2018年10月23日火曜日

改造人体と人体の構造


 「トミー・ジョン手術」と聞くと、大谷翔平を想い起す。だが、トミー・ジョン手術というのがどういう手術かを私は知らない。剛速球を投げると傷めてしまう肘か肩の人体補強手術と思っていた。少し詳しくというか精確にきくと、剛速球を投げるために断裂する肘の靱帯を取り換える手術のようだ。別の組織からもってきた筋を移植し、新しい靱帯として使えるように養生して育てる。この養生に一年半ほどかかるという。これって、でも、ドーピングとどこが違うの? と思ったね。傷めてから取り換えるか、限界を超えるために薬剤を服用するか。いずれにしても、人体の弱点を目的に合わせて(人工的に)改造するってことではないか。ドーピング違反のモンダイもパラリンピックの記録が健常者のそれを越えることもおころうから、そのとき人間ってなんだとか、人体ってどこまでを「パラ扱い」するのかってことも、これから大きな問題になってこよう。


 今月の「ささらほうさら」の講師はwksさん。お題は「医療世界に接して」。彼の伴侶が骨粗鬆症と股関節に人工関節を入れることになった、この一年半ほどの「医療過程に接して」考えたことを「報告する」というもの。でも実は、奥方のそばにいて、居ても立っても居られないもどかしさを晴らすために、治療として医者は何をやっているのだろうと、興味津々で調べ廻ったことを「報告」する格好になった。だから、奥方がそれをどう受け止めたかという感懐は顔を出さず、患者向けの「説明書」や医師と(たぶん彼と)のやりとりから派生した関心事を、さらにネットで調べ本を読み解いて、自分が納得できる回答を見つけようとした経過であった。

 冒頭に仲正昌樹『自己再想像の<法>――生権力と自己決定の狭間で』(お茶の水書房、2005年)を引用して、(医師は)患者にとって最善の治療をすることのみを念頭に置いているわけではなく、医学全体の進歩に貢献することを使命としていることを、論題とする。薬剤の治験や医療技術の習熟のために行われる「治療」を患者はどう受け止めることができるか。そう問題意識をもって切り込んでいったかに見えた。仲正の著書は2003年頃問題になった金沢大学医学部付属病院の無断臨床試験訴訟を契機に、書名の副題になった哲学的問題を論じたものである。

(1)骨粗鬆症医薬品テリポン(テリパラチド)の一年半に及ぶ投与を経て、奥方に現れる(低い)効果との違いに疑念を感じながら、その効果と副作用とを調べる。さらに医薬法による新薬の特許期間と治験期間、じっさいに新薬として用いられる期間をみて、製薬会社がその一部に手を入れて「新新薬」として申請していることを突き止め、その審査機関である「独立行政法人医薬品医療機器統合機構」との関係に思いを巡らす。私などはこれまで考えたこともなく、知らないことがつぎつぎと明かされて、仲正昌樹の論題にまで考えが及ばない。
 ただ、新薬の治験を患者に断っているにしても、(この方が、治療に効き目があるはず)という信念を医師がベースにしていることは(患者としては)信じるしかない。新薬開発と金儲けとの蓋然性だけを取り出して「治験」に臨んでいると考えると、患者としてはやり切れない。この辺りのことを「インフォームドコンセント」と一括されて論題にされても、そこは「信じる/信じない」という二者択一では、まったく次元を異にして判断しているというほかない。
 あなたは信じているのかと問われると、半ば信じ、半ばあきらめていると応える。「生権力」という時代のモメントも社会システムに任せる外ないという庶民の無力をベースにしている。この医師が信頼できるかどうか、この薬が効くか効かないかという次元では、私の感触は漠然とした肌合いでしかない。今私のかかりつけ医は、内科の看板を掲げた60歳前後の循環器専門医だが、「山は歩いていますか。ははあ、ご自分でそう気遣っているのでしたら、心配いりませんよ」と診たてる。実に大雑把、そこがなんとなくいい感じだ。素人は黙って専門家に任せる。運不運はつきまとうが、だからといって自己決定できるほど、自分に対する信頼ももてないからだ。

(2)人工関節の仕組みと手術の仕方も、知らない世界に案内されるような心持で話を聞いた。人工関節手術の「名医」といわれる病院が日本で三カ所しかないというのも驚きであった。この程度の数でこなせるのか。骨盤と脚骨の繋ぎ目に人工関節を入れる。その人工関節が「ボール」と呼ばれるベアリングをおき、軟骨の役割を果たす超高分子ポリエチレン製のライナーで覆って稼動する関節部とし、ステムとソケット名づけられた関節を骨に固定する部分に挟む。しかも、骨盤と脚骨とをつなぐ筋は残す。手術の時の出血に対応できるように自前の血液を事前に保存しておく。じっさいの手術はほとんど出血をみることなく3時間半ほどで運んだというから、動脈や静脈を上手に回避して骨盤に達する手法は、十分手慣れたやり方になっているのであろう。そう聞くだけで私は、感服して全面的に任せる気持ちになってしまう。
 大谷翔平の「トミー・ジョン手術」というのも、これくらいの軽い手術なのだろうと思った。何しろ、大リーグ投手の1/3がしているという。何をどうするかを知っていても、患者は全面的に医師に任せるしかない。そのとき患者は、たぶん最良の結果がもたらされることを期待している。だが外科的医療とは言え、患者の体質や体調、自己回復能力、運動選手であれば予後のリハビリの仕方や使う程度によって決定的に異なる結果になることも考えられる。私はそうしたことをすべて含めて、運否天賦のもたらすものと、いくぶん神だより的に受け止めている。講師のwksさんは、もう少し機能的に、システマティックに事が運ぶように考えているような気がした。たぶんその人の持つ人間観が左右しているのであろうが、そのあたりの気質の違いに踏み込むと面白いかなと思った。

 仲正昌樹の論題はインフォームドコンセントにおける患者の意思決定と自由のモンダイに踏み込んでいるのであろうが、wksさんのように、自ら深く調べ、何がどうなっているのかを取材するようにして解明していく姿勢をもたないでは、単に医師の提示するあれかこれかをエイヤッと選び取るだけの「意志決定」にすぎない。「生権力」というのが、システムとして治療を施し、健常に長生きをさせることを志向するものだとしたら、治療を受けないと決断する「自由」なのだろうと思う。ま、いつだって与えられた枠組みの中に実存する「自由」しかなかったわけであるから、「全き自由」などと夢を描いても詮無いこと。せめて、所与の与件というのがどういうものであるか、それを知っておきたい。そしてやはり、運を天に任せるようにして生きているのだと実感できれば、まあ、上出来の部類だと思っている。

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