2018年10月19日金曜日

切れ味


 何ヶ月か前になるか、TVで「職人技」を扱った番組を観た。カミサンも見ていて、
「いつかこんな切れ味の包丁が欲しいと思ってたんだけど、取り寄せられるだろうか」
 とつぶやく。
「ああ、いいよ。ネットで調べてみようか」
 と応えて、岐阜県の関という地名と「和」という包丁の銘を打ち込むと、三星刃物(株)のホームページが出て、注文受付がなされていた。むろん、すぐに注文した。
 ほどなく返信があった。
「注文が殺到しているため、三か月ほどお待ちいただくことになります」

 
 そうか、私たちのような人が多いんだね、急がなくてもいいから、無理をしないでしっかりとつくってくださいと返信する。そして何ヶ月か経った先日、モノが届いた。
 封を切ってみると、こじんまりと洒落たケースにクッションを敷いて包丁が置かれている。研ぐためか、サンドペーパーが入っている。また、「研ぎ直しをするときには」と、丁寧な説明をつけられている。ふ~ん、これは職人の仕事だなと感心しながら、瀟洒なケースと郵送の紙袋をそのまま取り置くことにし、包丁は台所の包丁差しに置いておいた。

 昨日お昼をつくるとき、ふと思い出して、この新しい包丁を使ってみた。
 いやはや、驚いた。なに、玉ねぎを切ったのだが、刃を当てると引きも押しもしないのに、すうっと刃が落ちて玉葱が切れる。
 えっ、これって、すごくない?
 と若い人なら叫ぶかもしれない。
 すうすうすうと刃が刻む。ニンジンを薄切りにするときも、切ったニンジンがぴったりと刃にくっ付いているように隙間がない。どう言えばいいだろう。包丁の刃が、その役割を心得ていて、わが手を導くように切り込んでいく。ちょっと手を引いてみると、ほんとうにつうっと刃が通る。
 これまで使っていた包丁が、まるで石器のようとでも言おうか。押し切る。引いて切る。力を入れる。だから、危なくないのだと思う。まな板の上で切り刻んだ玉葱をまとめるとき、刃を寝かしてつうっと左手の方へ寄せようとすると、新しい包丁は、くいっくいっと、引っかかる。刃を傷めているのだと思う。包丁の背の方で寄せると上手くいく。

 さて、これは怖いぞ、と思った。

 子どものころ、切れ味のいい刀を持った侍が試し切りをする話を読んだこともある。妖刀といって、次々と渡る侍の因果な話にまつわって人を殺めて回る。あれは「話」だと思っていた。だが、この包丁のような切れ味の刀を手にしたら、ふだんは胸中の奥底に眠っていた怪しげな欲望が目を覚まし、むらむらと頭を起こして試し切りをしに出かけてしまうかもしれない。

 いまでも、サバイバルナイフという両刃のナイフを持つと強くなったような気持がして、街中でも肩いからせて歩けると、つぶやく少年がいる。かの少年は、切れ味に魅入られて欲望が揺り覚まされ、その領域に魂が踏み込むと、自分の能力がぐうんと上がったように感じられて、世界を睥睨しているように思えるのかもしれない。強くなるってことは、怖いことだ。

 そういうわけで、台所に立つときの私は、一昨日までに比べて一段と慎重になった。何より包丁の扱いを粗末にできない。ちょっと置くときも、ごろりと落ちたり傾いたりしないように、周りを片付けて置く。仕舞うときには、包丁のための布巾を出して水気を拭きとり、包丁差しに、そのまま抜き出して切るのではなく、逆手にして引き出すように逆さ向けに収める。包丁差しがそのようにつくられていることにも、恥ずかしながら後期高齢者になってから気づいたという次第。

 これをつくっている職人の、スゴ技に感心するだけでなく、その技に見合う心構えをして使わないと怪我をすると教わったようなものだ。この歳になって、これほど心裡に衝撃が伝わった出来事はなかった。三星刃物の職人さんたちに改めて感謝し、人類史の到達点の奥行きの深さに思いを致すのでした。

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