2018年10月13日土曜日

道徳は教育できるか(7)秩序維持はモラルよりも法で


 「人って変わらないものだ」ということについて、少し触れておきたい。

 戦後の日本国憲法下で私たちが「自由」や「平等」を、天然自然の「権利」(天賦人権説)として、身に沁みこませて育ったことは間違いない。でも「江戸しぐさ」的に淵源を辿ると、五か条のご誓文や聖徳太子の十七条憲法にまでさかのぼって「徳」を言い立てることもできる(もっとも役人への戒めであって、万民へのものではないが)。それでもそれらに誇らしさを感じるのは、ただ単に私たちが西欧の物真似をしているだけではない、民主的な精神に通じる伝統の足がかりをもっているといえたからである。ま、そういうふうに、人は遡って歴史を構成するものだと言える。


 ただ、自分たちのご先祖が苦労して勝ち取った「概念」ではなかったために、「自由」と「平等」が、どんな土台の上に築かれたものかを思慮しなかったし、両者が齟齬する質のものだとは受け止めていなかった。つまりずいぶんと観念的な「概念」に過ぎなかった。たとえば、「自由」と「平等」が対立する概念とは考えなかったから、その双方を調整するモンダイについて自分たちで考えたこともなかった。そういう意味では、自分たちが過ごしてきた共同体的関係の中で受けとめられた「我流の観念」であった。だから、互いの迷惑を考えて振る舞う「自由」が前提にあったし、相見互いという「平等」へ通じる感覚も、烈しく争うイメージをともなっていなかったと言える。

 だが現実社会は、敗戦を経てすっかり国家という共同性が廃れ、人びとは社会に適応して生きる道筋へ舵を切り、その社会も、経済的関係の変化と変貌によって、文字通り自由に振る舞える舞台となった。優勝劣敗というが、優れた人は利益と称賛を手に入れ、それほどでない人もそれなりに潤う時代が、1980年代末まで続いた。恐らく人類史上最も物質的には恵まれた時代を(中流と言われた多数の人々が)達成した社会と、私は考えている。上り調子の時代であり、最後の十年は、日米どちらが敗戦国であったかといわれるほど、国際関係における立場も変わっていったから、国内の「格差」もさほど文句を言うほどではなかった。だがその間に、社会の共同性は姿を変えて雲散霧消し、人びとは須らく自己責任をもって生きていかねばならない様相を呈していたと言えよう。

 東西冷戦が終わったことと日本経済のバブルの崩壊が始まったことがほぼ同時期であったのは、日本社会にとっては、大きな転機であった。一挙に「市場の倫理」の時代が終わった。なんとなく中流という幻想も、吹き飛んでしまった。世界経済はグローバル化という名のアメリカン・スタンダードに踏み出し、コンプライアンスという世界標準を押し付けられて日本企業の経営も、昔日の概念を捨て去る方向へ向かわざるを得なかった。こうして「失われた〇十年」がはじまり、「統治の倫理」が幅を利かすようになり、しかし舵取りは、アメリカ追随の、大企業保護的な施策であったから、中流は衰退し、大きく二つに分裂するように格差は拡大していった。しかし私たちを含む人々の「公共の福祉」観念は変わらなかったから、先進国では珍しく弱者に過酷な「自己責任」社会が出来していたのであった。それでも、私たち後期高齢者がのほほんと暮らしていられるのは、人類史上前代未聞の富裕な時代の遺産を食いつぶしているからだ。

 こうも言えようか。「日本」という古い共同社会が解体しているにもかかわらず、古い共同社会で育てた「心の習慣」が働き、自由で平等な観念が独り歩きして、人びとのありようは「自己責任」の「自己実現」を旗印に、相変わらず勝手がってに捨て置かれている、と。ただ社会的な「安心や安全」という秩序の維持は国家として捨て置けないから、一方で道徳教育を推進する規律訓練的な国民教育を施し、他方で環境管理的に秩序を維持しようと防犯カメラの設置や法令による犯罪取り締まりに力を入れている。暴力団に対する治安維持的な取り締まりも、最強の暴力団としての国家の威信をかけた施策の一環と考えると、構図が見てとれる。後者は、「人が変わらない」ことを想定した社会環境の構成の仕方だということができる。

 人は変わらない。ならば社会管理の方法を変えるしかないではないか。そう、国家のかじ取りをしている人たちは考えているわけだが、その人たちの「倫理」がすっかり廃れているのを目の当たりにすると、果たしてそれでいいのかと、十七条憲法を引き合いに出すまでもなく、私たちは心配が尽きないのです。

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