2018年10月9日火曜日
作家の作為が入りすぎる
東野圭吾『殺人の門』(角川書店、2003年)を読む。TVドラマの原作などでは売れっ子の作家。図書館の棚で手に取って、持ち帰った。なるほど評判の作家だけあって、物語りの全体の構図は、起承転結がしっかり決まっている。それが逆に、ストーリーの骨格をしっかりさせるために、登場人物の立ち位置を決めすぎていて、後ろで操る作家の作為が行間から垣間見えてしまうような感じがした。
そういう読後感がなぜのこるのか、たぶん、きちんと見極めていけば、登場人物が抱える怨念や愛憎、人間に対する悲嘆の描き方に関する中途半端さが浮き彫りになるとは思うが、そこまでして、この作家に肩入れする、義理というか魅力は感じない。市井の人が、忙しない暮らしの中で簡略に抱く人や社会や金や人生に対する印象の表層を掬い取って、適当に利用しながらストーリーが流れていくから、ふんふんと読みすすめていくにつれて、先ほど読み通ってきたところがつぎつぎと姿を消して、脳裏から消え去っていく。作中に登場する人物が、周辺の人を利用していくように、ことごとく消費的で、使い捨て。唯一使い捨てにされなかった主人公が、最後に殺人の門に立つという本書のストーリーが、まるでそのまんま、文体になり、読み手の読後感にもなるような感じがした。
大衆小説の、警察物、犯罪物を読むときにも、登場人物の人生の目を覆うほどの悲惨や奥行きのある人へのまなざしに、思わず読むのをやめてしばらく物思いにふけるということが、ときどきある。(私が生きなかった)人生をこのように生きている人がいるんだと、胸中に楔が撃ち込まれるように感じて立ち止まる。これは作家の人間観が奥深くに届いているからだ。それがたのしみで、何人かの作家のものを読み拾うが、物語りの結構がかっちりしているのに、人間像が薄っぺらだとミスチョイスだと思ってしまう。たくさん物を各作家だから、なかにはそういうものもあるだろうし、15年前にはこうであったが、今はずいぶんと人を見る目に厚みと深みが出てきているよ、ということもあろう。そういう作家の力量のせいにする視線で読んでいるなあと、わが読み方を振り返る。
だが、よく考えてみると、人を使い捨てにする社会という本書の主題に通じる(表現としては薄っぺらい)感触は、市井の人の言葉や人や社会に抱く印象と見合っているのかもしれない。社会がそれを求め、作家はその気風に敏感に反応しているだけ。結構がしっかりしているというのは、社会システムが毫も揺るがないメカニックに差配されているから。当然そこでは、陰謀論的な世界観がまかり通る。しかし、そこに適応する市井の人々に厚みや深みは求められていない。YES/NOで反応する明快さと単純さと速さを要求される。あいまい、複雑、迷いなどは、メカニックの処理速度に組み込めない。適応する私たちは、いつのまにかメカニックに適応する人間へとわが身を変えていっている。本書は、そのような現代社会の反映ではないか、と思い返す。思い返したからといって、この作品が質的な転換をするわけではないが、今の時代がどういうものであるかを読み解く媒介にはなるかな。そう思った。
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