郷に出逢うような感触というか。いつそれが身に着いたかも知らないが、リズムに合わせて身体が動いている。歳をとると、いつしか動いているというほど身体が自在ではないから、大きな動きにはならないが、小刻みに体のどこかの部分が反応している、と気づく。

 それを全体主義というのは、リズムそのものの社会性に誘われた体が反応しているのは、時空間の社会性にわが身を溶け込ませたいという願望の現れとみるからだ。だから、全体主義を、即、悪者のように言われると、リズムに誘い出されるわが身そのものの反応に怯んでしまうが、ひととして生まれ、ひととして社会的な時空間に育ってきた「私の身」は、そもそも全体性を志向する要素をもち、またそれ故に、全体性に反発するわが身の傾きを意識する。つまり、「全体主義」と「主義」をつけていうと知的判断を回避してわが身を投機しようと、感性や感情と直結する身体反応が浮かび上がる。だがそれは、人の身がもつ根柢的な自然であって、その動きが「危険」なものであるなら、よけいに自然に任せておいてはならないことのように思う。

 ファシズムへの危険に「免疫をつける」とする、甲南大学の教授が行った実験授業のことを、先だってとりあげた。だが、善悪に分けて「ワクチン」だの「免疫」だのという以前に、集団に育まれて感性や感覚を育て、知的にも成長してきたのが、私たち人である。集団性そのものを排斥するような立論の仕方も、集団そのものに無前提に拝跪するような、利己主義的な人を非難する論調も、ともに、人とその社会の成り立ちに対して、無自覚なように思う。まずは、畏れることなくわが身に沁みついた(当人は自覚することなく身につけた)集団性に向き合い、その根拠に思いを致すことによって、わが身と社会との「かんけい」を一つひとつ見極めていくことが必要なのかもしれない。というと、何だかつまんないことを言っているように読める。
 
 よくわからないが、体操をしていて、ふと、そんなことが思い浮かんだ次第。

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