2018年9月7日金曜日

わがコトとして受け止める現実


 先月下旬、「ささらほうさら」の夏合宿がありました。現役の(管理職)仕事をしている若手が、日ごろ向き合っている事象を、すでに退職した年寄り向きに組み立て直して話して、「それってどういうこと?」と質問が相次ぎ、そこへもう一人の現役(管理職)仕事をしている若手が、そちらの現場の話とそれに対する感懐を投げ込むものですから、論題は錯綜しながら展開して、収まりがつかない広がりを見せる、面白いものでした。


 その中の一つに、こんな話がありました。「(現場教師の一人が)いつも終業時刻より5分早く退勤している」と告発があったというもの。告発者は、授業や生活指導はむろんのこと、いまどき話題の部活動でも活躍し、それはそれで、土日のボランティアのように献身的。朝から晩まで、学校仕事一筋という仕事人間だとのこと。現場の教師たちからも信頼を受けているという。話題を提供した管理職は、「どうして自分で(直接)言わないで、管理職に告発するのだ」と思ったそうですが、(職員の勤務の管理は管理職の仕事)と思い直して、5分早退勤の教師に注意はした。バスの時刻に間に合わないので(早退している)ということであったそうだが、やはりそれはまずいでしょう、と。

 論題になったのは、どうして仕事一筋人間の教師は、そういう(重箱の隅をつつくようなことを)告発するのか、よけいなお世話ではないか、という年寄りの発言であった。その年寄りに言わせれば、教師にはいろんなタイプがある、それぞれのやり方で仕事をしている。手を抜いているのもいれば、力足らずというものもいる。家庭の事情を抱えているものもいれば、家庭を顧みない者もいる。そういういろんなやつが蝟集して仕事をしているのが「学校」だと。「5分早退勤」がいても、「仕事一筋人間」の学校仕事には何の影響もないであろうに、そんなことを告発してどうしようというのだ、と。この年寄り自身は、現役のとき、仕事一筋人間だった。彼の言い分には、チームの一員がそうしていて、それが差し障りになるのであれば、なぜそうするのかと「5分早退勤」者に聞いて、その事情に即した対応をとればよい。差し障りがないのであれば、放っておけばいいではないか。「世界」は人それぞれにあって、ひとつではない。他者に対して寛容であれといっているのではない。寛容であれというのは、同じ世界に生きていると前提するからだ。そうではなく、世界が多様性をもっている、自分の知らない世界を生きている現場教師もいるという考え方が、この年寄りには底流している。

 別の面からみると、仕事一筋人間の教師は、管理職がだらしないと告発しているのかもしれない。「5分早退勤」はどうでもいいが、それを見ていないのか見ていて知らぬふりをしているのか。管理職がダメではないか。もっとしっかりしろよと言いたいのではないか。あるいは、もっと違って、彼自身が学校をコントロールしている(つもりだ)が、「5分早退勤」に口を挟む「立場」を(自分は)持っていない。彼にとっては、学校の隅々がどう動いているかまで、「わが世界」。自分が全精力を注いで日々取り組んでいるのに見合う「世界」であってほしい。「5分早退勤者」は、「彼の世界」にとって瑕疵である。目につく瑕疵があるということは、自分の「世界」に傷がつく。その瑕疵が、懸命に捧げている日々を損なうものと感じる。そう感じているから、黙っていられない(でも、彼には口を挟む立場がないから、管理職に告発した)のではないか。

 つまり、この「告発のモンダイ」は、「世界」をどうとらえているかにかかわっている。「世界はひとつ」と思っていると、他の人たちの振る舞いが、直に自分の振る舞いに「かかわる」。反対しているか、賛意を表しているか、無視しているか。反対するならまだよいが、無視されるのは我慢ならない。

 こうした「世界はひとつ」に生きている地平からの「欲求」は、よく目にする。ヘイトスピーチをする人たちもそうだ。自分との異論を叩けば自らが正当化されると思っている人たちも、そうだ。だが「人は様々だからね」と言ってすませば、今度は、共通の土台を築く意思ももっていないことを表明することになる。疑似的であれ、幻想であれ、「共同的に暮らしている」人間の社会では、ズレを承知で、なおかつ、言葉を交わす「共通の土台」を築かねばならない。「多様な世界」を生きていながら、重なり合う部分で共有できる言葉を紡ぐ。そこに、社会を生きる面倒とひととの交通が生まれる。絵に描いたように「共同性」が固定的にできるわけではないが、「共通の土台」を築こうとする動的意思が、織りなす瞬間瞬間の「現実」にこそ、出来する「世界」をわがコトとして受け止めるモチーフが生成するのだ。

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