2018年9月1日土曜日

はや九月、秋風の吹く私たちの暮らし


 もう九月。暑さは酷暑のまんま、昨日の夕方は激烈な雷雨。駐車場に車を置いて家に戻るまでの間に、傘を差していたのにすっかりびしょぬれになった。土砂降りである。今朝方も雨が落ち、地上の雲気が抜けないで絡まりついてくる感じだ。


 一昨日まで合わせると五日間、出払っていた。前半は伊香保の方へ、後半は立山連峰の縦走へと、雲や雨にかまうことなく歩いてきた。一昨日遅くに帰宅し、すっかりくたびれて昨日は目覚め。身体はむくんでいるのか、水気が抜けないのか。山を歩いて下山、いい調子でお酒を呑み、水もずいぶん接種したから、疲れと脱水と利尿がうまく運ばないのかもしれない。肝臓や腎臓に無理がかかっていて、悲鳴を上げてもいい状態なのに、声のあげ方を知らない臓器なのかもしれない。

 ともかく、明日の会議の「資料」など手を抜けない仕事がたんまり待ち受けていたから、休むことなく、とりかかる。溜まったメールへの返信などは、そうむつかしくない。さかさかと片づく。だが「議事資料」については、文言をふくめて思案しなければならない。ところが、身体が長続きしない。一つ片づけては一回休み、二つ片づけては大休止するという具合。管理事務所に出かけて、溜まっていた書類に目を通してチェックし、事務所の若い人と話を交わす。世間話というわけでもなく、団地役員の仕事にかかわる知見を聴くのだが、これがまた、思案の機動力になったりする。

 こうして、おおよその「資料」は作成した。あとは副理事長に目を通してもらって、追加修正をしてもらい、午後にでも印刷しようかと、今朝の仕事はひと段落付けた。はやいなあ、もう理事長に就任してから三か月が過ぎた。ペースは整いつつある。ただ団地住人の高齢化に伴い、「役員の交代就任」が難しくなりつつある。間もなく76歳の私ごときも高齢のうちだが、身体の自在が利かない人も出来しつつある。事務所の若い人は、良くことを心得た方が「役員」をやるのと、渋々しかたがないからやるという人とでは、同じルーティンワークでも運びが違うと指摘する。それはそうだが、自主管理というのは(あるいは民主主義というのは)構成メンバーに力量に応じてうまく運びもすれば、まずく崩れることもある。それが嫌なら、昔のように街の世話役に任せ、あとは知らぬふりをして、お金だけ出して任せることもできる。どちらをとるか。私のような昭和レトロ世代は、迷うことなく自主管理の方をとって、まずく運ぼうとそれはそれ、集団の力ってそういうものよと考えて、諦めるというか、我慢する。

 でもなあ、全部任せておいて、その独裁的当事者が崩れたときに、なぜかわからないまま運命共同体的に一緒に崩れてしまうってのは、もっと我慢ならないよね、と自分に言い聞かせる。そんな岐路にたっているのだ根、私たちは、いま。

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