2018年10月2日火曜日

道徳は教育できるのか(3)何を「道徳」と呼ぶのか


 Seminarの場でtkさんの使う「道徳」という言葉は、ずいぶん広い幅を持っている。

(1)日大アメフト部・非道タックル問題選手の「自己判断力」の土台にあるメンタリティ。
(2)困っている人に電車の席を譲るのは、車両のどこでも同じ。「優先席」は本来無くていい。
(3)子どもに体罰をしたことがあるか(一様に体罰はダメというのでいいのかというニュアンス)。
(4)喧嘩にしても、程度を心得ない。殺してしまうまでやる。限度を知らない。
(5)「江戸しぐさ」など日本には良き「道徳」があった。それを教えていない。
(6)「教育勅語」も、中身をよく読めばなかなかいいことが書いてある。それを伝えることが重要。

 などなど。私は聞いていて、tkさんは、今の時代状況に苛立っている、と思った。たぶん日頃目にすることごとが、彼の身につけている「道徳観念」と齟齬し、軋轢を引き起こしているのではないか。ところが彼もそうだが、後期高齢者はその「状況」に対して何ごとかをなす立場を持っていない。せめて「提言」のような形で書きおいて伝えられないか、と。


 「道徳」とは(所属する社会集団の)心の習慣と、前回私は記した。tkさんも「振舞い」や「言動」に現れる事象の一つひとつよりも、それらに底流している心裡の「他者への対し方」が問題だと言いたいように思う。(1)なども、問題選手が「試合に出たい」という一心で非道なタックルを行ったのであるが、いかに監督やコーチが「つぶしてこい」と言ったからと言って、文字通りにそれを受け取って「つぶしにいく」というのは、スポーツ選手のやることではない。そのことを棚上げして、メディアは(謝罪会見をしたことをもって)いつのまにか問題選手の行為を免責し、指示・命令をした監督やコーチばかりに非難を浴びせている。これって、おかしいじゃないのと憤っているのだ。

 ちょっと横道にそれるが、スポーツの世界で相手チームの選手を「やっつけろ!」とか「つぶせ!」というのは、ごく普通に使われることばだ。そうやって敵対心を奮い立たせ、敢然と相手に立ち向かう気力を振り絞ろうとしているのだ。それを文字通り「殺っつける」とか「物理的につぶす」と受け取るのは、「ことば」が(比喩や暗喩や転喩などを通じて)象徴的に使われることが忘れられているからだ。というのも私が教師をしているとき、痛切にそれを感じたことがある。竈(かまど)をつくるため煉瓦を運んできてほしいとある生徒に頼んだところ、彼はそれをもってきて、私の目の前でドンと落したのだ。煉瓦は割れる。「なにやってんだ、バカ野郎。落としたら割れるじゃないか」と怒鳴ったら、「運んで来いと言ったからもってきてやったんじゃねえか。文句言うなよ」と言葉が返ってきた。つまり彼は私に対して(何がしかの理由で)怒りを感じていたのを、そのようにして表現したのだと私は「理解」した。いや、私の怒りがなかったわけではない。だが、そのように「理解」することで、私がその生徒より高い立場に立って振る舞わなければならない教師であると、自分を内心で位置づけて怒りを収めたのであった。「文字通り」に使われることばの裏側に張り付いた感覚や感情や思惑や思念を表明するのは、立ち居振る舞いである。そこへ視線を送ることによって、「文字通り」の意味合いを探り出し、そこへ言葉を繰り出して相手を自省する方向に向かわせる。それが教師の務めだと、(いま振り返って考えてみると)思ったのだろう。ちなみに「文字通り」でいえば、政治家や(いまや)官僚の用いる言葉が、まさに木で鼻をくくったような「文字通り」に終始して、呆れた例を、ここ数年、いくつでも上げることができる。この人たちが「道徳教育」を説いているかと思うと、もう笑うしかない。後期高齢者は、そんな立場にいる。

 そうそう、もう一つ、「文字通り」を促進しているシステムがある。それがデジタルだ。パソコンのプログラムを組むのが(一般社会で)流行りはじめたのは1980年代。YES/NOテストのようにコトを仕分けし、YESなら次の問いへ、NOならばこちらの問いへとモノゴトの選択をその都度明快にして、次々と処理する。その組み立て方法(手順)をアルゴリズムと呼ぶ。この方式は、YES/NOに迷うと、処理が進まない。その処理速度が驚くほど速くなって、今のデジタル社会が出来上がった。1980年代に生まれた人は、今30歳~38歳。社会の中堅どころにいる。このアルゴリズムについて、作家の村上龍が「アルゴリズムが身につくのは14歳まで」とどこかで書いていたのを覚えている。たしかにこの世代は、デジタル機器をいじらせると、マニュアルを読むわけでもないのに、あれこれいじって、「治して」しまう。どう操作すれば何がどうなるとあたかも承知しているかのようだ。ところが、東大合格ロボットを研究をしてきた数学者・新井紀子が、最近、「文字通り」にしか「処理」しないのが、ロボット。推理や推論、象徴的飛躍などができない。だから数理的に処理できることなら、人間よりも早く的確にすすめることがができるが、比喩や暗喩を用いる推理、推論、象徴的飛躍はできないと、見切ったエッセイを書いて、ベストセラーになっている。つまり、デジタル時代が生み出した子どもたちの「適応形態」の一つが「文字通り」であったとも言える。人間は、情況に適応しようとして自らを変容させる。そういう力を持っているから、「文字通り」を嗤うわけにはいかないのかもしれない。

 さて話を元に戻そう。非道タックル選手は、いくら監督やコーチが「つぶしてこい」と言ったからと言って、それを実行するのは選手として致命的なことだと判断できなかったのか。20歳にもなって、それだけの判断力が持てないというのは、「なにか」が欠けているからではないのか。そう考え、「道徳教育」の欠如にたどり着いたのがtkさんだったのではないか。とすると、この日大非道タックル問題をもっと掘り下げてみる必要がありそうだ。

 いつかも、どこかで私は書いたが、日大アメフト部の非道タックル問題は、それに直面した場にいた審判が、当の選手を即座に「退場処分」にすべきことであって、それをしなかったがゆえに、あれほどの社会問題として拡がりをもつ結果になった。まず「審判の問題」である。と同時に、審判にそれだけの権威・権限を与えていない、スポーツ界の態勢の問題でもある。当の審判が、試合の後で、日大のメイン・コーチに「なんであの選手を、あの後も使うんだ」と抗議口調で言ったとTVで報道していたのを聞いたとき、これを「審判の(権威・権限)問題」として取り上げない(メディアも含めた)社会風潮が、一番の問題なのではないかと私は思った。

 長く私は、日本の社会風潮の一つに「場」の論理があると(西田哲学に拠るわけではなく)考えてきた。人びとは「場」を得て初めて発言権を持ち、自己主張もできる、と。当然「場」には主宰者がおり、その人が取り仕切る。教室においては担任教師が「場」の主宰者であると、生徒たちには説いてきた。説くというよりは、そう分からせることによって、教師の指示に従うことの「意味」を説明してきたのだった。もちろん教師の不当な指示に抵抗する「権利」も認めてきたから、そういうときに訴え出るのはどうしたらいいかも、教えてきた。

 スポーツの試合場においては「審判」がそれにあたる。ところが日本の審判員は、球の飛び方を判定するだけ、試合場全体を統括しているという権限を持っているとは思えなかったし、私自身もそう考えてはいなかった。試合場において「審判」は試合そのものを統括する権限を与えられていることを、大リーグにいた長谷川滋利選手に教わった。彼がオフに日本に帰国していたときのTVインタビュー。アメリカの球場における「審判」は、汚いヤジを飛ばした観客を「退場」させる権限までもっていて、観客もまた、それを認めている、と。つまりアメリカの球場の審判は、ゲームの成立全体を任され、それを遂行する権限と責任を持っているのだ。日本の審判の権限も、その後少し改善されてきたが、それでも、球団経営者や監督や球場経営者の意見を窺わないとならない立場にとどめられている。

 別に民俗学者の所見を動員するまでもないが、日本は時間をかけて、合意に達して「衆議一決」するという文化的伝統がある。「根回し」もそうだし、「全会一致」もそうだし、「場」を取り仕切る「幹事長に一任」というのも、未だに通用する決議の仕方である。つまり、「場」の主宰者に「審判」は含まれてこない。ストライク/ボール、フェア/ファール、セーフ/アウトという、ほんの断片ばかりの「判定者」に過ぎない。そう考えてみると、日本の司法が行政や立法府に対して独立した権限を持っているように見えないことも、戦後の歴史過程を通していくつも明らかになっている。つまりこれは、「審判」に関する日本の文化的風土なのだ。絶対神をもたず、顔見知りのあいだの(世間という)共同体で過ごしてきた日本人が、共通して抱いている「規範感覚」。結局、「場」を席巻する強者にしたがうという性向を、ある程度共通して心の習慣にしているのかもしれない。

 tkさんが非道タックル選手に対して抱いている「道徳」の欠落は、独立した個人である彼自身の「責任は免れないぞ」ということだ。だが、メディアをふくめて、謝罪会見をした彼のことを、あたかも「水に流す」如く免罪してしまい、「学生である非道タックル選手」をそこまで追い込んだ監督・コーチに詰め寄った。私は「審判の問題」とはいうが、監督がもし、普通のスポーツゲームで檄を飛ばす意味合いで「つぶしてこい」と言ったのに、選手が「誤解」して非道タックルをしたのであれば、即座に彼を競技場から退場させるべきであったと考える。だがそうはしないし、「見ていなかった」と言い訳をするし、選手ともども責められて当然の応対をしていると不信感を懐いている。同情するつもりはないが、選手の個人としての自律を求めるのは、学校現場の教師をつとめた経験からすると、ほんとうにむつかしい。

 いま日本の社会は、たぶん、昔風の決定習俗を保ってきた社会規範と、戦後の政治や経済過程で求められてきた個人責任の市民的自律を求める社会規範との、長い移行途上にあると思う。百年かかるか二百年かかるかわからないが、私たち大人がそうするように、子どもたちにも自律する責任を培うように、働きかけていかねばならない。それはしかし、規律訓練的に、「道徳教育」を通じて行うのか、街頭カメラを設置するという社会的アーキテクチャーを設える方向で実現するのか。専門家たちの議論も、分かれている。でもまず、隗より始めよ、だ。専門家の意見がどうであれ、私たち大人自身が、己に愧じることのない自律的振舞いを身につけねばなるまいと、おもっている。(つづく)

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