2019年10月12日土曜日

ロゴスではなく直感を介在させる思索


 山際寿一×小原克博『人類の起源、宗教の誕生』(平凡社、2019年)を読む。「ホモ・サピエンスの「信じる心」が生まれたとき」という副題。山際はゴリラの研究者。小原はキリスト教の宗教学者。同じ京都にある大学の教授ということもあって、縁があったのだろう。対談と、それぞれの記した「補論」とで構成されている新書本。面白かった。


 山際寿一がこれほどゴリラ研究から出発して人間世界全般を論じるようになっていることを知って、ちょっとした驚きであった。さすが京大の総長だけのことはある、とまず感心した。ゴリラに関する彼の研究は目にしたことはあったが、それが起点となって人文理科学の全般に及ぶゼネラリストのように、縦横に発言している。いや、学問っていうのはこうでなくちゃならないと、興味津々の素人好奇心は前のめりになっている。まるで「教養学」のお手本のような発言ぶりで、頼もしい。
 二人に共通するスタンスのひとつが、からだに刻まれた文化性から発想するスタンス。小原のことばを引用する。

 《人間がもつバーチャルなものへの根源的な志向性を最大限生かし、そのプロセスの中で身体性というリアルな土台を繰り返し確認しながら、バーチャルとリアルの間を自由に行き来できる新しい身体作法、身体バランスを生み出す場に、大学がなればと思いますね》
 《身体性は、今後の多文化共生社会を考える上でもキーワードになります。身体性が軽視されると、弱者への共感も生まれないでしょう。身体性が希薄になるバーチャル空間で他者の痛みへの想像力が減退すると、平気で差別発言をしたり、分断をあおる言葉が拡散していきます》

 「バーチャルなものへの根源的な志向性」というのが、目に見えないものへの好奇心・探究心だ。ヒトはことばを媒介項にして、その志向性を外化し共有してきた。そのとき、そこにいたるプロセスすべてが身体に刻まれ(それを通じて)リアルと感じられることによって認知され、と同時に、ことばにすることによって感性・感覚が変容・変質もして、実存の土台をなしてきたと、見ている。その「世界認識」は、これまでこのブログで私がことばにしてきたものと、ほぼ同じことを指していると受け取った。もちろん、うれしい。

 山際は、その一つ一つをゴリラの振る舞いを通してみてとったホモ・サピエンスのありように翻訳する。「信じる心」の起点に、ゴリラが手に入れて持ち帰った獲物を分け合って、仲間で食する行為を置く。「信じる」ことが介在していなくてはあり得ない社会的振る舞いであり、ことば以前のコミュニケーションの原点とみる。たしかに言葉によってホモ・サピエンスの「志向性」は展開してきたが、その基本が「直感」にあると山際は見て取る。ことばをも通じてコミュニケーションしているのも、ことばの意味内容を伝達することより以上に、関係を読み取る「直感」が磨かれてきたことに山際は意味を見いだす。つまり、ゴリラの群れにおける「かんけい」を離脱してホモ・サピエンスの「かんけい」にもち来り、ことばを介在させるようになったことによる「直感」の変容・変質に思いをいたして、現代の実存へ言葉を紡ぐ。しかし、言葉を用いながら、ロゴスによるのではなく直観によって紡がれていくことに、私は慥かさを感じている。

 私たちの実存の原基に立ち戻ってものごとを思いめぐらしている気風を好ましく思っている。その好ましさは「ふるさと」に触れている感触なのかもしれない。

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