2018年9月9日日曜日

わが身が知らせる「自然」の屈曲点


 今日は、菊の節句。でも、このところの、中四国大洪水、台風21号被害、北海道胆振地震の報道が相次ぎ、二十四節季の感覚も節句を祝う心もちも、すっかり消え失せている。気候、気象の変動は、報道があるかないかにかかわらず私たちの季節感覚に作用し、「何百年に一回」とか「過去に経験したことのない」という表現が、毎年、毎月起こるような出来事として私たちの身体に刻まれていっているような気がする。その受けとめている身体感覚を身の裡の方へ探索してみると、異常が常態化する転換点を超えたのではないか。そう思えてくる。


 見田宗介『現代社会はどこへ向かうか――高原の見晴らしを切り開くこと』(岩波新書、2018年)で、生物学者の用いる「ロジスティック曲線」という概念を援用して、人類が転換点を迎えていると見てとっている。

「一定の環境条件の中に、たとえば孤立した森の空間に、この森の環境要件によく適合した動物種を新しく入れて放つと、初めは少しずつ増殖し、ある時期急速な、時に「爆発的」な増殖期を迎え、この森の環境容量の限界に接近すると、ふたたび増殖を減速し、やがて停止して、安定へ移行期に入る」(この屈曲点を「ロジスティック曲線」と呼ぶのだそうだ)

 見田が見ているのは「人類」。もう二十年以上も前になるが、人類が70億人を超えたころ、「地球が養える人類は百億人、この増殖がつづくとどうなる」と大いにメディアを沸かしたものであった。それが、いまもまだ世界人口は、70億人。彼は「これは比喩ではなく現実の構造である」と確信に近い表現をしている。

「じっさいに世界全体の人口増加率の数字を検証してみるとおどろくことに、1970年を先鋭な折り返し点として、それ以降は急速にかつ一貫して増殖率を低下している。つまり人類は理論よりも先にすでに現実に、生命曲線の……変曲点を、通過しつつある」

 私たち庶民は「自然の摂理」と呼んできた。限界を超えると「自然」は自動調節し始める。それが科学的に正しいかどうかは知らないが、経験的な知恵としてそう言い伝えてきた。見田宗介は(社会学者らしく)データを基に提起しているから、「人類(生命)の屈曲点」としてしか提言していないが、庶民である私は、「天然自然」そのものがおおきな屈曲点を通過しつつあると、実感する。

 経験則というのは、私のわずか75年余の人生が身に刻んだことばかりではない。父祖代々から受け継いできた(身体に刻まれた)文化的な諸々のことを、「理論より先にすでに現実に」受け継いでいると思う。その体感が、「異常が常態化する転換点を迎えている」と知らせているのではないか。二十四節季を忘れ、節句を祝う心もちをすっかり失ってしまった私の感性が、ロジスティック曲線の「検知器」として作用している。見田宗介のように「高原のみはらしを切り開く」という気概はないが、「状態としての異常気象」に向かう環境の変曲にどう適応するか、わが体が探っているように思う。

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