2018年9月25日火曜日
手ごたえのない空なしさが残る
半藤一利『歴史と戦争』(幻冬舎新書、2018年)が図書館から届いた。昭和五年生まれの人に私は、親しみを感じる。同じ午年ということもある。昭吾と名づけられた知人は、進駐軍相手に覚えたべらんめえ英語を駆使して敗戦後の日本復興を担い、しかしその体に沁みついた戦争体験を片時も忘れることのできない目を、政治や社会にむけている。そのひたすらさに敬服しているからだ。
半藤一利も、その一人。歴史学というよりも、日本の敗れた戦争がどのように始められ、どのように進められ、いかに敗れ、にもかかわらずその当事者たちは、その後をどう生きているかと、執拗に追いかけて記してきた。おやまた書いたのかねと思って、図書館に「予約」した。
また書いた、のではなかった。幻冬舎の編集者が半藤をよく知る別の(やはり)編集者に依頼して、彼の著書から選び出した「箴言集」であった。幕末から敗戦までの日本の流れを飛び石を踏むように辿っている。それを読むのは、まるで日本近代史を鳥瞰する視線を得たような気になる。そして何とも、読みごたえというか、手ごたえのない空白が胸中に残るような感触が湧いている。なんだろう、この空しさは。
半藤が、戦後生き残った将校たちに取材して聞いている言葉が記されている。だが一様に口を閉ざして語らぬか、意気軒昂に日本防衛論をまくしたてる辻政信らの全く反省の色もない様子が筆致で描き止められ、「なるほど、この雄弁をもって作戦化をリードしたのかと合点し、大いに納得するところがあった」と記す。私は、ノモンハンの作戦を強行した辻政信とそれを許容し、のちに現場指揮官に責任を負わせて知らぬ存ぜぬを通した関東軍の将校たちを想い起した。
ゲラ刷りをみせられたとき半藤は「……ひっくり返った。なぜなら……わたし自身をいやというほどみせられたからである」とあとがきに記す。「一所懸命に生きてきたこのながいわが生涯を、あらためて生き直す感を味わわされた」と感じたそうだ。そして、こうまとめる。
「あえて付け加えれば、わたくしをふくめて戦時下に生を受けた日本人はだれもが一生をフィクションの中で生きてきたといえるのではなかろうか。万世一系の天皇は神であり、日本民族は世界一優秀であり、この国の使命は世界史を新しく書き換えることにあった。日本軍は無敵であり、天にまします神はかならず大日本帝国を救い給うのである。このゆるぎないフィクションの上に、いくつもの小さなフィクションを重ねてみたところで、それを虚構とは考えられないのではなかったか。そんな日本をもう一度つくってはいけない、それが本書の結論、と今はそう考えている。」
読後に感じた虚無感は、この本に感じたというよりも、この本に書かれ置かれた日本近代史に登場する政治家や軍人たちに感じた空しさだったように思う。思えば、司馬遼太郎が日本のエリートたちをモデルに幕末から日露戦争までを描き出すことはできたが、その後の日本の歩みを、ついに「物語り」にすることができなかったのは、そこに崇敬に値する生き方をしている姿を認めることができなかったからだ。つまり、日本のエリートは、昭和二十年の敗戦で終わったのだ。
ではその後の日本は、誰がリードしているのか。敗戦に導いた元エリートたちやその衣鉢を継ぐ人たちが、反省のないままその席についているのか。とすると、その人たちを推しだしている民草もまた、反省をしていないのか。反省のないまま、次元を変えた競争場面の経済一本やりで、欧米の先輩国を見よう見まねで追いつき追い越せをやってきたかもしれない。何にも変わっていない。
近頃の、繰り返し「日本人・大坂なおみ、全米オープンで優勝」を持ち上げる報道やアジア大会で金メダルがいくつと誇らしげな場面を観ると、やはり世界一(アジア一)優秀な日本人像にすがりたいのであろうか。そんなことを、思う。外にモデルを求めて、わが身を写していこうとするのをやめて、いい加減目を覚ませよと、幕末の志士たちも含めて「反省」を求めたくなる。いうまでもなく、司馬遼太郎にも。
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