2018年9月30日日曜日

道徳は教育できるのか(1)180度違う立ち位置


 昨日(9/29)は、第3回目の第二期Seminarの日。講師はtkさん。お題は「後期高齢者からの子供の道徳教育に関わる提言のとりまとめ」。なんともつまらないタイトルにみえる。

 どうしてこの人が? と最初は思った。リタイアして、油絵を描きながら悠々自適している自由人、と彼のことを思っていたからだ。いつだったか、第一期Seminarを取りまとめようという話しが出たとき、「そんなもの取りまとめても、誰も見やしないよ。ムダ、ムダ」と端然としていた彼が、なんでこんなことをと、耳を疑ったね。いやじつは、私ばかりではない。いつもtkさんに、コブラに対するマングースのように噛みついていると評判で仲良しのmdrさんまでが、「年くってボケが来たか」と揶揄するほど驚いていた。「ま、現役の仕事では散々悪いことをしてきたから、罪滅ぼしじゃない?」と私は感想を挟んで、でもどんな話になるのだろう。何しろtkさんは東大法学部の卒。いわば日本の法制の土台をつくっている本拠地で学んでいる(勉強する学生であったかどうかは知らないが)。金沢大学で教える仲正正樹も「東大法学部だけは、他の法学部と違うんだ」と、一段高いところにいて、ものごとの真偽正邪を決定する国家的審判官の位置に立っている気負った人たちと決めつけている。


 tkさんは、大まじめであった。彼が枕を振って問題提起をし、参加者からいろんな意見を出してもらって、それを事務局のあんたが取りまとめてよ、と進行をしていった。えっ、おれがまとめるの、と思ったから、いまもこうして大真面目に記しているのだ。

 枕はこうだ。日大アメフト部の非道タックル問題の、当の選手がいつのまにか善良な学生になって、監督やコーチがやり玉に挙がっているが、いくら指示や命令を受けたとはいえ、そもそも自分が出場したいがために非道なタックルをやってしまったんだから、彼が責めを負うべきだ。メディアも指示命令した監督コーチにだけ責任があるように取り扱っている。これは子どもに「道徳教育」をきちんと施さないできたからだ。そもそも道徳というのは、法で規制しているから良い・悪いというのではなく、内心の発露として善悪を判断して行うことである。その淵源は教育勅語にあるとばかりに、『教育勅語の真実』という本を借用する。明治以降の日本の組み立てが欧化一本やりであったのを憂えた明治天皇が、皇祖高宗以来の麗しき徳を讃えて民草がそれを守り育てていくことを謳っている。それを、大戦の過ちがあったにせよ、占領軍の命令によって放り棄ててきたことが、今の道徳の退廃を招いていると言いたいようであった。教育勅語のさらに淵源には「江戸しぐさ」が綿々とつながっている、と道徳の教科書を通覧して話を繰り出した。

 tkさんがそういう道徳観を持っているというのはわかったが、それに同意を求められても、私の現実感覚や規範観念とまったく火花が散らない。どこか別世界の物語を聞いているように思える。ひとつ気づいたこと。それは、tkさんの問題提起の仕方が演繹的であり、帰納的でないことであった。演繹的というのは、彼自身が「かくあるべし」という道徳観念のモデルを抱いていて、それを子どもたちの世界に実現するのに、学校教育のなすべきことがある、道徳の教科書は良いことを書いている、教師たちは「道徳教育」をするべきだと展開する。だがその主張が私には、「だから、なに」と響く。私の現実感覚と交錯しないのだ。

 振り返ってみれば、私が学生のころは、演繹的にものごとを考えていた。いま思うと、私だけでなく、世界が右も左も、それぞれ勝手に「典型」や「正義」を想定して、そこを出発点にして議論を積み重ねる。人間はかくあるべし、世界はこうなることが正しい、教育はこうなされるべきだ、と考えていた学生時代は、世界はこう構築されるべきだと、気づかず正義を前提にしていた。だから意見を交わすというのは、それぞれが言いたいことを勝手がってに言い立てるに尽きた。意見を交わすことによって話の次元が変わり、相互に入れ込んで話が発展するというのは、気の合った仲間内でしか見られなかったと言える。たいていは、より知的な力をもったものが、そうでないものを啓蒙するような調子であった。それが勤め始めて十年ほど経って、帰納的にものごとを観ていることに気づいた。そもそも学校教育はこうであったとか、生徒はこうふるまうべきだとか、教師は本来こうあるべきだと謂う発想では、学校現場でやっていけなかったからだ。生徒が受け付けない。教師を教師とも思わない生徒が、いっぱいいた。その生徒たちと言葉を交わし、教室という場をつくりあげ、授業を行うことができるようにするために、いろいろと手を尽くさなければならなかった。

 そのとき、荒れる生徒たちの背景にある生育歴や家庭環境や小中学校時代を経て培ってきた学校への不信感や教師への反抗心を、この現場で受け止めて落ち着かせていくために、何をしたらいいか。そればかりを思案して、教師の仕事をしていた。貧困もある。親に見放されるようにして捨て置かれた子どもたちの「いらだち」や「反抗・反発」もある。結局受け入れてくれたのが、テキヤグループや暴力団だったというグルーピングもある。それらが入り混じって学校という場で突出する暴力事件やいじめ、非行、ときに犯罪は、道徳的であるとかないなどという言葉の次元では収まりきらないほど、苛烈であり、悲惨であった。

 学校の秩序を維持し、生徒が落ち着いて教室にいることができるようにするためには何をどうするべきか。時代は高度経済成長から、オイルショックを経て安定成長へ向かう時期であり、中学卒の金の卵は一挙に消え失せて、成績不良と性向不良の子どもたちが全日制高校から締め出されて定時制へやってくる。そういう時代の変化に、知的力量で勝負するつもりの(古いタイプの)教師たちでは太刀打ちできない。生徒を押さえつけるに役立つ教師の力量自体が、年年歳歳問われるようであり、磨かれていった。

 つまり、道徳を教育するという高みから教え諭す視線では、教師の人間的力量が、容易に生徒に見抜かれて虚仮にされてしまう。しかも彼らは、日ごろ仕事をもっている労働者であるから、時によっては、教師よりも実際的技量や人間的力量が高い生徒がいる。他の生徒たちを引き付ける魅力も、格段に上の人格を持っている者もいる。つまり、社会一般の多様な人がいる中で、ただ教壇の高みに立っているから教師でございという顔をしていても、まるで教師として通用しない。それを身をもって教えてきたのが、夜の学校であった。つまり、私の人間観や社会観、世界観をがらりと、百八十度転換させたのが、夜の学校現場であり、生徒たちだったのであった。

 言葉で教えることも必要だが、それは時と所を得て、適切に発せられたときにはじめて生徒たちの場に受け容れられ、その主導権が取れたときにかろうじて、教室の規範を教師が提示することができる。その「受け入れられる」感触は、ただ単に言葉ではなく、日常の振る舞いをふくめた「わたし」の全存在だ。私の感性も感覚も、立ち居振る舞いの儀礼的ありようも、要するに生徒を人として遇する向き合い方の「文化」そのものが、どのようにしてか生徒に受容される。教育するというよりも、気づいてみれば、薫陶を施す結果になっていたというのが、じっさいであった。道徳教育をするなんて言葉は、頭をちらりともかすめなかった。(つづく)

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