2018年10月29日月曜日
団地住民のミーティング
ここ一週間ほどの間、小さな住民ミーティングを行っている。目下、団地の修繕積立金の値上げを策定している。管理組合規約には、ひと月以上前に「説明会」を開いて後、「総会」にかけて決議するという手順も定めてあるのだが、型通りに運べばいいわけではないという副理事長の提案ではじめたもの。お勝手の言い分に耳を傾けてみることが大切という、女性らしい発案。それに付き合って、平均して十人ほどが集まる小規模の集会を8回ももつことになった。現状の説明は副理事長が行うのだが、理事長の私が冒頭のご挨拶をすることになって、全回顔を出してきた。住戸の3/4が出席の返事をしてくれた。入居以来28年も経過した団地であるのに、初めて顔を合わす人も少なくない。また、私にとっては9年毎、4回目の理事であるから、いつであったか一緒に理事をやったという顔にも、久々にお目通り願うことになった。
2018年10月26日金曜日
神なき里の心の負担
昨日(10/25)の朝日新聞「折々のことば」。
《本来は自分がやるはずの自炊を、誰かが代わりに朝から働いてやってくれているから「たすかる」店だと。 按田優子》
引用者の鷲田清一は、こうつづける。
《……「たすけて」は惨めで言いづらいが、「たすかる」なら素直に言える。「してあげる/してもらう」という心の負担なしに互いを思いやれる関係だから。》
関係における「能動/受動」の醸し出す「心の負担」が、中動態によって軽減される。そう仕向ける思いやりが中動態に隠されていると、解釈している。意志が働くと、その意志の向かう先の人に心の負担をかける。見返りも何も求めず、ただ然るべくそうするという「たすく」行為が、それを受ける人にも天の恵みのように受け止められ、「たすかる」。この関係を自然(じねん)といい、私たちを取り巻くことごとに「神」が宿るように感じて過ごしてきた。それが「くに」に生まれ暮らしてきた私たちの宗教観であった。それを鷲田は「心の負担なし」という。神(への感謝)が消え、人が人びとと関わると考えられるようになって、「迷惑をかける/かけない」というようになった。須らく人もまた神仏になるという信仰が無くなった、神なき里の心の負担というわけである。
2018年10月25日木曜日
身を包むもの
衣替え。十月一日になると、そう思って来た。でもそれは「昔の話」。彼岸までと言われた寒暖の区切りが、どんどん後に延びている。やっと十月の後半になって、秋らしい気配が街に漂う。気温が二十度を切るようになると、衣替えの気分になる。
2018年10月24日水曜日
社会システムの潤滑油の無常観
今日の(10/23)朝日新聞は、外国人「実習生」の労働状況が大変厳しい報じている。いつかも世界第4位の「移民大国、日本」と報道されて驚いたことを記したが、ことに地方の労働現場では高齢者しか集まらず「技能実習生」という名の(低賃金)労働者に頼らざるを得ず、彼らが都会へ流出する様子が浮き彫りになっている。雇い主の方までが、これでは逃げ出すのは仕方がないと、彼らに同情的な言葉を口にしている。
2018年10月23日火曜日
改造人体と人体の構造
「トミー・ジョン手術」と聞くと、大谷翔平を想い起す。だが、トミー・ジョン手術というのがどういう手術かを私は知らない。剛速球を投げると傷めてしまう肘か肩の人体補強手術と思っていた。少し詳しくというか精確にきくと、剛速球を投げるために断裂する肘の靱帯を取り換える手術のようだ。別の組織からもってきた筋を移植し、新しい靱帯として使えるように養生して育てる。この養生に一年半ほどかかるという。これって、でも、ドーピングとどこが違うの? と思ったね。傷めてから取り換えるか、限界を超えるために薬剤を服用するか。いずれにしても、人体の弱点を目的に合わせて(人工的に)改造するってことではないか。ドーピング違反のモンダイもパラリンピックの記録が健常者のそれを越えることもおころうから、そのとき人間ってなんだとか、人体ってどこまでを「パラ扱い」するのかってことも、これから大きな問題になってこよう。
2018年10月21日日曜日
しつけと体罰
10/18の朝日新聞「しつけと体罰」欄に西澤哲・山梨県立大学教授が「有能感得る親 子は他律的に」と見出しを付けて書いている。そのなかに「日本ではいつから体罰をするようになったのでしょうか」と自問し、30年以上日本で暮らした宣教師ルイス・フロイスは「日本では子どもを育てるのに懲罰ではなく、言葉で戒めている」と書いていると紹介して、「明治期以前は日本で体罰はなかったようです」と論じている。たしかに、ルイス・フロイスは西欧と比べて放っておいて育つ日本の子育て風土を微笑ましく(好ましく)受け取ったのかもしれないが、同時に、そのように育った子どもがどうして世の中に出て規律を守るようになるのか不思議に思ったと書いていたように思う。西澤哲は、その不思議に応えていない。
2018年10月19日金曜日
切れ味
何ヶ月か前になるか、TVで「職人技」を扱った番組を観た。カミサンも見ていて、
「いつかこんな切れ味の包丁が欲しいと思ってたんだけど、取り寄せられるだろうか」
とつぶやく。
「ああ、いいよ。ネットで調べてみようか」
と応えて、岐阜県の関という地名と「和」という包丁の銘を打ち込むと、三星刃物(株)のホームページが出て、注文受付がなされていた。むろん、すぐに注文した。
ほどなく返信があった。
「注文が殺到しているため、三か月ほどお待ちいただくことになります」
地底から湧いてきた「暮らし」――鳥甲山
一昨日から2日間、鳥甲山へ行って来た。何しろ山深いところに位置している二百名山のひとつ。越後湯沢からレンタカーで入り、苗場山に連なる山の北の方、いわゆる魚沼地方の平地へ回り込んで、国道405号線を南下する。すべて一般道を走る。どんどん山深く、中津川の谷筋を下方にみながら辿る。ところどころに扇状地らし広く開けたところがあるものの、道は山体の中腹をぐるりと経めぐって標高が高くなる。いや、こんなところに人が住まわっているのだと、同行のひとりが、ため息をつくように声を出す。
2018年10月15日月曜日
上向きに生きる力の源泉
今年の五月、シルクロードの旅に行ったときのことを記した。十数年前から何度か中国を訪ねている。そのときどきの社会と人々の変貌に目を瞠る思いがしてきた。地域ごとの違いも大きいものがあるから一概には言えないが、蘭州から敦煌にかけての旅の途上では、近代化が急速度で進み、それに見合ってか、そこに暮らす人々の振る舞いも、しっかりとスマートになっているように思えた。その変化は、私たちが経てきた1970年代の変貌に似ていると私は感じた。昨日よりは今日、今日よりは明日がよくなるという「希望」があったからだと、振り返って思う。その「希望」は、後にエコノミック・アニマルと批評される類のことではあった。だが、「一億総中流」と名づけられるほど(おおむね)どなたもが潤い、暮らしがよくなる感触を持つことができていた。
2018年10月14日日曜日
道徳は教育できるのか(8)静かで控えめな日本人はヘイトスピーチの人と同じ
村山早紀『桜風堂ものがたり』(PHP、2016年)が読みづらい。なぜなのだろう。そもそもどうしてこんな本を図書館に予約したのか、思い出せない。カミサンは読んだよという。彼女が借りて読んでいたのが、気になったからなのか。
ライトノベルというのであろうか、メルヘンチックな「ものがたり」だ。登場する人物は、内向きの気質、静かに自分の好みの本に向き合う。あるいは、自分の想いを伝えることにいつも戸惑い、起こったことに責任を感ずる。あるいはまた、武道をやって闊達、溌剌なのだが、友人を気遣って己を控える。いずれも書店の個性的な優れた店員という設定。本を愛し、任された書棚は同じ書店員からも注目を集めるほど。私の好みにも合っていて読みすすめる。そこに事件が発生し、「ものがたり」は展開するのだが、それがどうにも読みづらい。
2018年10月13日土曜日
道徳は教育できるか(7)秩序維持はモラルよりも法で
「人って変わらないものだ」ということについて、少し触れておきたい。
戦後の日本国憲法下で私たちが「自由」や「平等」を、天然自然の「権利」(天賦人権説)として、身に沁みこませて育ったことは間違いない。でも「江戸しぐさ」的に淵源を辿ると、五か条のご誓文や聖徳太子の十七条憲法にまでさかのぼって「徳」を言い立てることもできる(もっとも役人への戒めであって、万民へのものではないが)。それでもそれらに誇らしさを感じるのは、ただ単に私たちが西欧の物真似をしているだけではない、民主的な精神に通じる伝統の足がかりをもっているといえたからである。ま、そういうふうに、人は遡って歴史を構成するものだと言える。
2018年10月12日金曜日
道徳は教育できるのか(6)規範の自叙伝的移ろい
人が成長過程で身につける規範感覚や道徳観というのには、見様見真似で身につける無意識の模倣と意識的な模倣(=真似)とがある。前者は体で覚えたもの。大人の側から言うと「養育」と呼ぶ。後者は生まれながら身に備わった「人間のクセ」だが、大人の側はそれを「教育」と呼んでシステム化してきた。いずれにせよ私たちがモンダイにしているのは、育てた私たちの子どもの世代(以降)の「規範」になる。とすると、私たち自身が生まれ育つ過程で身につけたものが、大人になり社会を担っていく過程の、時代の荒波にもまれているうちに変容し、それを見様見真似で身につけてきた若い人たちのそれがモンダイだと指摘していることになる。
2018年10月10日水曜日
いかにも里山の奥久慈男体山
今日の関東北部は山歩きの好天。陽ざしも入る曇り空。じっとしている分には暑くない。二週間前に歩いた奥久慈男体山の別ルートを確認のために歩いてきた。静か。二人の登山者にあっただけ。二人とも車で大円地まで入り、男体山の(たぶん)健脚コースを上がり、一般コースを降ったと思われる。私は、二週前に健脚コースから登り、稜線上を西の月居山まで縦走したが、一般コースと上小川駅への下りを歩いていなかったので、そちらをみてみようとしたわけ。一人は下山しているときに会い、もう一人は、男体山の山頂で出会った。静かな山だ。
2018年10月9日火曜日
作家の作為が入りすぎる
東野圭吾『殺人の門』(角川書店、2003年)を読む。TVドラマの原作などでは売れっ子の作家。図書館の棚で手に取って、持ち帰った。なるほど評判の作家だけあって、物語りの全体の構図は、起承転結がしっかり決まっている。それが逆に、ストーリーの骨格をしっかりさせるために、登場人物の立ち位置を決めすぎていて、後ろで操る作家の作為が行間から垣間見えてしまうような感じがした。
2018年10月8日月曜日
道徳は教育できるのか(5)矛盾的に生きているのが人間
道徳が社会規範であり、「心の習慣」として自ずから身につけるものというと自然主義的な傾きが強い。和辻哲郎が説いた、自然環境が民族の気質を決めるような響きすらある。自分自らの規範がどうかたちづくられたかを考えてみると、いつしか身に着いたことが多いことに気づく。ま、これは当然で、「気づく」というのは、すっかり成長して「自我」も出来上がってきてからだ。そこまでの、中高校生になったころまでの「わたし」には、育んでくれた家族や兄弟姉妹、地域や「くに」という「環境」が社会的気風として培う「かんけい」の文化が組み込まれ反映されている。「わたし」にとっては所与のこと、つまり自然である。
2018年10月7日日曜日
シノビが保つ人の矜持
横山秀夫『影踏み』(祥伝社、2003年)を読む。図書館の棚で見つけ手に取った。この作家の『半落ち』や『64』を読んで、人を見る目に確かさを感じていたからだが、新作ではなく、15年も前の作品だった。人の奥行きの複雑さと玄妙さ、その根底のところで保たれている心情が、普通に暮らす私たちの忘れ去ってしまったことであるところが上手に描き出されている。面白かった。
2018年10月6日土曜日
道徳は教育できるのか(4)文化をどう継承するか
10/2の(2)につづける。若い人の振る舞いが年寄りの癇に障るというのは、今に始まったことではない。謂うならば世代間の文化落差だ。前回の冒頭に掲げた「廃れた道徳」の指摘の《(2)困っている人に電車の席を譲るのは、車両のどこでも同じ。「優先席」は本来無くていい》というのも、若い人の振る舞いというよりも、電車経営側の「配慮」。言葉を変えて言うと、社会の側の「道徳観」の反映ではないか。困っている人を扶けたいというのは電鉄経営側としては、褒められる配慮だろう。だが、それを車内アナウンスで繰り返しても、そうはいかないのを目にすると、「優先席」を設けて困った人の援けにでもなればと考えるのは、一つの策だ。乗客のもめごとは避けたい。《「優先席」は本来はなくていい》という人は、「困った人に席を譲る」ことが自然に行われる風潮を良しとしているのがわかる。
2018年10月5日金曜日
ドキュメンタリーとは何か
今にも降りそうな曇り空のなか映画を観に行った。ロバート・フラハティ監督(映像)+モニカ・フラハティ監督(音声)『モアナ――南海の歓喜』(1925年+1980年音声+2014年デジタル処理)という、ややこしいつくりの映画だ。無声映画としてつくられた映像に、娘の監督が半世紀後に音声をつけ、さらに34年後にデジタル処理されて今の映画になったと、チラシは紹介する。
2018年10月4日木曜日
賑わう首都圏のハイキング・フィールド
晴れの昨日(10/3)、高尾山に行った。山の会の「日和見山歩」、チーフ・リーダー(CL)はkwmさん。じつは当初、サルギ尾根を登って御嶽山をめぐる予定であった。ところが10/1の深夜、台風24号が来襲した。お蔭でそのあとの三日間、晴れの日が続いたのだが、平地では台風の被害で大騒ぎであった。わが団地でもハナミズキの大きな木が2本倒れ、その始末はたいへんであった。多摩地方の被害も大きいと報道があったので、kwmさんが関係エリアに問い合わせたところ、サルギ尾根は倒木が多いだろうが確認できていない、上ったところのロックガーデンは通行禁止などと聞かされ、高尾山に行き先を変更した。ここは、彼女たちのトレーニング場。週一回のトレーニングに、それぞれが近辺を歩き回っている。ときどき、おや、こんなところで、とご挨拶することもあったという。
2018年10月2日火曜日
道徳は教育できるのか(3)何を「道徳」と呼ぶのか
Seminarの場でtkさんの使う「道徳」という言葉は、ずいぶん広い幅を持っている。
(1)日大アメフト部・非道タックル問題選手の「自己判断力」の土台にあるメンタリティ。
(2)困っている人に電車の席を譲るのは、車両のどこでも同じ。「優先席」は本来無くていい。
(3)子どもに体罰をしたことがあるか(一様に体罰はダメというのでいいのかというニュアンス)。
(4)喧嘩にしても、程度を心得ない。殺してしまうまでやる。限度を知らない。
(5)「江戸しぐさ」など日本には良き「道徳」があった。それを教えていない。
(6)「教育勅語」も、中身をよく読めばなかなかいいことが書いてある。それを伝えることが重要。
などなど。私は聞いていて、tkさんは、今の時代状況に苛立っている、と思った。たぶん日頃目にすることごとが、彼の身につけている「道徳観念」と齟齬し、軋轢を引き起こしているのではないか。ところが彼もそうだが、後期高齢者はその「状況」に対して何ごとかをなす立場を持っていない。せめて「提言」のような形で書きおいて伝えられないか、と。
2018年10月1日月曜日
道徳は教育できるのか(2)実態的な事象表現が道徳の限界
Seminarにおいて講師のtkさんが「江戸しぐさも道徳の教科書に載っている」と触れたのを聞いて、どこかで「江戸しぐさは都市伝説」と耳にしたことを思い出した。このブログを検索してみると2017年6月2日に、当該の記事があった。長いが、もう一度掲載して、そのあとへSeminarの報告をつづける。
台風の落とし物
昨夜の風は強かった。何時ころかわからないが深夜、窓の外がびゅうびゅうと音を立てて唸る。街路樹のハナミズキの枝葉が揺れるだけで、こんなに騒がしくなるものだろうか。どこかでかた~ん、かた~んと規則的に、物と物がぶつかって立てる音が挟まっている。ベランダに置いた自転車の雨覆いが飛んでしまったろうかと思うが、起きてどうにかしようという気にならない。
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