2018年9月17日月曜日
逸れる視線――見るということは見られるということである
東京都美術館に足を運んだ。院展。斯界の権威の象徴のような展覧会だが、一人お目当ての絵描きがいる。高橋俊子。いくつの方かはわからない。どんな経歴を持っているかもわからない。今年の4月に、三越本店で行われた春の院展の、彼女の作品『生きる』を見た。その印象を次のように綴っている。
《第三会場に飾られていた高橋俊子さんの作品は、ちょっと際立っていました。見た瞬間、「おっ」と声が出たものです。院展の作品は全般に、輪郭をほんのりとぼやかし画面全体が靄に包まれたような、印象系の表現が多くなっていました。ですが高橋さんの母子像の、力強い母親の輪郭と深く秘めた決意を感じさせる視線は、抱かれる子どもたちの未来の確かさを保障するもののように思えました。
全般の「印象系の表現」というのは、(日本だけの傾向かどうかはわかりませんが)自分の意思を明快に突き出すことを控えて、周囲の雰囲気を探るような気配を湛えています。(いまさらながらですが)大衆社会の「他人指向」を思わせます。それに対して高橋俊子さんの作品は、単にしっかりした輪郭というのではなく、内面にひそめる母親の力強さが見事に表現されていて、そうだこういう心もちこそ私たち戦後世代が身体感覚の根柢に持っていた人間観ではないかと思えて、うれしくなりました。葉書にしたものがあれば買い求めようとショップをのぞきましたが見つけることが出来なくて、残念な思いを抱えて帰ってきました。》
秋の院展の作品も、同じモチーフだが、画面ははるかに大きい。祖父母と嫁の大人三人と子ども四人。『生きる・雨季がはじまる』と題されている。縦1メートル半余、横2メートル半はあろうか、屏風絵のような割方。左側にまだ幼い子を負ぶった二十代の嫁が雨の中に立ち、中央に二倍の面積を占めて、蝙蝠傘の下に祖母が眠りこける3歳くらいの男の子を抱いてしゃがむ。その祖母の衣服の端をつかむようにやはりしゃがんだ5歳くらいの女の子が何かを見つめるようなまなざしを向けている。そして右側の屏風には、祖父と7歳くらいの女の子が雨に濡れたまま佇む。雨が降りしきる。だが不思議に、雨が亜熱帯のそれのように温かい。濡れることがいやな感触をもたらしていない。慈雨の季節が来たという喜びさえ醸し出されてきそうな、柔らかな雨だ。細かい表現だが、雨が地面に落ちて跳ね返るときの小さな雨粒が、歌い出しそうに思われるほど、蕭蕭と降り落ちて世界に溶け込んでいる。
因みに、他に雨を描いた好対照の作品があった。太田慶子『雨雫』。大きさは高橋の作品と同じほどのものだが、降りしきる雨を全面ガラス越しに屋内から描きとっている。この太田の雨は、人物が登場しないこともあるが、陽ざしを歓迎する都会生活の人が抱く雨への感触を引き出す。梅雨になったなあという感触だけでなく、よく降るなあと慨嘆するような響きを感じる。一部の雨粒が、ちょっと宙に浮いて跳ねているようにみえたのも、印象に残る。
祖父母も、私の眼には、若く見える。50歳代の後半か。顔つきが南アジアのドラヴィダ族系といおうか、東南アジアの少数民族のようだから年齢はわからないが、俳優の柄本明の横顔に似た祖母の顔艶は若さをとどめている。祖母の視線はまっすぐ横の遠方を凝視している。嫁はやわらかく、その方面に視線を送る。祖父は正面の(つまり、いま絵を見ている私の)少し左上を見つめるようだが、目を合わさないように視線をそらした感触がある。7歳と5歳の女の子が、私をみつめる。この大人たちの視線は、いかにもそれぞれに世を渡ってきた径庭を窺わせる。他の人と視線を合わせないようにすることが、生きる知恵でもあるかのように。だが子どもの視線は、眠っている子は別として、まっすぐに「対象」をとらえる。つまり今、観ている私が見られていると感じさせる力を持っている。そうした感触を描き出すセンスに、私は高橋俊子の絵に向かう、モチベーションとエネルギーを感じる。
何より高橋俊子の描き出す人物の、手と足と、それぞれの指の大きさと子細が、観ている私のなかに(描きとる人物への視線の)慥かさを感じさせ、私自身の人間観の安定感を掬い取ってくれる。これはうれしい。
当日の会場では、その道の専門家が「解説」しながら案内する(何かのグループの)催しがあったのか、後ろからマイクで話し、それについて廻る数十人の人たちがいた。耳に入って、ひとつ気になった解説のことば。
「初入選は誰にとってもうれしいものです。だがそれが積み重なって何度も出品するうちに、なんであいつがこんなに優遇されるのだとか、どうして私のはこんな扱いなのかと、思うようになる。画家というのは、妬み嫉みの塊なんです」
そうか、高橋俊子さんもこうした海の中を泳ぎ、いまこうして、このような絵にたどり着き、「生きる」を描いて孤高を誇って来たのかと、彼女の絵を描く人生の径庭へ思いが走った。いつか機会あれば、そんな話も聞いてみたいと、ふと思った。
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