2018年9月21日金曜日
「悪」の凡庸さ
仲正昌樹『悪と全体主義』(NHK出版新書、2018年)を読んでいて、昨日観た映画『検察側の罪人』で感じたことが、より鮮明になる感触を得ました。「ハンナ・アーレントから考える」と副題された本書で、仲正は「エルサレムのアイヒマン」を読み解いて「悪の凡庸さ」についてこう記しています。
《アーレントが見たアイヒマンは、自らが「法」と定めたヒトラーの意向に従っただけの、平凡な官僚でした。たまたま与えられた仕事を熱心にこなしていたにすぎず、そこには特筆すべき残忍さも、狂気も、ユダヤ人に対する滾(たぎ)るような憎しみもなかったのです。》
上記の記述を「悪の凡庸さ」と受け止めるには、二つの媒介項をおかねばなりません。
一つは、ヒトラーは、それまでの世界で最も民主的と評されたワイマール憲法下のドイツで、合法的に誕生した政権であり、かれが絶対権力をもつ総統になったのも、全く合法的だったこと。つまり、遵法精神の旺盛なアイヒマンが従うと定めた「ヒトラーの意向」は、まさに当時のドイツの「法」だったことです。
もう一つは、アイヒマンがカントの哲学に心酔していたという事実です。と同時に、カントの哲学はハンナ・アーレントの堅固な拠り所でもありました。仲正正樹はカントの「定言命令」を説明して、《市民たちが理性的に合意し受け容れた「法」にしたがうことこそが、市民にとっての自由なのです》と述べている。そして、「法」に規定されているから従うというのではなく、その「法」の精神に則って、「法」の規定以上にその精神に実現に尽力することこそ、市民の義務だと(カントを信奉する)アイヒマンは受けとめていたということです。
つまり、上述の二つの項目を受け容れると、もっとも誠実な市民像が浮かび上がります。またそれは、私たちの日常とほぼ重なってきます。だからこそ、アーレントが「エルサレムのアイヒマン」を発表したとき、喧々囂々たる非難が湧き起り、アーレントは「親しい友人を失った」とも記しているそうです。仲正はその中核に、「自分もユダヤ人の大量虐殺を実行するのと同じ凡庸さをもっている」と畏れたからだと指摘しています。アーレントは、ナチスを憎む(アイヒマンを不法に拉致しエルサレムで裁こうとする)ユダヤ人の思考構造がナチス(の裏返しにすぎない)同様だとみてとったようでしたが、これが被害に遭って収まりのつかない当時のユダヤ人の心情を逆なでしたようでした。
『検察側の罪人』を観ているときの私の胸中に湧き起る(犯罪者への)嫌悪感、近代法的な「時効」という罪科免責の制度では収めがたい嫌悪感の始末感情を(アーレントに)言い当てられたようでしたが、といって、検察側の罪人に共感している私自身を難詰する気持ちは、一向に湧き起ってきませんでした。つまり、私の自然は、ビクともしなかったのです。そうだ、そうですよ。私もアイヒマンですとは、さすがに思いませんでしたが、近代法に守られた「犯罪者」が偶然起こった高齢者ドライバーのひどい運転に巻き込まれてしまうのを、留飲を下げるように観ている私を、じつに諄々と受け止めていたのでした。
凡庸なる「わたし」と、それを感じている「わたし」がせめぎ合っている。それを悪いことではないと思っているのが、今の私なのです。
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 件のコメント:
コメントを投稿