2018年10月26日金曜日

神なき里の心の負担


 昨日(10/25)の朝日新聞「折々のことば」。
《本来は自分がやるはずの自炊を、誰かが代わりに朝から働いてやってくれているから「たすかる」店だと。 按田優子》
 引用者の鷲田清一は、こうつづける。
《……「たすけて」は惨めで言いづらいが、「たすかる」なら素直に言える。「してあげる/してもらう」という心の負担なしに互いを思いやれる関係だから。》

 関係における「能動/受動」の醸し出す「心の負担」が、中動態によって軽減される。そう仕向ける思いやりが中動態に隠されていると、解釈している。意志が働くと、その意志の向かう先の人に心の負担をかける。見返りも何も求めず、ただ然るべくそうするという「たすく」行為が、それを受ける人にも天の恵みのように受け止められ、「たすかる」。この関係を自然(じねん)といい、私たちを取り巻くことごとに「神」が宿るように感じて過ごしてきた。それが「くに」に生まれ暮らしてきた私たちの宗教観であった。それを鷲田は「心の負担なし」という。神(への感謝)が消え、人が人びとと関わると考えられるようになって、「迷惑をかける/かけない」というようになった。須らく人もまた神仏になるという信仰が無くなった、神なき里の心の負担というわけである。


 今日の新聞では、シリアで拉致され解放された安田純平さんのことが大きく報道されている。朝日新聞「国際面」の記事で、
《安田さんは04年にイラクで拘束され、帰国直後に「自己責任だ」との批判を浴びたが、紛争地域取材の意義を主張し続けた。今回シリア入りする前の15年4月には自身に批判を寄せる人々に対し、ツイッターで「(戦場に)行かせないようにする日本政府を『自己責任』なのだから口や手を出すなと徹底批判しないといかん」と投稿していた》
 と、「自己批判」と国家の国民保護の責務とを対比してとりだしている。

 読み取る側からすると、論点の次元がずれている、と思う。安田さんは「紛争地域の取材の意義」を主張している。それに対して「自己責任」の批判をする人たちは「国家の国民保護の責務」から、国家の(紛争地域に近寄るなという)言うことを聞け、(聞けないなら)国家は「たすける」必要はないと展開している。この次元の違いをほとんど意に介することなく、朝日新聞という(紛争地域に記者を派遣せず、フリージャーナリストの危険地域取材に頼っている)大手メディアが、第三者面して審判に乗り出しているように見える。

 この限りでは、安田さんの論旨の一貫性が明確になっている。「自己責任」なんだろう? だったら(国家は)口を出すな。「たすけてくれ」と国家に頼んだつもりはない、というのかもしれない。日本国家(政府)の方も、どう「たすけた」かには言及しない。あたかも裏で解放に努力したかのように「関係国に感謝」するポーズをとった。私は、「たすける」のは国家の責務であるから、安田さんの意思がどうであれ、解放努力をするのが当然だと考える。国家と国民は「契約」によって結ばれている。「国民の権利」というのは、誰彼の思想信条の違いを扱いの根拠にしないことを保障している。「自己責任」で行動しているもののために、私たちが支払っている税金を使うなと声高に言うのは、「国民の権利」である。だが、政府がそれを言っちゃあ、お仕舞えよ、なのだ。

 この違いにあるのは、国家と社会が互いに関係しながらかたちづくる場を異にしている自覚である。安田さんと税金を納めている国民とは対称的な関係にある。だが、国家と安田さんは非対称だ。国家は安田さんに(暗黙の裡に)強制力を行使している。その強制力に限定をつけているのが憲法に保障する「権利」だ。憲法前文を引き出す必要もなく「永遠不変の権利」と規定されている。つまり、国家が強制力を行使する限界を示しているのだ。この非対称性があるから、私たちはパスポートをもって海外へ向かい、事故あるときは、海外にある大使館や公使館が邦人保護を行う。そういう「契約」だと考えたら、非対称性が理解できる。

 逆の側から言うと、安田さんの救出に税金を使うなと批判する市民は、国家と社会を区別していない。同時に、国内関係と国際関係をあまり区別していない。海外に出るということは、基本的に自国の管轄外に身を置くことを意味する。法的にも社会的にも安定な身分関係に立ち入るというのは、相手国との「契約」関係だけが、唯一の保障装置である。相手国の社会の人々は、日本という国の「関係」がもたらした「印象」で相対しているわけであるから、基本的に不確定である。それを外務省は四段階に区分けして安全性を表現しているにすぎない。パスポートを発行するというのは、海外で行動することを最大限保障するという証である。むろん(旅する人は)海外の国家が加える制約は守らなくてはならない。だが、海外にも非法な集団は数多(あまた)いるし、イラクやシリアのように、どこの発する法的な規制がどこまで通用しているかグレーな地域は数えきれない。そしてそここそが、ジャーナリズムの関心事だというのが、拉致事件の背景にある。とすると、こうした事件に直面しての(諸国家や市民の)振る舞いこそが、「権利」の実質的なありようを示す事例になる。アメリカがアメリカ人の振舞いの(逮捕された神父の)裁定に関して、当事国の法制度などにお構いなく「釈放」を無理強いすることは、トルコとのやりとりを見ていれば、よくわかる。日本国政府も、その程度の強引さを自国民保護として持ってもいいはずなのだが、いつも遠慮がちな姿勢しかみてとることができない。国際関係における自国政府と関係国とのやりとりもまた、ケースバイケースで、一つひとつ具体的な事例に即して積み上げられていくもの。その一つ一つに、自国民に対して「自制を促す」だけでは、危うきに近よらずという消極的な保護意識しかみえないとも言える。

 2014年になるか、ISにとらえられた二人の邦人の一人、ジャーナリスト・後藤賢二さんのことを思い出す。先に囚われた湯川遥葉さんを「探しに入った」という後藤賢二さんがとらわれたとき、ずいぶんと日本国内から非難を浴びせられた。彼の家族が「救ってください」と声明を出そうとしたとき、そんな声明を出すのはおかしいと非難が出たように記憶している。そのとき誰であったか、日本社会自体がオカシイのであって、イスラム社会でも、肉親の「たすけて」という声は世界どこにでも通じる助命嘆願の声、日本人がそれを発しないのは、それほど助命を願っていないのかと受け取られると批評していたのが印象に残る。またそれ以上に、佐藤優がどこかで「藤賢二さんは神の声を聴いたではないかと思う」と行っていたの記憶に残る。つまり、プロテスタントの日本基督教会に属していた後藤賢二さんが、「湯川遥葉さんを探しに行け」という神の召命をうけてシリアに入ったというわけだ。とすると、近代的な法制度や権利関係で交わす言葉とは違った次元で、やり取りをしなければならない。日本社会が、絶対神を奉ずるキリスト教やイスラム教と違う世界をつくっていることを、改めて感じる。神なき里の心の負担が、じつは、3億円という税金の使い方次元の話になるのであれば、どれほどの無駄遣いを政府がやっているか、ちょっと考えてみるだけで、少しも惜しい話ではない。よくぞ生きて帰ってきたと、言祝いでいる。

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