2018年9月8日土曜日

「世界」に認知してもらいたい「わたし」の怖さ


 「ささらほうさら」の夏合宿で用意されていたが、(時間がなかったために)それをめぐって言葉の交わされることのなかった「資料」のひとつに、《「ファシズム」学生ら体験》という新聞記事があった。神戸・甲南大学の歴史社会学の田野教授が行った「特別授業」のドキュメント記事だ。2週にわたって行われた2回目、白シャツとジーンズという「制服」が指定され、笛に合わせて床を踏み鳴らし、教室での行進、敬礼して「ハイル、タノ!」と声を出す。キャンパス内に繰り出し、(演出のためにそこにいた)疑似カップルに、授業参加の学生たちがどう対応したか、その自身の行動をどう感じたか、などを取材して報道している。場を踏まえるごとに(疑似カップルを糾弾する)声は次第に大きくなり、逃げるカップルを追いかけるように、振る舞いも「本気度」を増している。参加した学生のリポート。


「グラウンドに出る前は、面白半分な雰囲気だったけれど、教室に戻るときには『やってやった』感が出ていた」
「最初は乗り気でなかったが、膝枕カップルの前では最前列に自分がいた。教室内で行動するより、外に出て他人から見られる方がやる気が出た」
「自分が従うモードに入ったときに怠けている人がいたら、『真面目にやれよ』という気持ちになった」
「制服もシンボルも身につけていないくせに集団に紛れ込んでいる人を見ると、憎しみすら感じた。規律や団結を乱す人を排斥したくなる気持ちを実感した」
 
 つまり、この「実習」に学生たちはノッタのだ。田野教授は、この実習の意味を「集団心理が暴走することの怖さを『ワクチン』として体験し『学生に免疫をつけてもらう』狙いだ」と説明している(と記事にある)。だがこの体験は、「ワクチン」になり「免疫をつける」のに役立つだろうか。

 この「実習」は「集団心理が暴走する(実験)」という解釈に、私は疑問を持った。
(1)「授業」という枠組みは、(学生にとっては)意識されない与件である。田野教授は「受講の拒否や途中離脱も認める」としているが、学生たちはこの教授の授業を採る時点で、身を教授の仕掛けに合わせる。つまり(学生にとっては)適応する以外に、「教師―学生」の関係を成立させる術はない。

 子細はわからないが、「制服」で参加しなかった学生)は「従う」ことにためらいをもったとみることができる。それに対して「憎しみすら感じた」のは、「集団心理」だろうか。教授の「(制服)指示」に従っている自分の「バカらしさ」を明かす行為に対する反発も含まれるとすると、(自己内心の)規範の成立契機が奈辺にあるかによる振る舞いではないか。ことばを換えて言うと、脅かされる自己を護ろうとする振る舞いなのだ。それほどに、人は他者を鏡として己の姿を描きとっている。むろん社会的な集団に置かれて暮らしているのであるから、「集団心理」と呼べば呼べなくはないが、それだけでは人の内面の動きを見落としてしまうことになる。「従う」というのは、心裡の動揺をふくめて表現された結果の事象である。それを「集団心理」として片づけてしまっては、「心裡の動揺」がもたらす(選ばれなかった)他の選択肢への可能性に、目を閉ざすことになる。そこに踏み込んでこそ、わが身の内心への視線の立場を明確にし、「免疫」をつける「ワクチン」となりうる道が開ける。

(2)上記の「授業」では「人は他者を鏡として己の姿を描きとっている」と学生間の応対を指摘したが、これは「田野教授の授業」という枠組みの中で現れてくる「かんけい」である。社会に暮らす人は、集団の中に自らを位置づけ、そこから受け取る(たいていは暗黙の)「評価」を糧にして自らを変えていく存在である。

 ことばを換えていうと、人は自らの「世界」を日々紡いでもっている。しかし(若い頃はとくに)自らの「世界」の不確かさにうろたえ、より確かなものを手に入れようとあがいている。教授の「世界」に触れるのは、自身の「世界」をその一端と重ね合わせることによってより確かにしたいという思いの発露ともいえる。他の学生の「世界」が、自分の「世界」とどういう位置関係にあるかを、常日頃は実感もできない。だが、集団的な振る舞いのステージが設えられたことで、一挙に明快になる瞬間がある。それが、田野教授の実験授業の場であったのではないか。「制服」を着用しない受講者への憎しみの感情、膝枕カップルへの「やってやった」という振る舞いは、「授業」という枠組みの場で初めて感得された瞬間の「自己像」なのだ。つまりそれは、瞬時にみえた自己の「世界」なのであって、場を離れれば、何の変哲もない(平々凡々たる)「わたし」が見えるだけに過ぎない。

 田野教授が、もし「免疫」や「ワクチン」を生み出そうとしているのなら、この瞬時の「場にみえた自己像」を対象化するよう学生に促す方法を用意しなければならない。《「従う快感」の怖さ知って》と新聞の記事はまとめているが、そこに踏み込むもう一歩を欠いては、結局「怖さ」も他人事でしかない。わが身の心裡に潜む「怖さ」への自己省察こそ、学生にとっては大きな、次の一歩だと思う。それを、社会的な規範に取り込むことのできる道筋を展開してこそ、「社会学」だと思うのだが、田野教授はそれを意識しているだろうか。

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