2018年10月1日月曜日
道徳は教育できるのか(2)実態的な事象表現が道徳の限界
Seminarにおいて講師のtkさんが「江戸しぐさも道徳の教科書に載っている」と触れたのを聞いて、どこかで「江戸しぐさは都市伝説」と耳にしたことを思い出した。このブログを検索してみると2017年6月2日に、当該の記事があった。長いが、もう一度掲載して、そのあとへSeminarの報告をつづける。
****「江戸しぐさ」は現代の都市伝説――なぜ人は物語りを信じるか
モンゴルへの行き来に読んだ本のことに触れる。原田実『江戸しぐさの正体――教育をむしばむ偽りの伝統』(星海社、2014年)。なんでこんな本をもってきたろうと思いながら、機内で開いた。たぶん、私の関わるSeminarで「江戸・東京」を取り上げたときに、タイトルが気になって図書館に予約したものが、時期を外して届いたからであろう。
この本によると、「江戸しぐさ」ということが流行りらしい。公共広告機構JAROのコマーシャルで使ったり、「NPO法人江戸しぐさ」が活動していたり、ついには道徳の教科書に採用されたりしているという。原田実はその「江戸しぐさ」の虚実を、一つひとつ解きほぐしていき、大正末から昭和初期に生まれた(生年に違いがある)とされる一人の人物に行き着く。「江戸しぐさ」はその人物の(変貌する時代に対する)反骨の感懐の断片であり、しかも本人は口承以外は門外不出とする矜持をもっていたそうである。それを聞き知り受け取った何人かの人たちが、文章にし、書籍にして大々的に広めていったと、子細に追跡してあきらかにする。
それがちょうど、1990年代の半ばからつづいていた「失われた二十年」の経済環境下に、藁にもすがりたい経営者の気分にもマッチしたのであろう。NPO法人が起ちあがりJAROの広告に採用され、さらにそれが道徳教育推進の保守政治に組み込まれて、原田が記すような「江戸しぐさ」ブームにいたったと考えられる。つまり、「江戸しぐさ」は現代の都市伝説だと断定する。
原田が本書を書き記したのは、この現代の都市伝説が「教科書」に採用されているからと本書の副題が示す。たしかにその通りだ。今の政府のやり方をみていると、なんでも利用できるものは利用する、根拠も正当性も正統性も、認知・承認するのは「政権」なのだといったあざとさがある。だから、そうだねえ、やりかねないねと頷く。と同時に、なぜ人は、そのような物語を信じるのだろうかと、私の思いは移る。原田はそこには踏み込んでいない。
つまり問題は、「江戸しぐさ」の史的真実性や科学的真理性にあるのではない。これを好感する人々にとって「江戸しぐさ」の表現していることごとは、「まことであってほしい」期待感に充たされている。「あらまほしきしぐさ」は、「失われたしぐさ」である。それがなぜ失われたかと考えると、あきらかに近代化への歩みのせいだと思うと、わかりやすい。だがもう少し踏み込んで考えると「失われた」わけではないと思い当たる。そもそもそれが存在したということ自体が夢ではなかったか。日本の近代化のベースが江戸期の商取引などに見出されると経済学はいう。その論説の背景には、ヨーロッパでは「プロテスタントの倫理と資本主義の精神」が近代の基礎になったと説く。つまりヨーロッパと同様のベースが日本にもあったと論述する(資本主義への近代化は西欧からの輸入品ではなく日本独自の正統性を持つ)意味も持っている。
「江戸しぐさ」という都市伝説は、「失われた二十年」やそれにまつわる今の時代状況が、欧米由来の、あるいはグローバリズムというアメリカンスタンダードに振り回された結果もたらされたものだという、自尊の根拠の揺らぎを表している。欧米によるものではなく、私たち自身のふるさと「江戸」には、しっかりした土台があったという話は、私たちの自尊をくすぐる。真実性や真理性はともかく、それは「いいね」と反応する。都市伝説はそのようにして生まれると、よくわかる。つまり、都市伝説は、私たち自身の内心の揺らぎに存立の根拠をもっているのである。
教育現場に取り込まれるひとつの契機をつくっているのが、TOSSという教育技術化集団によるとも、原田は書いている。向山洋一という名を聞いて、教育法則化運動を思い出した。むかしこのグループの評価をめぐって教育研究グループでやりとりしたことがあった。「法則化」というのは、いろんな児童生徒を抱えて、どうやったらいいのかと悩む学校現場の教師たちにとって、とても魅力的に思えた。誰がやっても、児童生徒の能力が発現されて「できる」ようになるというマニュアルは、たいへんな広がりをみせていた。だが私たちは、これを高く評価するのをためらった。なぜか。想定する人間のイメージが画一化されているように「感じた」からであった。近代の学校教育というのは、「人間」に画一化するものではあるが、人間を画一的にみるものではない。この矛盾を抱えて現場に臨むのが教師だと思っていたから、マニュアル的な「法則化」に、馴染めないものを感じたのである。
だから、道徳教育の教科書に都市伝説が載ったことは、学術的な精華を誇る文部行政の問題としては大問題であろうが、学校現場の教師にとっては、民話やジャーナルなトピックと同じである。掲載されていることが問題というよりも、それをどのように「素材」として教室で読みこなせるかが、教師にとっての問題なのだ。とすると、まさに都市伝説を必要とする人びとの心情に思いを致して、子どもたちに解き明かして見せる力が必要ではないか。もしそれを外して、原田の言うように「真理や真実に違う」と述べても、トランプに勝てなかったクリントンの憂き目を見ることになろう。子どもたちの道徳にはかすりもしない。
ここは道徳教育を論じる場面ではないので、これ以上踏み込まないが、教師自身が己を対象化して、世に起こるコトゴトをみる視線を手に入れること、これしかないのではないか。逆に言うと、私は何を真実・真理とみているか。それをつかんでこそ、人に語れる何かの足場を得たということができるように思った。(2017-6-2)
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「江戸しぐさ」ばかりではない。TVの「クール・ジャパン」も「大坂なおみ 全米オープン 日本人初優勝」も、何だか自画自賛ものばかりだ。比較文化論というよりも、ちょっとでもいいところを探し出して、「世界一の日本」を自画像として描き出したいような衝動が、メディアばかりでなくそれを受け止めている視聴者にも、満ち満ちているように思える。裏を返すと、よほどここに協賛する「日本人」は自信を喪失しているのかと思うほどだ。
「江戸しぐさ」を云々するのは、上記のブログにも記したが、「あらまほしき」期待感を表現している。ヨーロッパ発の文化ではなく、日本オリジナルの文化的伝統の上に私たちの現在が築かれていると明かしたい心もちがある。ひょっとすると、敗戦後の占領からはじまって、アメリカ文化に心惹かれ、身も心もすっかりしてやられた感触への反発が、振り子が左から右へうつるように、私たちの心裡で振れているのかもしれない。ま、それはそれで、だからと言って非難されるようなことではない。だがそれを「道徳教育」の正統性のように唱えるのは、ちょっと違うのではないか。
道徳というのを私は(共同的に暮らしている)社会の共通規範と考えている。欧米科学の研究者に言わせると、私のいうのは「倫理」であって、それを保持する「個々人の、心の根柢に根ざしている(感性や感覚という)性向」を道徳というらしい。因みに私は、「倫理」というのは「道徳の普遍的なかたち」と理解してきた。つまり、人類一般に通有する類的普遍性を「倫理」と言い、ローカルな次元で現れる規範を「道徳」と呼んできたわけだ。「道徳」は「心の習慣」である。
そう考えると、道徳というのは、共同体に生まれ、共同体に育つ人が、生きる上で必要とする社会への適応のかたちが生み出した「規範的振舞い」である。つまり「道徳」に「正統性」は必要ない。もし「正当性」が問題になるとしたら、社会集団において「ふさわしいかどうか」が問われたときであろう。社会集団というのを、ちょっとイメージしてもらいたい。私たちが属する社会集団というのは、時と所によって、移り変わる。家庭や学校の教室という固定的な社会集団にも属することもあれば、映画館やショッピング・モールや電車の中などという、不特定のしかしある時間と空間にともに存在している社会集団もある。そのときどきの「規範」というのは、「あいさつをしましょう」とか「親切にしましょう」とひとくくりにするわけにはいかない。電車の中で(親身になって)「親切に」していたら痴漢に間違われる。映画館では「放っといて」という対し方がふさわしい。つまり、時と所によって変わる、人と人との「かんけい」がその「規範」をふさわしいかどうかと判断する。構成員によって、その基準は揺れ動く。タイトな関係ならば、序列にうるさいこともあろう。長幼の序を重んじる規範もあれば、役職の階梯を重視する規範もある。
ということは、「江戸しぐさ」や「教育勅語」の正統性を重んじる規範もあるわけだから、それを(道徳として)説くときには、誰が誰に向かってどのような場でふさわしいと言っているか、説明しなければならない。tkさんが「教育勅語」の規範性を正統性として説いたとき、「それを説いていた人たちが指導者であった時代の戦争で、戦地に送りだされた兵士の兵站を確保することもなく、7割が餓死した。それで臣民を慈しみ……と言われたって、誰も耳を貸さないのは当たり前でしょう」と非難が飛び出すのは、「教育勅語で共有できる日本人」という共同的括りがすでに消えてしまっていることを示している。「ふさわしい」のは、横井正一のように自力で生きろ、生きつづけろという自前の規範であった。それを戦後は「勝手でしょ」と表現したと、私の記憶は残している。むろんそれも変容していったから、今になって、教育勅語を暗唱させる幼稚園も出来するわけだが、それはそれで、それが(現在も)正統であることを縷々説明しなければならない。そうでないと、ただ単に、「俺は和菓子がいいな」と言っているだけのことに終わる。
むしろ私は、「これが道徳だ」と提示するより、「どうして道徳は廃れたのか」と考える方が、(社会や人との)「関係」を省察する上に意味がある、と思っている。私たちの生きてきた時代が、まさに、確固たる伝統的規範の社会から、規範が崩れ、ほとんど動物のようにして生きてきた混沌の時代だったからである。そうしていま、この地点で、規範がさほど崩れていない「私」を自覚するなら、なぜ「私」は崩れていないか、でもなぜ「あの若者たち」は道徳を身につけていないのかと、較べてみるといい。すると私たちの過ごしてきた幸福な時代と環境、今の若者たちの生きている時代と環境の違いに思索が及ぶのではなかろうか。それこそが、「後期高齢者が残す道徳に関する考察」にふさわしいと思う。(つづく)
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