2018年9月23日日曜日
今日は秋分の日、そして、満月
森絵都『みかづき』(集英社、2016年)を読む。どうしてこの本を手に取ることになったのかは、わからない。何ヶ月か前に図書館に「予約」をし、それが届いたからなのだが、なぜこの本を予約したのかは、覚えていない。何ヶ月か前に何かの本か雑誌を見ていて、この本のことを書いた記事を目にしたのだったか。
子どもの教育と、彼らの通う学習塾のことに取材した小説である。文科省がどんなに「ゆとり教育」を掲げようと、学習指導要領を子細に書き上げようと、学校教育が学習において取りこぼしていく児童・生徒の多いのは、変わらない。「取りこぼしていく」というのが、学校卒業後に待ち構える「受検」の関門を上手くくぐることができるかどうかを意味していることも、いつの時代にも変わらない。だから最近、「AIに負けるわよ」という声の合間から、エリート教育などとは言わないが、MARCHレベルまで到達して開発をやめた東ロボ君の開発を先導していた東大教授が、そもそも若い人たちの「読み書きの仕方がなっていないじゃないの」と声高に叱っているのが、目につき、面白い。国中が「勉強、勉強」と子どもたちの尻を叩いていても、(有名校への進学とか将来の職業とか出世とか考える以前に)人として一番肝心の「読み書き」がちゃんとできていないわよと叫んでいる。この声が私には、人が生きるのに必要な「読み書きの仕方」って、デジタル世界に合わせたそれでいいの? と皮肉っているように思える。
森絵都が描くのは、敗戦後から21世紀に入るころまでの文部省の教育改革とは別個に社会に進行してきた学習塾の担い手たちの気概と変遷である。そして、一億総中流という時代を経ても捨て置かれてきた子どもたちの存在に目を向ける人たちが問いかける、教育の原点である。上澄みをなぞるような状況描写のなかに、ポツンポツンと文字が読めるとはどういうことか、自分の想いを伝えることができるとはどういう意味を持つかという「(人にとって言葉を手に入れる)原点」が浮かび上がる部分があり、胸を衝かれる。ただ、そこに深入りすることなく、センチメントな感懐に集約する。主題を担う登場人物が自分の著書の出版記念会で以下のような述懐をする。
《どんな時代の(教育を論じる)どんな書き手も、統制の教育事情を一様に悲観している……読んでも読んでも否定的な声しか聞かれないのに……辟易したけれども……常に何かが欠けている三日月。教育も自分と同様、そのようなものであるかもしれない。欠けている自覚があればこそ、人は満ちよう、満ちようと研鑽を積むのかもしれない……》
「人格の形成」だとか「市民を育てる」だとか「国民教育」というテーマはどこかに消えてしまって、ただただ「学力の向上」ということに(大人たちが)どう応えるかが、この小説の焦点となっている。そのために、大人の善意性を疑わない子どもとの関係が主旋律を奏でる。文筆を生業とする森絵都という方が「読み書きの仕方」の、存在論的な意味に気づかないはずがないと私はおもうが、その「さわり」をちらりとみせるだけで踏み込まない。そこへ踏み込まないと、「ゆとり教育」へも「生きる力」への批判にかすりもしない。たぶんその「原点」に踏み込まない限り、教育格差さえも単なる奇特なボランティアとして「美談」に終わる。
学校vs塾という(森絵都の設定した)構図が狭すぎたからなのか、文部省との絡みまで登場させながら、上滑りしてしまいましたね。やはり人物の存在論的な根っこに足をつけていなくてはいけないんじゃないですかね。ことに子どもの教育を取り上げるのであれば。
今日は満月。秋分の日。陰暦の八月十五日の月とみれば仲秋の名月。そんな日に、「みかづき」を読むなんて、なんというめぐりあわせ。「欠けている自分」と「みかづき」重ね合わせるロマンティシズムも、不可能性の上に可能性を探求するというところ組み込めば、少しは重松清の作品のように、胸に響くものになったであろうに。森絵都さん、おきばりやす。
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