2018年9月19日水曜日

何が何に立ち向かっているのか――おまえは誰か


 監督・脚本:原田眞人『検察側の罪人』を観た。エンターテインメントを謳いながら、これだけのモンダイをぶち込んで展開してみせるかと思うほど、盛りだくさん。切りとり方によっていかようにも読み取ることのできる仕掛けに、世の中と人間をみる厚みに感心しながら、楽しんだ。と同時に、ああおもしろかった、で終わらない残渣が心裡に残る。それは、「罪人」というのが、じつはおまえではないのかと問うているように思えたからだ。


 検察と言えば、当然のように世の正義を体現して振る舞う集団なのだが、国会で嘘八百を述べ、それを正当化する文書類の書き換えを命じたお役人の頂点を、起訴もできない検察の現実をみると、正義などあるものかという方が、真っ当に思える。ところが「殺すときは他人に頼まぬ」と台詞を吐く「検察側の罪人」が視線の先においているのは、法的な罰の起点にある倫理的な非法(生き方に背くこと)の、犯した罪は消えないという「事実」。さらにその視界の先には、兵士たちの置かれている状況を一顧だにせず強行したインパール作戦の亡霊たちが見えており、翻って、今の政治の向かう方向への批判も込められる。それに対して、法的な「正義」を貫こうとする「アウトサイダー」という妙な構図が、映画全体の舞台回しをつとめる。

 検察の法的(状況的)「正義」、その前提にある社会的倫理的「正義」、さらにそれをも批判しつつ「近代法的正義」を貫こうとする「正義」、それを笑い飛ばす「悪」の哄笑、それに天罰を加えるかのような「事故」をみていて留飲を下げる観客の「正義」、その脇を、いかにも天罰を仕組んだかのように胸を張るネオナチのような陰謀論者の「正義」の存在と、いろいろな「正義」のありようを並び立てて見せて、観ているもの感性を揺さぶる。

 画面を観ていると、真偽とは別に、観客の私は、関係者の振る舞いと言葉という見た目で罪の見立てをし、内心ですでに判決を下している。それを画面の展開は裏切る。裏切られるたびに観客は、「検察側の罪人」に共感し、画面にのめり込む。そして映画が終わったとき、わが身の裡に立ちあがる「罪人」としての自覚に、驚かされるという仕掛けである。

 エンタメとして、まず、面白かった。それっきりにしてしまえば、映画館を出たときに、すっかり気分を洗い流して、晴れやかな青空の下を歩くことができる。だが、内心に残響がのこるとき、生きている時代とその社会を何層にも重ねて絡まり合う人間の関係と、そこを生きぬくことそのものがインパール作戦のように累々たる白骨を積み重ね、踏み越えてここに立つ「わが身」に気づく。

 検察官の安らぎを覚える場所、別荘が、じつは観客である私たちであり、その庭を掘り返せば、白骨が埋まっていると残響は伝えているようであった。

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