2018年9月5日水曜日
「隠れ疲労」だって?
五日間もつづけて、合宿や山歩きで遊び歩いた帰宅したら、やらねばならないことが溜まっていた。山行記録を書くよりも、メールの返信をし、そちらの「会議資料」をつくり、帰宅三日目の午前中いっぱいの「会議」をこなす。先々の日程を読みこんで、ひと月分の「お役目」を見落とすことなく采配し、滞りなく済ませる。
やれやれ、ひとまず乗り越えたという安堵もあろう。お昼を食べながらTVを観て、ボーっとしていると、張っていた気がほぐれて身の裡に溶け込んでいく気配を感じる。心地が良い。三日遅れの山の疲れも一緒になって、どんよりとわが身によどむ。それに身を任せている佇まいが心地よいのかもしれない。
いつもなら、山行記録を書きあげ、写真を添付した「山の会版」をつくり、会員に送付するのだが、はかどらない。というか、手掛けることもしないで、後の半日をボーっとして過ごした。夕方出かけていたカミサンが帰宅して、「どうでした、今日は」というのが、一瞬、なにを聞いているのかわからない。そうか午前中の「会議」のことかと思い当たり、いやいやご心配なくと受け答えはしたが、午後、なにをして過ごしたか、思い浮かばない。思い出せないというのではなく、何もしなかったという、茫洋とした世界に魂を放逐して、抜け殻のようにしていたことに、思い当たる。
どこで聞きつけたかカミサンが「隠れ疲労ってあるんだって」と話し始める。
「うん……?」
本人が気づかないうちに疲労がたまり……と話しを聞くうちに、何だそんなことか。それならもう、五年も前から「発症」している。「疲れ」が若いころ(60代のころ)のように表れてこない。
「(筋肉痛の)痛み」とか「疲れ」というのは、回復するときに感じられることと悟ったのは、もうとっくの昔だ。一緒に山を歩いて、「疲れませんか、強いですね」と言われるのは、面映ゆい。そう声をかける人たちは、「痛み」を感じ、「疲れ」を自覚している。つまり、すでに彼や彼女の身体は「回復」しようとしているのに、私は身の裡に溜めこんだままなのだ。これを一般化していいかどうかわからないが、歳をとるということは、疲労も筋肉痛も内なる疲労として蓄積し、肝臓や腎臓などの内臓を弱体化せしめ、そのようにして「全体として老化」するものなのだと、悟ることになった。
今週初めの「どんより」は、それがもう一段すすんだ感触を、私に残した。「合宿」も「山歩き」も、それ自体としては、むつかしくはない。いや逆か。むつかしいことはできなくなり、しなくなっている。技術的に「できなくなる」よりは、力量に合わせて「できる」ようにやればいいのだから、岩登りや雪山の山中ビバークなどはもうやれない(ように感じる)が、普通の山歩きが「できない」とは思わない。だが、わが身がいつしか「しない」ことへと踏み出していて、それが「身の裡に溜めこんだ」証のように思える。けっして、「隠れ」ているわけではない。そういう現れ方をするように、自然の摂理が働いているのだと、思った。
「隠れ疲労」というのは、人の身体は「かくあるべし」という範型があって、それに照らし合わせて「疲労」を云々する地点から名づけられた「症状」だ。その範型は、歳をとるという変化のかたちを内包していない。人は動いている。人は変わる。人は年をとることによって、劣化し、崩壊する。そういう動的平衡を見て取らなければ、症状に名前を付けたって、意味がない。それよりも私は、「どんより」が、「お役目」とか「山歩き」とか、「合宿」という分節化を拒絶して、なにもかも「混沌」に投げ込んで平安を求める深層の願いだったのではないかと感じているのだが、はて、どうだろう。
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