2018年10月7日日曜日
シノビが保つ人の矜持
横山秀夫『影踏み』(祥伝社、2003年)を読む。図書館の棚で見つけ手に取った。この作家の『半落ち』や『64』を読んで、人を見る目に確かさを感じていたからだが、新作ではなく、15年も前の作品だった。人の奥行きの複雑さと玄妙さ、その根底のところで保たれている心情が、普通に暮らす私たちの忘れ去ってしまったことであるところが上手に描き出されている。面白かった。
泥棒をノビと呼ぶ業界用語というか、俗語があることは知っていたが、それがシノビから来ているとは思わなかった。「泥警」ではないが、その業界の人のつながりもなかなか興味深く書き込まれている。だが一般の通念に違わず、泥棒は警戒され差別され虫けらのようにあしらわれる。それを生業とする泥棒が、しかし、その心情において保ち続けている人に対する心根が、私たち現代人のすっかり忘れはててしまっていることを、浮き彫りにする。
忍び込むことそのものが、他人の日常をかき乱さず、脅かさないことを本旨とする。しかも金銭だけを抜き取るというのは、天下の廻りものをそれとして回す役割を担う。つまり人の暮らしの本質において決定的な喪失ではない。むろんこの小説は、泥棒の現代的正当性を述べているわけではないから、私の勝手な、触発された類推にすぎない。だが、そのシノビが、悲惨のどん底にいる見ず知らずの子どもに密かにクリスマス・プレゼントをすることであったり、子を棄てた父親に言葉を伝えることであったりするのは、今風の気風をはぐらかし、思わず己を振り返る切っ掛けをつくる。
昨日まで、このブログで取り上げていた「道徳」の本源ともいうべき、心の根柢に視線をやって人を見る、この作家の作風ともいうべき気配に諄々と共感を呼び覚ましつつ、読み終わった。
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