2018年10月8日月曜日
道徳は教育できるのか(5)矛盾的に生きているのが人間
道徳が社会規範であり、「心の習慣」として自ずから身につけるものというと自然主義的な傾きが強い。和辻哲郎が説いた、自然環境が民族の気質を決めるような響きすらある。自分自らの規範がどうかたちづくられたかを考えてみると、いつしか身に着いたことが多いことに気づく。ま、これは当然で、「気づく」というのは、すっかり成長して「自我」も出来上がってきてからだ。そこまでの、中高校生になったころまでの「わたし」には、育んでくれた家族や兄弟姉妹、地域や「くに」という「環境」が社会的気風として培う「かんけい」の文化が組み込まれ反映されている。「わたし」にとっては所与のこと、つまり自然である。
ちょうど私たちが言葉を遣って「関係」を取り交わし、自己を「世界に」位置づけるようになったことを考えてみると、分かりやすい。言葉は社会のものである。生まれ落ちた子どもは、親から兄弟姉妹から、地域の人たちや「くに」という「環境」が用いている言葉を身につけていく。鳥や獣の子どもが最初に目にしたものを親と思って付き従うのと同じで、私たちも付き従い真似て育つ。それは子どもからみると「おのずから」そうなるようにそうしているわけだが、大人からみると「しつけ」ている。「育てる」というのは他動詞であるが、「かんけい」的には同時に、「育つ」という自動詞も含まれる。つまりもともとは「育て/育つ」(自他の関係を分けて対立的に言うと矛盾的な)ことがひとつであった。西田幾多郎じゃないが、絶対矛盾的自己同一を私たちは生きている。それを私たちは「自然」と感じてきた。しかし人は自然に育っているわけではない。ヒトは人になるように育て/育つ。
極端に言うと、ヘレンケラーとサリバン先生の「かんけい」に象徴的に現れている。「奇跡の人」という映画で昔観たことが、今も印象深く記憶に残る。見えない聞こえない言葉を発せないという三重苦のヘレンケラーに、家庭教師のサリバン先生が「みず」という言葉を教えるときの「たたかい」は、まさに「戦い」といっていいほど壮絶であった。ヘレンケラーにとっては自己の感触だけが「せかい」であった。いや正確には「じこ」もなければ「せかい」もなかった。それはけものをふくめた動物と同じ。すべては与件であり、すべてはあらかじめ定められていて、それ以外は存在しないものごとであった。サリバン先生は、ヘレンの外部として、身体を張って力づくで立ちはだかる。掌に触れるものが「みず」であること、掌に感じるサリバン先生の感触が「みず」ということばであり、文字であることを認知したとき、ヘレンは「外部」を感知しはじめる。それは同時に「自己」の認知であった。つまり、「じこ/せかい」を認知することが人になる第一歩であり、その契機が「外部」によってなされることを、「奇跡の人」は示している。西欧の教育というのが、絶対的な外部を前提として出発していると思うのは、大人の子どもに対する容赦のない「教育」はヒトを人にする使命感に満ちているからだ。絶対矛盾的自己同一を生き抜くというのは、強烈な「反自然」的意思なくしては成し遂げられないと見切っているようだ。
tkさんの「(3)体罰をしたことはないか」は、この、大人の子どもに対する「しつけ」の段階を指していよう。大人は子どもに対して、強制力を持って「しつけ」る。それは子どもを保護することであり、子どもが人になっていく過程に不可欠の大人の義務でもある。「体罰をしたことがあるかどうか」は、したがって、自我意識を持った青年期以降の人に対する「教育」としては、違った文脈で語らなければならない。(義務教育を終えている)高校生以上の「教育」において「体罰」はどういう意味を持っているか、と。私は「体罰」を一概に否定はしない。身体を使って暴力を行使することを「体罰」というとすれば、言葉を遣った暴力もある。あるいは設えた「場」のシステムを使って強制力を発揮することも、見ようによっては「暴力」である。
教師をしているときに私が「体罰」を行使したことがないのは、ただ単純に、身体の大きな高校生に力ではかなわないと感じていたからである。だが、身体を通じてのボディ・ランゲージは、所作や振る舞い同様に、コミュニケーションに有効であると思っていた。肩を叩く、腕をつかむ、頭をなでる、手を取る、頬を軽くはたく。教師に対する敵愾心の強い生徒がいて、廊下を土足で歩いているのに気づいて、私が「ちょっと待て」と腕をつかんだとき、その生徒は「暴力だ、暴力を振るわれた。教師が暴力をふるっていいのか」と大声を出して、私を非難したことがあった。私は「問題をすり替えるな」とやり合ったが収まらず、担任と生活指導部と(のちに)親を交えてやりとりをして、生徒の非難が当たらないことをはっきりさせ、当の生徒を叱責処分したことがあった。生徒とのピリピリした緊張感が日常的であったころの、全日制高校での出来事である。
スポーツ選手の育成において「体罰」が発動されるのは、身体に直に伝えるコミュニケーション手段だからだ。コミュニケーションというのは、ことばだけではない。所作・振る舞いもあれば、ボディ・ランゲージと呼ばれる身体性の発動もある。触れる、撫でる、つねる、叩く、張る、蹴る、殴る、突く、倒すと、身体を通してのコミュニケーション手段も、たぶん強弱も含めて様々だが、それこそ言葉の精妙さに匹敵するほど多種多様。その多様さに応じて、伝えようとするコトもピンからキリまで分かれる。ことに体を使うスポーツにおいては、身体の遣い方を直に用いることが多いからだ。それをひとくくりにして、「体罰」と言ってしまうと、所作・振舞いではなく、身体を通して伝えようとしている「意味内容」になる。
「意味内容」は、送り手と受け手の「関係」によって異なってくる。送り手も受けても「誤解」することを、東浩紀という哲学者は郵便になぞらえて「誤配」と呼んだ。感性も感覚も両者の「関係」の受け止め方も異なる人間のあいだのことであるから、「誤配」は起こって当然のことだ。送り手のとったある所作を、受け手が「暴力」と思うときは、送り手の意思が外から投げ込まれている。受け手が「叱責」と受け取れば、受け手の視線は己の内側に向いている。このひとつの所作の持つ受け止め方のベクトルの違いが、先ほどのヘレンではないが、外から襲い掛かる(当人にはわからぬ、サリバンという)暴力と受け止めるか、(サリバン先生が伝えようとする)「みず」という言葉や文字と受け止めるかの分かれ目になる。つまり受容する方の心もちがコミュニケーションの半分の責任を負っている。逆の場合もある。送り手は強請りたかりをしているにすぎないのに、受け手の方は友達付き合いの仕方と考えていることもある。言葉が挟まるから、互いの齟齬が生じて、誤解が生まれている。しばしば「いじめ」がそうだが、そのすれ違いが、悲劇的な結末へ至ることもある。程度をわきまえないというのも、他者(が異なる感性・感覚をしている差異)に対する「関係」の感知が鈍くなっている証。関係感知の感覚、すなわち、こころが鈍磨している。
少しスタンスを変えて言うと、次のように言えようか。
あるボディ・コミュニケーションを受け手が「暴力」と思うとき、そのモンダイは送り手の変化・変容によって完結する。受け手の側には被害者を受けたという「正しさ」しか残らない。ところが「叱責」と受け止めるときには、それは受け手の内側に向かい、なにがモンダイであったかを己に問うようになり、自らの裡に完結する。このベクトルの違いが、コミュニケーションの深まりに大いに関係する。つまり、内省的に向かう言葉のやりとりこそが自己の輪郭を描き出し、それは同時に「他者」との差異を認識し、自らの立ち位置をマッピングする「せかい」を浮き彫りにしていく作業となる。そこにこそ、「関係」を認知する近代的市民という自画像を描き出す作用が働く。ここでいう近代的市民というのは、相異なる感性や考え方や社会的背景をもった異質な人々が、しかし平等・公平・対等な権利関係を保って関係を取り結ぶことを言う。互いに同質な共同体的社会は、すでに日本では崩壊した。そういう地点に、日本は来てしまっている。
今の都会の社会風潮は、外の鏡に映す自己表現に満ちている。いかにウケるか、「いいね」を手に入れるか、メディアに載るか。つまり自らの価値が外からの評価によって定まることを「自己実現」と考えている。つまり、自分の外において完結する回路に載っているから、つかめない「外の世界」が不確かであるように、跳ね返ってつかめるはずの自己像もとらえがたいものになる。自画像を描くように、自己の内面に視線が向かわない。そこに、現代社会のモラルの問題が発生している。
この「道徳」の問題は、たぶんひとつ方向から、一次方程式を解くように解を見出せる論題ではない。また、一般的にこうすればこうなると、国民や市民を画一化するかたちで解に近づくということもあり得ないと私は、思っている。文化の伝承のモンダイであり、同時に社会階層の格差のモンダイであり、近代社会の市民がどうかたちづくられてきているかというモンダイであり、私たちがどういうシステムを足場において暮らしを成り立たせているかというモンダイである。いろいろな局面のさまざまなモンダイを、一つひとつ、その都度俎上に上げて考えていくことによって、絶対矛盾の自己同一を生きる私たちの社会の気風を、揺さぶり動かすしかないのではないか。そう長年の教育現場の経験知は語っているように感じる。(つづく)
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