2018年10月14日日曜日
道徳は教育できるのか(8)静かで控えめな日本人はヘイトスピーチの人と同じ
村山早紀『桜風堂ものがたり』(PHP、2016年)が読みづらい。なぜなのだろう。そもそもどうしてこんな本を図書館に予約したのか、思い出せない。カミサンは読んだよという。彼女が借りて読んでいたのが、気になったからなのか。
ライトノベルというのであろうか、メルヘンチックな「ものがたり」だ。登場する人物は、内向きの気質、静かに自分の好みの本に向き合う。あるいは、自分の想いを伝えることにいつも戸惑い、起こったことに責任を感ずる。あるいはまた、武道をやって闊達、溌剌なのだが、友人を気遣って己を控える。いずれも書店の個性的な優れた店員という設定。本を愛し、任された書棚は同じ書店員からも注目を集めるほど。私の好みにも合っていて読みすすめる。そこに事件が発生し、「ものがたり」は展開するのだが、それがどうにも読みづらい。
思い当たるのは、この作家の設定する人物が自分の好みの世界ばかりに気をつかい、外部世界との交信をしていないことか。発生した「事件」というのは中学生の万引き。書店員の主人公(のひとり)が追いかけたところ、その中学生は逃げて車にはねられて死亡する。そのことが報道されるや、書店に「抗議」が殺到し、主人公は「迷惑をかけるから」と書店を辞める。彼に好意を懐いていた別の女書店員は、万引きに気づいていたのに自分がそれを止めなかったから主人公が辞める破目になったと自責の念を抱き、悶々とする。傍らに居るその女店員の親しい友人は、彼女を気遣い、(のちに分かる)自分の思いを抑えて振る舞う。それがなんとも、もどかしい。
なんでこれに、読みづらさを感じるのか。
登場する主人公たちは、本を読み、そこに展開する世界に自分の思いを投影して静かな生活を送る。だが立ち止まって考えてみると、そのどこに静謐な読書人という様子が描きこまれているか、読んでいる私にはわからない。店長や周りの書店員が抱く評価は、ことばで表現されるが、それが彼ら主人公の変容を齎しているわけでもなく、読者に届けられる符丁のように記し置かれているだけである。これって、「ひきこもりの世界」じゃないのか。
先ほど「外部」といったが、「事件」をきっかけに主人公や書店に襲い掛かる誹謗中傷や「抗議」の数々も、ちょうどエイリアンの攻撃と同じように扱われている。外部の心情に分け入るでもなく、ただただ、なぜか激しく攻撃的に責めてくる。主人公がそれに触発されて変貌するわけでもない。「(書店に)迷惑をかける」と身を引く。
「ひきこもりの世界」と「エイリアンの攻撃」とはじつは、表裏ではないのか。愛しい「自分の世界」とワケのわからない「外の世界」。むろんこの作品は、「外の世界」に踏み込んでいるわけではないから、ただただ「愛しい自分の世界」の子細を「ものがたる」のだ。それを典型的に示しているのが、「ものがたり」の幕間に挟まっている「こねこ」の独り語りだ。猫は自省しない。外には警戒を怠らないが、「好ましく安心する」と「警戒して用心する」との二者択一しか思い浮かばない。もっとも、本書を象徴する記述だと思う。
そしてこれが、現代を象徴する「ものがたり」ではないかと思い当たった。村山早紀という作家が描き出す自画像は、静かで、内向きで、友人を気遣い、コトが起こると自責の念に駆られ、外からの暴虐に身を固くして守りに入って、「(自分の関わる人たちに)迷惑を掛けてはいけない」と身を処す。自分の思いを隠すことなくさらけ出せるのはネットの、匿名のやりとり――これって、今の日本人の心情をわりと素直に表現しているのではないか。
一年前の秋葉原での選挙演説のとき安倍自民党総裁が「あのような人たち」と反対する人たちを排除するような発言をしたとき、「国民を分断する発言」とメディアは避難したが、そのときすでに安倍総裁だけでなく世論は、分断した世界に突入していたのだ。考えてみれば、村山早紀の描き出す自画像は、私たちが親世代から受け継いだ村落的共同社会における「道徳」のありようを示しているのではないか。そうして、相変わらずその殻に閉じこもりながら、しかし外から襲い来るさまざまな「外圧」を「害圧」と感じて排除してきた感覚ではないか。ヘイトスピーチと非難するが、それは、「外圧」に身を固める共同社会的徳目の人と同じ反応が、外へ向かって噴き出しているのではないだろうか。
つまり、私たちの親世代のありようと180度違う時代を迎えたと考えていた日本国憲法下の社会で70年以上過ごした今でも、結局私たちの社会規範を受け容れる根っこの心情は、変わっていなかった。180度違う時代は、じつは、異なる感覚や考え方をもった近代的市民が共存して、ともにつくりあげる社会であったはずであった。だが根柢的に私たちは、共同社会的な感覚を脱しきれず、異質な人々と共存する振る舞い方を身につけることもできず、せいぜい外から降りかかってくる障害に対して、身を固めてひっそりとやり過ごすか、断固たる排除の姿勢をとるか、その両極端を行き来しているだけではないか。つくづくそう実感している。
Seminarの場で「道徳は教育できるのか」と声を上げたのは、mykさん。そう問うたのがSeminarの終わりごろであったため、なぜそう思ったのかを聞くことはできなかったが、私は、そこまでのSeminarのやりとりを総括するもののように思った。人の生長と成長における規範感覚は、親からの受け継ぎにしてからが順接的なものとは限らない。ヒトは不思議にも、真似ると同時に、似ていることを嫌う。刷り込みといわれるように無意識のうちにある種の文化が流し込まれるが、それを否定するようにして自立への道を歩み始める。伝えたいというものが伝わらず、思いもよらなったことがいつしか伝わっている。古い時代の社会感覚のまゝ、とっくに変わり果てた新しい社会を生き延びようとしている。それが現在の私たちの姿である。
気が付いてみると、親とほとんど同じような社会感覚を私たちが保っているのでは、子どもや孫の世代にどうこう指図がましく言うことはできない。せめて、私たち自身の変容が、どうあったかなかったか。わが胸に手を当ててじっくりと振り返る秋(とき)が来ていると思うのです。(終わり)
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