2018年10月24日水曜日

社会システムの潤滑油の無常観


 今日の(10/23)朝日新聞は、外国人「実習生」の労働状況が大変厳しい報じている。いつかも世界第4位の「移民大国、日本」と報道されて驚いたことを記したが、ことに地方の労働現場では高齢者しか集まらず「技能実習生」という名の(低賃金)労働者に頼らざるを得ず、彼らが都会へ流出する様子が浮き彫りになっている。雇い主の方までが、これでは逃げ出すのは仕方がないと、彼らに同情的な言葉を口にしている。


 そう言えば先月、石川県の山中温泉であった高校の同窓会での話しが思い浮かぶ。彼は現役のときには全国の酪農関係の仕事をやっていたのだが、港湾の仕事などに欠かせない労働者を手配してくれたのがヤーさんだったと話して、聞いていた喜寿にもなろうという連中を驚かせていた。この世代は、街中にテキ屋やヤクザが目立っていた時代に少年少女時代を過ごしているから、驚く方が可笑しいと言えばおかしい。だが、暴力団対策法が施行され、最強の暴力団「国家」がアガリを独占すべく暴力団封じ込めから壊滅へと舵を切っていて久しいから、市民としては「エッまだヤーさんがそんなに活躍する世間てあるの?」という驚きであった。つまり、すっかり潜ってしまったと思っていたヤーさんたちが、そんなおおっぴらに生きているんだと感心したのだ。ということは、暴力的要素がどう張り付いているかは別として、社会的にそのような手配師を必要とする「関係」は歴然とあるということだ。システムが整備され「コンプライアンス」とカタカナで呼ばれる合法性が整っているとは言え、要不要が日ごとに凸凹している労働需要に即応的かつ弾力的に応える細かいところを埋め合わせるのは、悠長なお役所(的)仕事では賄えないということだろう。昔風に言うと、3K現場の労働需給の潤滑剤と言える。

 吉田修一『太陽は動かない』(幻冬舎、2012年)を読む。話しの展開現場は、諸国家と大企業と情報と競争関係が錯綜する世界の、いわばヤーさんの活躍物語。いうまでもなく国家も暴力的要素を含むモメントの一角を担う。活躍という明るさはなく、優勝劣敗の力が支配する世界を潜り抜けて情報の獲得と売買をしなければならない立場に置かれたヤーさんの悲哀が、儲けの損得と扶助の貸し借り関係を通して描かれる。まあ、現代の活劇だが、正義が勝つというストーリーでないことが、リアリティをもたらしていると言える。むろん作家の浮き彫りにしたい人間像が底流におかれているが、これも現代的システムの潤滑油として、使い捨てにされる人びとの姿に見える。

 私ら庶民が、ま、そこそこ平凡な人生を送っている限り目にすることのない「世界」である。しかし社会が動くという狭間には、無数のこのヤーさんのような人間の悲哀を象徴する人生が累々と積み重なっている。そしてそれらの悲哀など、まるでないかのように社会システムは確固としている。それは私ら庶民の目に映る「世界」同様に、まるで太陽は動かないようである。

 吉田修一は全編を通じて、個々の人生というものの無常を謳っているように思った。話しは活劇物に過ぎないから読み飛ばせばいい。だが底流する作家の人生観に私は共感をもって読みすすめていると感じていた。決してシニカルとかニヒルという否定的な感触ではない。むしろ東洋的なというか日本的な、懐かしさをともなう無常観を感じとって身体ごと頷いているように思ったのだ。

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