2018年10月15日月曜日

上向きに生きる力の源泉


 今年の五月、シルクロードの旅に行ったときのことを記した。十数年前から何度か中国を訪ねている。そのときどきの社会と人々の変貌に目を瞠る思いがしてきた。地域ごとの違いも大きいものがあるから一概には言えないが、蘭州から敦煌にかけての旅の途上では、近代化が急速度で進み、それに見合ってか、そこに暮らす人々の振る舞いも、しっかりとスマートになっているように思えた。その変化は、私たちが経てきた1970年代の変貌に似ていると私は感じた。昨日よりは今日、今日よりは明日がよくなるという「希望」があったからだと、振り返って思う。その「希望」は、後にエコノミック・アニマルと批評される類のことではあった。だが、「一億総中流」と名づけられるほど(おおむね)どなたもが潤い、暮らしがよくなる感触を持つことができていた。


 人びとの暮らしがよくなってのちに、街の様子が瀟洒に変わっていったのは1980年代になってからであった。十数年前の中国の空港や町や村のトイレには辟易したが、日本のトイレも1970年代頃は、それと変わらず汚かったのである。バブルの真っ盛り、1980年代の後半に「ふるさと創生」とか言って市町村に1億円をばらまいたことがあったたりから、1990年代にアメリカからせっつかれて「国内需要創出」が声高に叫ばれ、多額のお金が注ぎ込まれるようになってから、街並みがきれいになっていったと記憶している。ま、逆に、日本中どこへ行っても同じような景観の街並みが現出したのではありましたが。

 と、そんなことを思い出して「シルクロードの旅」を見返していたら、昨日までかいていた「社会規範の移り変わりに適応しようとする人々の悲哀」を書き留めていた。もう四か月前のことになる。お忘れでしょうし、再掲します。結局、上向きに生きる力が、「道徳」の源泉のように思うのですが、どうでしょうか。

2018-6-12  シルクロードの旅(補)変化途上の人間の悲哀

 昨日(6/11)シルクロードの旅の打ち上げ会があった。久々に熊谷まで足を延ばし、駅近くの民家の中の料理店で会食し、同行した人の編集したビデオを見、写真を頂戴し、旅の味わいをたのしんできた。私は、この「旅の記録」を16ページに収めてパンフレットにし、皆さんにお配りして勘弁してもらった。そうしてふと、書き落としていると思い出したことを記しておきたい。その料理店から駅へ戻っているとき、私が横断歩道を渡ろうとしたら、誰かが「危ないよ! ここは蘭州じゃないからね」と声をかけ、やってくる車をみながら皆で笑った。それほどにシルクロードの道路は「歩行者優先」が徹底していたのだ。

 蘭州であったか張棭であったか敦煌であったか思い出せないが、ホテルの部屋で点いてしまったTVの画面に、出発しようとする新幹線のドアにしがみついて何やら叫んでいる女の人がいて、それを引きはがそうとしている制服姿の職員が写り、テロップも出ているが、なにが起こっているのかわからなかった。翌日、ガイドに聞いたら彼はその出来事をよく知っていて、次のようなことを話してくれた。

 新幹線に乗ろうとしていた家族。荷物を持ったご亭主がチケットをどこへやったか探しているうちに妻と子は改札を通り車両に乗った。ところが出発時刻になってもご亭主が来ない。妻は出入口に構えて、ドアを押さえ「亭主がまだ来ない!」と叫んでいたそうだ。それを排除しようと公安が介入していたのが、TV画面の騒動であった、という。ガイドの話はさらに続く。その妻が小学校の教師であったことが分かり、非難が殺到。彼女は首になったという結末。ガイドは、その妻の独善的な振る舞いを非難して、首になるのは当然ですよねという調子であったが、私は一瞬、その妻が気の毒になった。

 以前にも話したことがあるが、九塞溝を訪れたとき、園内のバスに乗ろうとして一番前に並んでいたのに、乗れないことがあった。横合いから殺到した人たちがわれ先に乗り込もうとしたために、狭い入口でつっかえて動きが取れなくなった。係員が来て、割り込む人たちを引きはがして、どうやら乗り込み出発したのであった。そんな中国人を見ていて、いやだなあこの人たちは、と私は思っていたが、上記の妻の振る舞いは、その割り込む人たちと似たような心情であったろう。他人に迷惑をかけないことを道徳律の主要項目にしている私たち(日本人)にはなかなか理解できないが、いつもまったくの他者と暮らしている中国人には、わが利益を優先するのは自然なこと。独善的というよりは、自己主張なのだ。

 デジタルがこれほど大衆化しない時代であったら、彼女の振る舞いは、ひとつのローカルな出来事と受け取られたであろう。もちろん地方政府は「道徳律」として「あなたの小一歩は文明の大一歩」と諭すように喧伝したかもしれないが、彼女の仕事にまで及んで「首にする」話にはならなかったに違いない。ところが、スマホで撮影されて電波に乗り、彼女の「仕事」がすぐに明らかにされ、それに対応して非難が殺到し、地方政府が彼女の「職」を奪う結果になった。気の毒にと、かつての振る舞いに嫌悪感を感じていた私も、同情を禁じ得ない。

 彼女は、それまでの社会的な振る舞いの延長上にわが身を置いていたにすぎない。社会システムにはそうでもしなければ抵抗できない、わが自己主張ができない時代を生きてきたのだ。いわば体の習慣である。ところが時代は、どんどん先へ行って、独善的な振る舞いは掣肘を受け、自己主張も権力によって押さえられてしまう。そういう社会に変わっていっているのだ。まさにその途上に出来した場面が、これであった。

 中央集権的な「道徳」というのは、社会の変化に比して急激である。社会の変化がもたらす緩やかな変化は、衣食足って礼節を知る如くに、人々の暮らしが変化しそれに応じて諄々と振る舞いが変わってくる。大衆社会の文化的変貌に歩度を合わせている。ところが中央集権的な「道徳」は強権的である。一挙に「道徳」を提示し、変えよと押し付けてくる。ミシェル・フーコーのいうパノプティコンである。囚人たちにいつも見られている自分を意識させることで、自らの振る舞いを規制させる。

 それほどに暮らしが変わっていないのに、「道徳」だけ変えよというのか(と思っているかどうかはわからないが)。人の身体はそれほど容易に変えることはできない。「人に迷惑をかけない」という道徳律にしてからが、顔見知りの共同体感覚であろう。だから共同性を一歩出てみれば、「旅の恥は掻き捨て」のような俚諺も広まったのだ。だが中央権力による「監視」と大衆社会のデジタル化(情報社会)によって、パノプティコンは、一挙に広がる。しかもそれは、コンピュータのアルゴリズムにしたがって組み立てられるから、人々はあいまいな領域を残すことなく「イェス/ノー」によって仕分けられ、その社会システムに適応しなければならなくなる。日本の社会なんかは、とっくにそのように「適応」してきている。ただ中央集権的権力が、目下腐朽し腐敗して、でも平然としているから、「道徳」の振れ幅が勝手に広がっているにすぎない。

 まいったねえ。こんな社会にしちまってさ。今朝、目が覚めて、そんなことを思った。
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