2018年9月6日木曜日
良心は自死し、救済への道は閉ざされている
テンギズ・アブラゼ監督『懺悔』(グルジア、1984年)を観た。人間が群れをつくって生きていくことの中に、さまざまなことが呼び寄せられ、どちらともつかないことが善悪に裁断され、習わしや制度や統治の枠組みにとらわれて人びとの心は揺り動かされ、熱狂しあるいは平安を手に入れ、ご当人はそのことに気づかないままに、善悪に手を貸して過ごしている。
この映画のつくられた1984年のグルジアは、まだ冷戦のさなかのソ連に属する。そのせいもあって、この映画の主題を、スターリンの暴虐とそれに付き従ったグルジア人民の径庭を描いたと受けとめて岩波映画はとりあげているようだが、果たしてそうか。もっと普遍的な、現代の日本の政治もまた、等質の状況を歩んでいると指し示しているのではないか。
映画がこれほど輪郭をきっちりと描いて、象徴的に表現するものかと感じたのが、第一印象。この監督の「三部作」と言われる『祈り』(1967年)、『希望の木』(1976年)は、ことに図式的に象徴表現がなされていて、(スラブ文化に疎い私には受けとめきれない要素が多かったのかもしれないが)つまらないと思った。だが、この『懺悔』にいたって、アブラゼ監督の表現意図と私の現実世界とが交錯し、私の心裡と響き合うものがとりだされていると、重なる思いがふくれていった。映像的にではないが、言語的に明快さが増して、面白かった。
ルールが「統治」だと、つい先日の「ささらほうさら」の合宿で若い人が話していたのが、思い出される。なんでそんなことに今ごろ気づいて感心しているのかという思いが、耳にしたときにあったのだが、いま振り返ってみると、日本人の(若い人の)「ルール」という感覚には、ある種、天から降ってきたような、絶対的な(客観的な)秩序という響きがあるのかもしれない。それが(自分がかかわる)属人的な規律だと感じた地点で、「統治」と思い当たった、と。
というのも、いつかも記したが、日大アメフト部の「悪質タックル」問題も、それを目撃した審判が、その場で即、「退場」を申し付けておけば、こんなに問題になることはなかった。ところが当の審判は、日大のコーチに「あの選手、出場させるんですか」と問いかけている(と、8チャンネルで報道していた)。つまり自分が判断することではなく、日大コーチが判断するモンダイだと考えているということを示している。この審判もまた、日大の内田監督の当然と考える「規範」の同類であって、その「体制」のもとに審判を務めてきているということか、と思った。こうなると、後に問題になったボクシング連盟の「奈良判定」と同じで、骨の髄から「統治」が腐っているといえよう。
人は、「体制」にしたがって手を汚すか、反抗して墓を暴き、狂人として隔離されるか、あるいは自らの良心を抱えたまま自死するしか道はない。そうして、親世代から受け継ぎ、「統治」の正統性に正義を見出していたルーラーが、(良心の自死を)わが身におよぶ「災厄」として感じとり、それに向き合ってはじめて、過去のあらゆることを「白日の下にさらす」行為として、わが親の死体を掘り出し、投げ捨てる。しかし人びとがそれに目を向けたかどうかは、わからない。ただ、過去の英雄(祖父)の名を冠した通りが教会に通じていないことだけを耳にして、あてどなくさまよう姿が、やはり象徴的に描き出される。救済の道はない、と。
「私がもっとも重要なテーマの一つと考えているのは”罪悪感のない罪悪”です」と、アブラゼ監督は生前のインタビューで語っているそうだ。人類とまで言わなくとも、私たち日本人は、佐川国税局長という”罪悪感のない罪悪”を目にし、しかもそれを「起訴」もしない国家検察の「統治」を許容している。その頂点の「英雄」もまた、”罪悪感のない罪悪”に平然として、次のルーラーとしての地位に就こうとしている。もしわたしやあなたが「日本の良心」だとすると、残された道は「自死」しかないのか。屁理屈をこねて「良心」を死に追いやるか、狂人として生き抜くか。
まいったねえ。隠居の身になって、そこまで問われるとは思わなかった。だが、そこまで状況はきているのかもしれない。
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